壊れゆく世界で、君と最後の恋をする
春日あざみ@電子書籍発売中
第1話 記憶喪失の女
電気ケトルの中身が、ボコボコと音を立てて沸騰した。カチン、という音がした直後、男はケトルを手に取り、ティーバッグを入れておいたマグカップにお湯を注ぐ。
狭い部屋の中に、ふわり、とカモミールの香りが広がる。背中まで伸びた赤毛をヘアゴムでまとめると、男はチラリと窓の方を見た。
「……そろそろ日没か」
カップを片手に、男は照明をつける。
雑多に本が積まれ、届いた荷物の箱で足の踏み場もない部屋の中を縫うように歩き、壁に設置されたディスプレイパネルの前に男は立った。指先で画面を操作すれば、機械音とともに窓のシャッターが降りる。
安眠効果があると聞き大量に買ったカモミールティだが、ひとり暮らしには持て余す量だった。飽きてはいるのだが、捨てるわけにもいかず毎日飲んでいる。
「……なんだ?」
男は顔を上げた。静寂の中に、金属を叩くような音が飛び込んできたのだ。
この家は三メートル近い鉄格子でぐるりと囲われている。最近の急激な治安の悪化でこうした設備が中流家庭以上の住居においてはスタンダードになっていた。どうやらその鉄格子を誰かが叩いているらしい。
「強盗……はわざわざノックしねえし。浮浪者が食糧を乞いにこの辺境まで来るってのも変だ」
銀縁の眼鏡を人差し指で押し上げつつ、ふたたびディスプレイパネルを操作し、玄関の監視カメラの映像を映し出す。そして、息を呑んだ。
カメラの映像には、汚れた布を頭から被った女性の姿があった。映像が粗くてよく見えないが、肩を出したデザインの白いワンピースを着ている。
美しい女だった。
ボロ布の下から覗く大きな瞳と、形の良い鼻に小さな顎。たとえるなら、子どもの頃に絵本で読んだ妖精のような女。
「浮浪者……にしては綺麗だよな……」
戸惑いながらも、インターホンのマイクをオンにする。
「あんた……誰だ?」
インターホン越しに声をかければ、まるで花がほころんだかのように、ぱあっと彼女の顔が明るくなった。
「ああ! よかった、やっぱり人がいた。ごめんなさい、突然に押しかけて」
鈴の音のような、高いが心地よい声だ。
「なんだ、俺になんの用だ」
「中に入れてくれませんか……。私、記憶がないの。気づいたら襲われていて。逃げてきたの……」
「記憶喪失なのか?」
男は困った。顎に指をあて、カメラに映る彼女の顔を凝視する。
––––明らかに怪しいだろ、これは。
こんな砂漠地帯に女がひとり。油断させて家から誘き出し、仲間と強盗でも働こうとしているのだろうか。
監視カメラの位置を操作して、あたりに男の影がないか探した。だが砂漠が広がるばかりで、人影のようなものは見当たらない。家の周りをぐるりと囲うように設置された監視カメラの映像にも、何も見つからなかった。
「悪いが……」
他を当たってくれ。
そう言おうとして、言葉を飲み込んだ。
カメラの前に立つ彼女は、眉根を寄せ、両手を組み、深刻な様子で祈るように男の回答を待っている。このまま門前払いをするというのは、あまりにも非情な行いであるように感じた。
––––この付近に家はない。今ここで見捨てたら。どこぞのゴロつきに捕まって店に売られるか、犯されて殺されるかもしれない。
良心とリスクを天秤にかけた結果、良心の方に軍配が上がった。
「……門を開ける。そこで待ってろ」
戸棚から護身用の拳銃を取り出し、念のためポケットに忍ばせる。口元をマスクで覆い、玄関を開けた先には、カメラの映像の通りの女が立っていた。
「ありがとう! いい人でよかった」
彼女は恐縮し、ぺこぺこと頭を下げて、何度もお礼を言う。
「とりあえず話を聞こう。中に入ってくれ」
彼女に背を向けないように警戒しつつ、男はリビングに案内する。
「あんた、名前は。……あ、記憶がないってことは、名前もわかんねえのか」
「ううん。名前は覚えてるよ。私の名前は––––ナビィ」
ナビィはそう言って、人懐っこく笑った。
「ナビィ、か。まあ、とりあえず座れ。あ、先にちゃんと消毒をしろよ」
洗面所を指させば、彼女は軽く会釈をする。
「こっちが手洗い場ね。ありがと」
