第38話 別れ

 貧民街の仲間たちのお祭り騒ぎのおかげで、追手の姿は見えない。

 街はどんどん遠ざかり、今はもう陽炎の向こうへと消えている。


 緊張感から解放され、ようやく息をついたらしきヒデヨシは、見慣れぬ廃墟の前で、スクーターを止めた。


「ここで少し休もう」


「そうしよ。ヒデヨシ疲れたでしょ」


「まあな」


 この廃墟の電源系統は壊れているようだった。日差しは陰ってきているが、まだ暑い時間帯だ。ヒデヨシとナビィは建物の中に入り、出入り口に向かって、並んで腰を下ろした。エアコンがないのはヒデヨシにとっては辛いだろうが、陽の光が当たらないだけましだろうとナビィは思った。


「ねえ、これからどうするつもり? きっと、ずっと追われるよ。私がいる限り」


「別の都市まで逃げるしかない。そこでしばらく大人しくして、ほとぼりが覚めた頃に、また別の大都市へ移動して、そこで仕事を探すのがいいだろ」


「ヒデヨシはそれでいいの……その」


「なんだ、はっきり言えよ」


 ナビィは唇を噛み、押し黙る。


 ––––なるべく避けてきた話題、だけど。


 自分の記憶は戻り、ヒデヨシも今、すべてを理解している。

 ナビィがアンドロイドでなければ、思いを伝え合うはずだった。

 変わらずヒデヨシはナビィに優しく接してくれるし、守ってくれる。


 ただ、言い表せない距離感が、ふたりの間にできてしまったことをナビィは感じ取っていた。


「感情はあっても、私、アンドロイドだから」


「……ああ」


 ナビィの言いたいことを、彼は理解したらしかった。ヒデヨシは眉間に皺を寄せ、前を見ている。言葉を発そうとして口を開き、やめて閉じるという動作を繰り返す。葛藤が見てとれた。それを感じ取って、ナビィの心は沈む。


「悪い、俺……。まだ、心の整理がつかなくて。その、もう少し待ってほしい。でも、お前のことを守るっていうのは、もう決めてるから。だから、途中で見捨てたりはしない」


「わかった、あの……」


 記憶が戻った今でも。私は、変わらずあなたが好きだよ。ずっと一緒にいたいと思ってる。


 伝えるはずだった言葉が、宙に浮いて消えた。

 今日言わなければ、伝えられなくなるかもしれない。それなのに。傷つくのが怖くて、拒否されるのが怖くて。


 どうしてもナビィはその言葉を口にすることができなかった。


 そのとき。


 ヒデヨシがあたりを伺い、耳をそばだてた。


「おい、エンジン音が聞こえないか」


「え、嘘」


 ヒデヨシの言葉に、体が緊張する。

 意識を外に集中すれば、たしかに遠方からエンジンの音が聞こえた。


 ヒデヨシは立ち上がり、建物の中を確認した。避難路を探しているようだ。

 もしもこちらに向かってきている車両が追手のものなら、正面から出れば鉢合わせてしまう。


「……裏口の鍵が壊れてる。念のため裏から出よう」


 ドアが壊れて吹き曝しになった裏口から、スクーターを発進する。

 次の街まではだいぶ距離があった。まだ十分に休めていないヒデヨシの体が心配だ。


 ナビィはしっかりとヒデヨシの腰に手を回しつつ、背後に顔を向けた。走ってくる車の姿を見逃さないように、目のカメラの焦点を遠方に合わせる。そして視界に入った車両を見て、ぎくりとした。


「ヒデヨシ、サラのジープだ。ルカとサラたちが乗ってる」


「はあ? なんでだよ。貧民街でルーダー社の奴らは撒いてるわけだし、どうやって居場所が……」


 そこまで言って、ヒデヨシの体が硬くなったのをナビィは感じた。なにかに気づいたらしい。


「なあ、ナビィ」


「なに?」


「サラを拘束したとき、なにか仕掛けられたりしてねえよな?」


「え」


 ハヤカワ博士の屋敷に行ったとき、ナビィはサラに抱きつき、ヒデヨシがスタンガンで彼女を昏倒させた。


 ––––あのとき、彼女になにかされた感触はなかったけど。まさか。


 ナビィは片手をヒデヨシの腰に回したまま、もう一方の腕で自分のズボンのポケットを探った。すると指の先に、なにか硬いものが当たった感覚がある。それを取り出し、手の上に乗せて確認すると、ナビィはヘルメットをヒデヨシの背に押し付けた。


