第2話 希望のない未来
風呂から出たナビィは、まるで生まれ変わったかのように元来の美しさを取り戻した。
艶を失っていた長い髪は絹のような柔らかさを取り戻し、汚れていた肌は玉のように磨かれている。
ヒデヨシが言葉を失ったのは言うまでもない。二十八歳のときから男ひとり暮らしを始め、すでに丸三年。風呂上がりのナビィの姿は目に毒だった。
一緒に寝るわけにもいかず、ベッドをナビィに貸し、ヒデヨシはリビングのソファーで眠ることにした。ナビィはヒデヨシが起きる頃にはすでに起きていて、本棚に置いてあった雑誌類を読んでいる。文字は忘れていないらしい。
「眠い……」
デスクチェアに腰掛けつつ、ヒデヨシは眉間を揉んだ。
最近は飲めばすぐ気を失ってしまうほどの強い睡眠薬を飲んでいたので、ここまで眠れないのはひさびさだった。
「昨日、眠れなかったの? 私、イビキがうるさかった?」
愛らしい仕草とともにそうナビィに尋ねられ、思わず悪態をつく。
「ちげえよ。そもそもイビキが部屋を隔てて漏れてくるほど薄い壁はしてねえ」
「ほかに人がいると眠れない体質とか?」
ナビィが心配そうに顔を覗き込んでくるのを片手で制しながら、ヒデヨシは答える。
「もともと不眠気味なんだよ。……まあ、昨日は特にだけど」
「やっぱり、イビキが……」
「違うって」
万が一ナビィが盗人だったりした場合を考え、ヒデヨシは彼女が寝入るまで起きていた。深夜に寝室を覗いてみたが。イビキどころか、彼女は機械の電源を切ったかのような静けさだった。
問題はそっちではないわけで。穢れを知らない大きな瞳にじっと見つめられ、ヒデヨシは思わず目を逸らす。
「……今日は新市街の警備隊の詰め所に向かう。お前の服洗濯しておいたから。それに着替えろ」
「うん、わかった」
ワンピースを受け取ると、ナビィはヘーゼルブラウンの瞳をヒデヨシに向ける。
ヒデヨシは一八〇センチを超える長身で、彼女はヒデヨシより頭ひとつ分低い。意識しなくても上目がちになってしまうことは理解しているが、甘えられているような表情にどきりとする。
「覗いちゃダメだからね?」
小首を傾げ、イタズラっぽくそう言ったナビィに、ヒデヨシは胸をぎゅっと掴まれたような心地になった。
「バカなこと言ってんじゃねえ! 早くしろ」
可憐な白い花を思わせる笑顔をふりまいたナビィは、小走りで洗面室へと引っ込み、入り口のカーテンを閉める。
––––こいつ、俺をからかってやがる。
この世の終わりに向かって、静かにひとり朽ちて行こうと思っていたのに。突如現れた彼女のせいで、ヒデヨシの心の安寧は乱されていた。
◇◇◇
「お前、スクーター乗ったことあるか」
「えと、わかんない」
「そーだったな。しっかり腰に捕まっとけ」
ヘルメットをナビィの頭にかぶせ、ヒデヨシはゴーグルを装着した。ひとり分しかヘルメットがないのだからこうする他ない。顔の大きさが全然違うので、ナビィにかぶせたヘルメットはグラグラしている。首元のベルトを締め、無理やり固定してやった。
––––まあ、すぐに出ていく人間だし。今日限りならこれでいいだろ。
ヒデヨシがエンジンをかけ、アクセルを回すと、オレンジ色のスクーターは砂埃をあげて勢いよく走り出す。
近場の街まで三十分。整備された道はなく、ただただ砂に塗れた荒野を進む。
短い草が申し訳程度に生えているか、サボテンが地面から飛び出しているくらいしか、この近辺には植物の姿が見当たらない。
道中見かける建物といえば、砂に喰われた街の残骸だけ。かつてはヒデヨシの家のあたりまで、活気のある商店街が続いていたらしいのだが。
「ねえ、なんでこのあたりの街は砂に埋まっているの?」
「見捨てられた街だからだ」
「え?」
ヒデヨシはため息をついた。
彼女が無邪気で明るいのは、きっとこの世界の現実をすべて忘れているからだ。
