第34話 博士の慟哭

「その先は、私が話すよ」


 横から声をかけられて、ヒデヨシは身を跳ねさせる。ナビィが悲痛な表情で、こちらを見ていた。


 彼女は寄る辺を求めるかのように、ヒデヨシの手のひらを掴む。


「記憶が戻ったのか?」


 ナビィはこくり、と頷く。

 見たことのない表情をしている。

 人間としての厚みが増したという表現が近いだろうか。


 彼女は薄く息を吐くと、躊躇いがちに口を開いた。


「あの人……ハヤカワ博士はいつも『自分を愛してほしい』って言ってた。名前を呼んで、頬に手を当ててキスをして。あの人が望む通りに、私はしてあげた。だけどそうすると、あの人は泣き崩れるの、違う、そうじゃないんだ、って」


 ナビィは悲しそうな顔をしている。


 これは「悲しそう」に見える表情を作っているのだろうか。

 ここまで読んだ記録では、彼女が感情を持ったという記述はなかった。


「……どんなに完璧に作り上げても、お前は博士の妻の『ナビィ』になりきれなかったんだな」


 ヒデヨシがそう言えば、彼女はキュッと唇を結ぶ。


「わかろうとしたよ。だけど、たぶんそのときの私は、本当の意味で『愛する』ってことが、わかんなかったの」


 ナビィの瞳から涙が溢れる。正しくは、人工涙液が。


「それは、悲しくて泣いてるのか」


「うん」


 それはつまり、やはりナビィには、感情が備わっているということ。

 ヒデヨシは複雑な気持ちになりながらも、ナビィに問いかける。


「……いつから、感情がわかるようになったんだ」


 ナビィは、くしゃりと顔を歪めて笑った。触ったら壊れてしまうような、悲しみに満ちた笑顔で。


「博士が……死んじゃったときだよ」


 その言葉を聞いて、心が潰れそうだった。ナビィは唇をかみ、ポロポロと流れる水分で床を濡らす。

 感情が芽生えた瞬間の彼女の気持ちを思って、ヒデヨシは自分の額に手を置き項垂れる。


「……そうか」


 ナビィは、部屋の隅にあったベッドの前に向かい、枕元までかけられていた布団をそっと剥いだ。


 ヒデヨシは、布団の下から現れたものを見て、息を呑む。朽ち果てた博士の骸がベッドに横たわっていたのだ。


「たぶん、アルツハイマーだったと思う。だんだん、現実と夢の境目がわからなくなっていって。最後は私を本当の『ナビィ』だと思い込むようになって。ベッドからも起き上がれなくなって、衰弱していって」


 ナビィは、涙のコントロールができないようだった。子どものように両手で目の辺りを拭いながら、彼女は言葉をつづける。


「博士の目から光が消えて。動かなくなって。この世界にひとりだけ取り残されたんだって思ったら、胸が苦しくなった。そんなこと初めてで。人工涙液は勝手に流れ出すし、コンピュータは誤作動を起こすし、全身に電流が走っているみたいだった」


 たとえナビィが、愛する夫という意味でハヤカワ博士を「愛して」いなかったとしても。博士はナビィの親であり、この世でたったひとりの家族だった。


 かけがえのない家族の命の灯火が消える瞬間を目の当たりにし、二度と会えないのだと理解して。ナビィは「感情」を理解したのだ。


「悲しい、とか絶望とか、苦しいとか。そういうのがどういうのだかわかって。博士にもう会えなくなっちゃったっていうのが悲しかった。愛してあげられなかったことが、申し訳なかった。最後まであの人は……私に、『ナビィ』に、自分を愛してもらうことを、願ってた」


 ヒデヨシはナビィを抱きしめた。抱きしめずにはいられなかった。


 –––記憶が戻る以前も。こいつは「人間を愛してみたい」と言っていた。


 それが、彼女がこの世に産み落とされた意味で、背負わされた宿命だった。記憶がなくなっても、その宿命は彼女の中から消えることはなかった。きっと、それがプログラムの軸に刻まれているからだ。


「ヒデヨシ、ごめん。好きだって言ってくれたのに。アンドロイドで、ごめん……。あなたのことも傷つけちゃった。博士のことが辛くて、悲しくて。自分で記憶を消したの。自分で電源を切って……。ここでずっと、博士と一緒に眠るつもりだった」


 彼女の体は、温かかった。肌は柔く、とても作り物だとは思えない。

 それはハヤカワ博士が、自分の最愛の人を、生涯を賭けて再現したから。微笑みも、泣き顔も、恥ずかしがる仕草も、おどけた顔も。


 彼女は妖精のように美しく、清らかで、愛らしい。死者は思い出の中で美化される。きっと博士は、「ナビィ」に美しい思い出のすべてを詰め込んだのだ。


 ––––俺は、他人の妻の「残像」に恋をしていたのか。


 ナビィに感情はあった。だから彼女が自分にむけてくれた熱は、きっと本物だ。

 それでも、やはり複雑な気持ちは拭えない。この先彼女にどう接したらいいのか、どう生きていくべきなのか、わからない。


 ––––まだ気持ちの整理はつかねえけど。守ってやりたいとは思う。このままこいつを置いていくような真似はしたくない。


 ヒデヨシの腕が緩む。それに気づいたナビィは、彼の顔を見上げて、そして、体を離した。


「ごめん……気持ち悪いよね」


「いや……」


 そんなことはない、というひと言が言えなかった。


 たとえナビィがアンドロイドだったとしても、変わらず愛していると、そう、言い切ることができなかった。


 刹那、上部から爆発音がした。

 咄嗟にヒデヨシはナビィを庇う。

 崩落してきたペニヤ板を避け、穴の開いた天井を見上げる。

 舞い上がる粉塵の向こうから現れた人物を見て、ヒデヨシは舌打ちをした。


「話は終わったかい」


「ルカ……」


「開発データを閲覧することができたみたいだね」


 彼の背後には、サラと、ボディガードのふたりが控えていた。

 睨み上げるヒデヨシを前に、ルカは口元に薄く笑いを浮かべていた。



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