第25話 失踪

 マテオの住んでいた廃ビルは、主人がいなくなったのを境に、荒廃がだいぶ進んでしまったように見えた。このビルの主に挨拶をしようと裏手に回ると、瓦礫の墓の前には花が供えられていた。どうやら貧困街の仲間の誰かが、墓参りに来たらしい。


 サラはビルに入って早々、設備と周辺環境の確認をしてくれている。電源や貯水槽は生きていて、一日二日であれば十分暮らせる環境ではあるようだ。


 ナビィはいつの間にか、マテオの腰かけていたロッキングチェアを眺めていた。しゃがみ込んで、椅子を片手で揺らしている。


 ––––この短い間に、いろいろあったもんな。


 明るい性格の彼女だが、記憶のない無垢なナビィの心の中に、耐え難い現実が日々投げ込まれていることを考えれば、こんなふうに考え込むことも無理はない。ヒデヨシの家にやってきたときの笑顔の輝きは、だいぶ失われてしまったと感じている。特に、ここ最近は。


 くしゃくしゃと、自分の前髪を片手でかき混ぜる。ヒデヨシは地下駐車場の柱に寄りかかり、そのまま地べたに腰を下ろした。


 ◇◇◇


 サラが外にでている間に、ヒデヨシは緊張が途切れたのか、マテオの地下駐車場の柱を背にして眠ってしまった。相当疲れていたのだろう。ナビィの前ではいつもと変わらぬ様子を心がけてくれていたのかもしれない。


 ナビィは彼の隣に腰を落ち着け、広い肩に自分の頭を預けた。


「とんでもない厄介者だよね。私ってば」


 赤茶色の髪に手を伸ばし、撫でてみる。砂漠の中、スクーターを飛ばして駆けつけてきてくれたからか、彼の髪は砂に塗れていた。


 本当はヒデヨシと離れたくない。このままそばにいたい。だけど自分がここにいることで、彼を危険に晒してしまう。


 そして自分に関する事実が明らかになれば、その事実が、きっと彼を傷つけてしまう。


 涙が溢れた。止めようとしたが、どうしても溢れてきてしまう。


 –––涙なんて、流せなければよかったのに。


 ナビィは唇を噛み締め、ゴシゴシと袖で頬を拭う。


 –––離れなきゃ、ここから。これ以上、ヒデヨシを巻き込んじゃダメだ。


 どんなにこの人が好きでも。一緒にいたくても、ともに生きることは叶わない。


 ナビィはヒデヨシの頬に優しく口付けると、廃墟の外へ向かって歩き出した。




「ナビィ、どうしたんですか」


「あ、サラ」


 スロープを上り切ったところではサラが待機していた。一瞬動揺しそうになったが、ナビィは平静を装い声をかける。


「あのね、体を拭きたくて。タオルが欲しいの」


「タオルでしたら、私の車の中にあります。とってきましょうか」


「お願い。あのビルにもあるにはあるんだけど、埃っぽくて」


「少々お待ちください」


 目を離させるのは、一瞬でいい。


 駐車場に向かうスロープをサラが曲がるのを見届けると、ナビィは足音を極力立てないようにして走り出した。


 まず姿を隠し混乱を起こす。ヒデヨシたちが慌てている間は廃墟郡内の他の建物に身を隠し、彼らがここを離れた頃に歩いて出ていけばいい。


 –––ヒデヨシの家までと、ヒデヨシの家から旧市街までの道のりなら覚えてる。徒歩ならトータル六時間くらいかな。身を隠しながら行くならもっとかかるかも。でも、「私なら」歩き通せるはず。


 ナビィの姿は、砂嵐の中へと消えていった。

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