あらためて非情な現実を教えることが、果たして彼女のためになるのだろうか。
押し黙っていると、ナビィはヒデヨシの腰に回している腕にぎゅっと力をこめた。想定していなかった彼女の動きに、思わず身を固くする。
「おい、急にそういうことするんじゃねえ」
「え、なんで」
「なんでもだ」
「わかったよぅ。ねえ、さっきの話の続き、教えて」
「聞いても楽しいことはひとつもないぞ」
「それでもずっと知らないままではいられないでしょ。いつかは知るわけだし」
「……そうか」
路面がゴツゴツとした場所に入り、スクーターが上下に揺られた。
「人間がこの星にしてきたことのツケを、今俺たちは払わされている、つったらいいかな」
ハンドルを握り直し、ヒデヨシは少し腰を浮かせた。座ったままでは尻が痛い。
「人間による環境破壊で温暖化が進んで。日中は外出が困難なほどに気温が高くなっている。今や日が傾いてからが活動時間だ」
いきなり絶望的な事実を突きつけるより、周りから攻めていったほうがいい。ナビィの相槌のトーンを聞きながら、慎重に話を進める。
「環境汚染や砂漠化、海面上昇による国土の水没も進んでいる。人間の住める場所は減ってきていて。さらに気候変動を起因とする、新型のウイルスが流行って。俺たちの日常は劇的に悪化した」
「ウイルス……」
「二十三年前に発見され、発見者の名前をとってヤトミウイルスと呼ばれている。高熱が続き、体中に瘤ができ、患者は急激に衰弱し、死にいたる。発症後の致死率は九十パーセントの死の病だ」
「それは……怖いね」
ナビィの声の調子は変わらない。スポンジの如く知識を吸収する子どものように、淡々とヒデヨシの話を受け入れているようだ。
「ワクチンが開発され、根治薬も開発されたが、そこに至るまでに大きな犠牲がでた。世界人口は五〇パーセント以下にまで落ち込み、各国の政治体制や社会保障制度が破綻した。おまけに水害や地震、火山噴火などの大災害が続いたせいで、それに拍車がかかり。貧富の差が進み、資源の奪い合いが起こり……」
「ヒデヨシ、はっきり言ってくれていいよ」
あっけらかんとした物言いに、ヒデヨシはしばし黙った。
––––細かい気遣いは無用ってか。
ヒデヨシはもう、うだうだ考えるのをやめた。
「つまり、人間は絶滅に向かってんだよ。次に感染力の強い新たなウイルスでも流行ったら、確実に死滅する。そうでなくても……」
「ふーん、そっか」
「ふーんって」
––––普通、落ち込むだろ。そんな夢も希望もない現実を突きつけられたら。
無駄話をしているうち、新市街の入り口についていた。ヒデヨシがスクーターから降りるのに続き、ナビィも地上に降り立つ。
「だってさ」
両腕をうしろに組み、ナビィはニコリ、と笑う。
「私たちはまだ生きてるんだし。私たち自身が幸せになることを諦めなくたっていいんじゃない? それに、絶滅しない未来もあるかもしれない。まだわからないでしょ?」
能天気な彼女の表情に、ヒデヨシはかすかに苛立つ。
「国家のエリート様や名だたる研究者たちが弾き出した答えだ。どんなに足掻いたとしても、人間が死滅する未来は変わらない。もう数代先の話かもしれないが、俺たちの代で終わる可能性だってある。ウイルスでの人口減少が証明してる。今日信じていた明日が、必ず来る保証なんてどこにもない」
ヒデヨシは俯き、ナビィから目を逸らす。
「各国とも自国の利益のために資源の奪い合いを始めてる。戦争や民族間での紛争も激化した。終わりの始まりだ。醜い争いに巻き込まれて死ぬくらいなら、俺はあの辺境で、ひとり穏やかに朽ち果てたい」
そこまで言い切って、ヒデヨシはナビィに背を向けた。
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