第5話 見捨てられた人たち

「ねえ、ヒデヨシ」


「なんだ」


 老夫婦を無事救出し、病院に連れていったあと。ふたりはスクーターを置いた場所へと向かっていた。ナビィはずっと黙っていて、なにか考え込んでいるようだったが。


「さっきの場所……人通りがまったくないわけじゃなかったのに。誰もあの人を助けようとしなかったの」


 やはり彼女は、現実がわかっていない。ヒデヨシは複雑な表情を浮かべ、どう説明しようかと頭を掻いた。


「そうか」


「そうかって、おかしいでしょ。困っている人がいたら、助けるのが普通でしょ?」


 純粋な瞳で疑問をぶつけられ、ヒデヨシはたじろぐ。困った人がいたら、手を差し伸べる。平時であれば当たり前のことだ。しかし、死が身近にある世界では、それは誰もが共有できる概念ではない。


「助けたところで、益がない」


 ナビィはヒデヨシの返答に立ち止まり、人でなしを見るような目で見上げてくる。


「可哀想じゃない。電話も家に忘れちゃってたって言ってたし。おじさんの方は、あのままほっといたら大変なことになってたって、病院の人も言ってたでしょ?」


「ほれ、立ち止まってると遅くなる。行くぞ」


 道中、ヒデヨシはなるべく人通りの多い、明るい道を選んでいた。ナビィの容姿を考えれば、もう少し注意すべきだったと反省したのだ。すれ違いざまに、何人もの男が振り返ってナビィに見惚れる。彼女は美しい。売り物にすれば高額な値段がつくほどに。


 まだ不満げな様子で歩く彼女に、ヒデヨシは仕方なく口をひらく。


「……あのな」


 ナビィにこの残酷な世界のことを話すのは、なんだか気分が悪い。清水にわざわざヘドロを注ぎ込むような気分になる。


 しかしこの清流は、自分が汚れることなど構わず真実を知りたがる。困ったものだ、とヒデヨシは鼻から息を漏らす。


「今の世の中は正常じゃない」


「正常じゃないって?」


 質問が多い。記憶がないのだからしょうがないことだとわかっているが、話をするたびこう訊かれると困ってしまう。


「急激な人口減少は、国の制度の破綻をもたらした。結果、国は政府に金をもたらす人民を優遇することを選択した。富裕層は自分の生活を守ることに必死になり、貧困層は見捨てられのたれ死んでいく。それがこの世界の現状だ。限られた資源は醜く奪い合われる。他人なんて構っている暇はない。残された人生を、誰もが皆『自分だけは』豊かに生きたいと思っている」


 ナビィは黙って聴いている。一言一句逃さずように、受け取った言葉をゆっくりと咀嚼している。


「だからみんな、他人を助けない」


 そう言い切って、ヒデヨシは虚しくなった。


 人間は醜い。自分が安全なところにいて、満ち足りているときは慈愛だなんだとほざいている。いざ自分が窮地に立てば、これまでの建前など、初めからなかったようにいやらしい本音を曝け出し、仲間を見捨てていく。


 ––––俺だって、老夫婦の声を無視した奴らとそう変わらない。ナビィがいなけりゃ、人命救助なんてしなかったかもしれない。


 胸の中に溜まった澱を吐き出すように、ヒデヨシはまた、ため息をついた。ひとりで生きるには十分すぎる金を持て余し、古傷を労わりながら「正常」な生活を営んでいる自分だって、ナビィからすれば軽蔑の対象だろう。


 彼女は黙っていた。難しい顔をして考えている。


 ––––真実を知っていくうち、こいつの瞳もいつか光を失って、にごっちまうのか。


 それは嫌だな、とヒデヨシは思った。勝手な願いだが、彼女にはこのままでいてほしい。


 包み込むような優しさを持つ彼女が近くにいれば、どんなに過酷な世界に落とされようとも、あるべき姿を思い出すことができる気がする。


 ようやく駐車場まで戻ってきた。が、遠目からスクーターの様子を見て、ヒデヨシは額を打ち、ナビィは口をあんぐりと開いた。


「荷物をたっぷり積んだまま置いてった段階で、予想はしてたけどな……」


 ヒデヨシのバイクの周りには、五人ほどの子どもが群がっていた。どの子も骨が浮き出るほどに痩せている。かろうじて洗濯されたぼろ布を纏ったような服を着ていた。


「あの子達……ご飯、食べられてないのかな」


 ナビィは眉尻をさげ、ヒデヨシの指先をギュッと握った。


 子どもたちは買い物袋の中から食品を引っ張り出し、一心不乱に貪っていた。パンや果実、野菜粕などがあたりに散らばり、まるでゴミ箱をひっくり返したような有様だ。


 彼らの顔に感情はない。いつやってくるかわからない脅威を前に、エネルギーをできるだけ溜め込もうとしている顔だ。学校に上がる前くらいの年齢の子どもたちがそんなふうにして生きている様を見せつけられて、ヒデヨシは大きく成長した自分の体が罪の塊のように思えた。