入った瞬間敬語もなしかよ、と心の中で悪態をつきつつ、男は椅子を探し始める。だが、見つからない。
この部屋に最後に人間を入れたのはいつだっただろうか。
食事も仕事もデスクで済ませていて、テーブルは本に埋もれていた。舌打ちをしながら本を退け、布巾で綺麗に拭く。椅子は諦めて小型の脚立を出した。
「悪いがこれに座ってくれ。椅子が見当たらねえ」
「ううん、大丈夫。ありがと」
細身の彼女がちょこんと脚立に座る。まるで蝶が羽を休めているようだ。ふうと息をつくと、彼女は頭に被せていた布をおもむろに取った。
ゆるくウェーブがかったヘーゼルブラウンの長い髪が広がる。一直線に切り揃えられた前髪が幼さを演出しているが、年は二十代前半位だろう。
「あの、あなたのお名前も教えてくれる?」
髪色と同じヘーゼルアイが男を捉える。無垢な印象の彼女にぴったりな瞳の色だと思った。
「……ヒデヨシ」
「ヒデヨシかあ」
名前を呼ばれるのはひさしぶりだった。ヒデヨシは街から離れた砂漠地帯にひとりで暮らしている。家族はいない。生活を共にする友人も恋人も、今はいない。
最後に名前を呼ばれた瞬間を思い出して、心が沈んだ。
「ヒデヨシ、どうしたの?」
「……いや、なんでもない」
ヒデヨシは慌てて、頭に浮かんでいた女性の顔をかき消した。
「ハーブティ、好きか」
「わかんない、けど。飲んでみたい」
「……何が好きかもわかんないわけか」
幸いカップはいくつかあるが、普段愛用しているもの以外は埃をかぶっている。発掘したカップはやはり薄汚れていたので、丁寧に洗った。
ナビィの前にカモミールティの入ったカップを置けば、彼女は大きな目をまんまるくして中身を覗き込み、匂いを嗅ぐ。
「睡眠薬とか入ってねえから」
「違うよ、とってもいい匂いだなって思って」
「そうかい」
「あちち、これ、熱いね」
「猫舌なのか……」
マシュマロのように柔らかそうな頬を膨らませ、ふうふうとカップの中身を冷ます様子は愛らしい。
––––いったいどうしてこんな奴がひとりで出歩いてたんだ? 獣に襲ってくれって言ってるようなもんじゃないか。
娼婦のようには見えない。ただ、いいとこのお嬢さんと言うには、衣服は流行を外れたもので、色もくすんでいる。しかし野外で長く生活をしていたような体の汚れ方はしていない。肌も髪も綺麗だ。見た限りでは病気を持っているようにも見えない。
「お前、どっから来たんだ? 断片的でもいいから、自分がどこの誰かっていうヒントになるようなことは思い出せないのかよ」
「うーん……なにも思い出せない」
「そのペンダントは?」
「これ?」
ナビィは首にかけていたペンダントを外した。小さなドックタグのような形状のペンダントトップにはダイヤモンドが埋め込まれているだけで、表面にはなにも刻まれていなかったが。裏返すと刻印があった。
「A to N……。これ、恋人か旦那からのプレゼントだったんじゃないか? ナビィへの」
恋人、という言葉を発して、ヒデヨシの胸は鈍く軋んだ。ナビィはヒデヨシからペンダントを受け取り、あらためて繁々と眺める。
「思い出せないねえ……。Aって、誰だろうねえ」
「……そうか」
はあ、と大きくヒデヨシがため息をつくと、ナビィは申し訳なさそうな顔をして肩をすくめる。
「……とりあえず、明日警備隊の詰め所に連れて行く。ここにずっと置いとくわけにはいかないから」
「けいびたいのつめしょ……?」
「……一から説明が必要か……。国の、治安維持を司る機関が警備隊。で、その警備隊が都市ごとに拠点としてる建物が詰め所。わかったか?」
「そこで、私は暮らすの?」
「暮らすんじゃない……あー、もう。今日はお前、風呂入って寝ろ。説明は明日するから。俺、もうお前と話すの疲れた……」
ヒデヨシはナビィにタオルを押し付けて、風呂場へと追いやった。
使い方がわからないと言うので、ひと通り説明し、ヒデヨシのジャージを着替えとして持たせる。
彼女とのやりとりひとつひとつが、ヒデヨシの古傷をチリチリと炙っていた。
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