「ごめん……ポケットにGPS発信機が入ってた」


 ナビィは悔しげに、小さな機械を地面に強く放り投げる。

 ヒデヨシは深呼吸をしたようだった。


「……仕方ねえ。相手はプロだ。簡単にやられちゃくれないってことだな。サラは一度お前を見失ってるし、同じような事態に備えてたんだろ。俺も、甘かった」


 絶望感がふたりを支配する。もう、逃げ場がない。

 サラの車は、グングンと速度をあげ、ヒデヨシのスクーターに真っ直ぐ向かってくる。ナビィはヒデヨシの腰に巻きつけた腕に、力を込めた。


 ––––考えなきゃ。もう余裕がない。選択のときだ。


 本当はずっとこの人と一緒にいたい。離れたくない。

 だけどヒデヨシは人間で、ナビィはアンドロイドだ。結婚することも、子どもをもうけることも叶わない。ナビィはずっとこのままで、ヒデヨシはやがて老いていく。


 そしてまた、ハヤカワ博士のときのように別れがやってくる。

 ナビィといる限り、彼はずっと逃げ続けなければならない。ナビィの正体がわかれば、ルカだけでなく、他の研究者やごろつきにだって、きっとどこでも追われる。


 ––––今ならまだ、ヒデヨシを自由にできる。


 そう考えたら、ナビィの心は決まった。

 大切な人を、唯一愛することができた人の人生を、そんなふうにはしたくない。


「チッ、あいつら、追いついてきやがったか! クソ野郎どもが」


 ジープは真うしろまで近づいてきていた。アクセルを全開に踏み込んでいるようで、みるみるうちに距離が縮まっていく。窓から、狙撃手らしき男が顔を出していた。スクーターを狙っているように見える。


「マジかよ……」


 次の手を考えているらしきヒデヨシにむけて、ナビィは極力平静を装って声をかけた。


「ヒデヨシ、この先に、あの人たちを撒くのにぴったりの場所があるよ」


「お前がこの辺の地理に明るいとは思えないが」


「もう記憶が戻ったんだよ? この国の地図データだってちゃんと頭の中に入ってる。あのハヤカワ博士の研究の集大成なんだもん、私賢いの。逃げ切る案は、いくつもある。誘導するから、とにかく走って!」


 ヒデヨシは黙った。思案しているようだ。しかしもう考えている余裕はないと判断したらしい。意を決したように、ナビィに応えた。


「よし……お前を信じるからな!」


「この高性能アンドロイドに任せておけば、バッチリ逃げ切れるよ!」


「ずいぶんな自信だな。逆に不安になる」


「ひっどーい!」


 明るくカラカラと笑うナビィの声を聞いて、ヒデヨシが頬を緩ませたのがうしろから見えた。その様子を見て、胸の奥が詰まるのを感じる。


 ––––ごめんね、ヒデヨシ。


 スクーターの背後からは変わらず、ジープのエンジン音が聞こえている。


 ナビィがうしろに乗っているため、ルカたちも下手に発砲ができないらしく、今はひたすら、振り切られないように走っているようだった。並走されないようにヒデヨシが蛇行を繰り返しているのが、功を奏しているらしい。


「おい、ナビィ。目的地の情報を教えろ。どういう場所なんだ」


「とにかく真っ直ぐ。真っ直ぐ走って」


「……おい、この先は岬だぞ」


「目的地は、そこであってる」


「あってるって、行き止まりじゃねえか。崖だぞ! 心中なんかごめんだからな」


「心中なんかしないよ。逃げ切るんでしょ、一緒に」


 ––––ごめんね。


 ヒデヨシのバイクは、岬に向かって加速を続けていく。


「このまま、海へ飛び出して」


「はああ?」


 ––––敵までの距離、高度、タイミング、計算中……生存率、十パーセント。これじゃだめだ。


「おいナビィ」


 ––––敵までの距離、高度、タイミング、再計算中……生存率、三十パーセント。これでもダメ。


「聞いてんのか!」


「待って、今計算中」


 ––––敵までの距離、高度、タイミング、再計算中……生存率、九十パーセント。もう、これしかないよね。


「あそこ、少し、海に向かって窪んでるとこ。あそこを目指して。飛び出して」


「おいおい、なに考えてんだよ」


「大丈夫、死にはしないから。加速して。ちゃんと計算してるから」


「本当だろうな」


「ほんとだよ。海面に着く直前で、スクーターを手放して。ここの潮流は、近くの砂浜へ向けて流れてる。着水したら、崖に向かって右手の方へ向かって泳いで。ちゃんと計算したから。ふたりとも助かるよ」