「おい」


「……! ヒデヨシ!」


 ナビィは、ヒデヨシが子どもたちを追い払おうとしているのだと思ったらしい。真っ白な細い腕でしっかりとヒデヨシの腕を掴み、首を左右に振っている。


「お前は俺がそんな極悪非道な人間に見えるのかよ」


 心外だな、と吐き捨てるように言うと、ヒデヨシは子どもらの方に向き直った。


「おい、お前ら」


 子どもたちは、ヒデヨシの声に気づくと咄嗟に頭を隠したり体を丸めたりした。よく見ると手首には、番号の入った水色のタグが付けられている。保護施設に収容されている人間を示すタグだ。


 ––––保護施設もここまでひどくなってんのか。きっと収容するだけして、食事もろくに与えてないんだろうな。


 大人の声に反応して身を縮こめたということは、日常的に暴力を振るわれているのだろう。震える小さな掌を見て胸が痛くなった。


「……それ、お前ら全部持ってけ」


「えっ」


 子どもたちも、ナビィも。一斉にヒデヨシを見た。まさかこのコワモテ眼鏡の男が、そんなことを言うはずがないというように。


 彼らの表情を見て、ヒデヨシは眉間の皺を深くする。


「俺の気が変わる前に早く持って行けってんだよ。ほら、さっさとしろ!」


 その言葉を号令に、子どもたちは食品を袋から出し始めた。ナビィは走り寄って、買い物袋の中身を一気にひっくり返し、食品だけを袋に詰め直す作業をしている。ヒデヨシも参加して、子どもたちがギリギリ抱え切れるだけの食べ物を持たせてやった。


「お前ら、最後にまともな飯を食ったのはいつだ?」


 袋に詰め込む作業をしながら問えば、子どもは表情を曇らせ、ためらいがちに口をひらく。


「……わかんない。しせつの人、たまにしかごはんくれない……」


 おぼつかない様子でそう語る男の子を前に、ヒデヨシは拳を握りしめる。


「いいか、そのまま施設に持って帰るんじゃねえぞ。どっかに貯めとけ。そのまま持って帰りゃ、取り上げられた上に折檻部屋行きだ」


 まるで悪ガキが子分に悪事のやり方を教えるようにそう言うヒデヨシを見て、ナビィは吹き出した。


「なんだよ」


「いや、ヒデヨシは、いい人だけど、悪い人みたいだなと思って」


「なんだそりゃ」


「あの……」


 気づけばナビィとヒデヨシのすぐ近くに、子どもたちは集まっていた。彼らはほとんど肉のない痩せた両手を合わせると、恥ずかしそうに「ありがとう」と言った。弱々しい声で、何度も、何度も。


「別に、単なる気まぐれだ。お前らさっさと帰れよ」


「ヒデヨシ」


 ナビィに抗議の目を向けられて、ヒデヨシは頬を掻き、視線を逸らす。


「……どういたしまして」


 しぶしぶヒデヨシがそう言うと、子どもたちは年齢相応の可愛らしい笑みを浮かべ、「バイバイ」と手を振った。


 旧市街の方へ向かって駆け出す小さな背中を見送る。いろいろあって疲れていたが、不思議と気分は悪くなかった。ヒデヨシは吸いかけのタバコをトラッシュケースから取り出し、火をつけると、深く煙を吸い込み、ゆっくりと吐いた。


「もう一度買い出しだ。すっかり暗くなっちまったから、直近で必要なもんだけ買って帰る。明日もう一度来よう。そんときに、お前の服も買いに行くぞ」


「え、私の服?」


「言っとくけど男物だからな。お前は目立ちすぎる」


 驚いた様子のナビィは、表情を崩し、朗らかに笑う。


「男物でも女物でも、着替えがあるのは嬉しいね! ヒデヨシ、やっぱりいい人! 子どもたちのことも……ありがと」


「なんでお前が礼を言うんだよ。ああ、また! お前は腕にまとわりつくな、鬱陶しい」


「減るもんじゃないし、いいじゃない」


「ったく、行くぞ!」


 ––––無駄に人懐っこいんだよな、こいつは。


 しかし不思議だ、とヒデヨシは思った。時代遅れの上等な衣服。穢れを知らない純粋で無邪気な性格。他者への思いやり。


 この終末に生きる人間として、ナビィはどこかチグハグな印象が拭えない。記憶がないにしても、なにかが決定的にずれている。


 ––––こいつは本当に、いったいどこの誰なんだ?


 訝しむヒデヨシの視線に、ナビィはとびきりの笑顔で応えていた。

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