「わかった」


 ––––一緒にいられるのは、あと十秒。


「ヒデヨシ」


「なんだよ」


「愛してる」


「……は?」


「愛してるよ! ……ちゃんと、今日を生きてね」


「おい、お前」


「このまま、飛んで!」


 ナビィはスクーターが落ちていく瞬間に、岬に飛び移った。

 ヒデヨシは落ちていく刹那、呆気に取られた顔でこちらを見ていた。


「ナビィ!」


 ヒデヨシの姿が歪む。


 好きな人には、とびきりの笑顔を覚えていて欲しいのに。人工涙液がナビィの頬を伝う。止めたいのにどうしても止められない。


 感情に連動して泣く機能なんてなかったらよかったのにと、ナビィは思った。


 背後で、車のドアが開く音がする。複数の足音が、ナビィのすぐそばまでやってきていた。


「あらら、なにも落とさなくても。こんなところから落ちたら死んじゃうよ」


「死なないよ、大丈夫」


「まあ、あいつのことは置いといて。ここに残ったってことは、僕たちと来てくれるってことでいいのかな」


 ルカは、口元だけで笑った。一見人好きのする表情に見えるが、目は笑っていない。握手を求めるように、ナビィに手を差し出す。


 初めて会ったときから、ナビィはこの目が嫌いだった。

 ずっと目だけ笑っていなかったし、言葉の端々に、貧民街出身のヒデヨシを馬鹿にするような空気があったから。


 ナビィは涙も拭わず、無言でルカの手をとると、ぎゅっと握った。


「あなたは、私を手に入れて感情のあるアンドロイドを作りたいの?」


「うーん、君のコピーを量産したいわけじゃないんだ。暴走を止める手立てを得るのが一番の目的だけど。君に使われている技術は、さまざまな分野で応用が効く。それをすべて理解して製品に応用できれば、勲章ものだよ。大儲けだ。安心して。ちゃんとパーツの隅々まで有効活用してあげる。『僕の』研究成果としてね」


「他人の研究結果で有名になって嬉しいの?」


 ナビィは嫌悪感をあらわにする。

 でも、握った手は離さない。ルカは嫌いだけど、この手は絶対に離さないと決めている。


「まあね。周りを見てみなよ。今はそういう世の中だ。むしろ他人のものでも奪い取るくらいの気概がなければ、この厳しい生存競争を生き残っていけない。君のおかげで僕は、この世で一番優秀なアンドロイド研究者になれる。ヒデヨシよりもね」


 彼は蹴落としたいのだ、自分より出自の劣るヒデヨシを。彼が「卑しい」と考える人間が、自分より賢いのが許せない。


 そのために、ヒデヨシの最も大切な人の命でさえも奪った。自らの願望を叶えるだけのために。


「その夢は叶わないよ」


「ん? どうしてかな?」


 ナビィの笑みに、なにか不気味なものを感じたらしい。慌ててルカは、ナビィの手を離そうとしたが、びくともしない。


「ハヤカワ博士はね。自分を私に看取らせたあと、私が悪用されないように、あの部屋とともに私や資料を消去するためのプログラムを仕掛けていたの。感情の暴走に負けて、私がそれを解除しちゃったから、それが作動しなかった結果、私はここにいるんだけど」


「なんだって?」


 ルカの顔色がみるみる青くなる。

 初めて彼の人間らしい顔を見たな、とナビィは思った。


「そのプログラムは、まだ、生きてる。安心して、痛がる暇もなく木っ端微塵だよ」


 そう言って、ナビィはルカにしがみついた。


 ––––ごめんね、ヒデヨシ。私、やっぱりあなたを悲しませてしまう。


「さよなら」


 ––––でも生きて。こんな世の中でも、今日を生きて。私はあなたの幸せを、願ってる。

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