7月3日(水)

「あの〈境界〉って、初めて発生したときの時間が元になってるんじゃないかって話があったよね」

 朝の教室で、昨晩考えていたことを話す。

 テスト期間も折り返し。勉強と〈境界〉のことで頭がパンクしそうだ。

「ええ。そうね」

「僕もよく分かってないけど、雫さんと同じなのかなって」

「……あの人が、〈境界〉生成のトリガーになったのかもってことよね?」

 僕は頷く。ミライさんも同じことを考えていたらしい。

 例の〈境界〉は女性が会社から帰る途中、コンビニを出てから自宅へと帰る間だけ存在している。鍵は間違いなく彼女だ。迷い込んだのではなく、雫さんのときと同じように、彼女がきっかけで〈境界〉が生まれたのではないか。

「〈境界〉は彼女に気付かれないように、いない人間を靄でつくって辻褄を合わせている。彼女の目には本物の人間に見えているのでしょうけど。彼女が違和感を持たないのも、彼女の〈境界〉だから。……でも、なんのために?」

 何故そんなに周りくどいことをしているのかが分からない。今までのようにさっさと呑み込んでしまう方がいいのではないか。それに、カケラがどこにあるのか未だに分かっていない。

 新たな疑問が浮かぶばかりで、また二人で頭を悩ませた。

「……雫さん、元気かな」

 話題に出た彼女の名前を口にする。

 あれから雫さんには会っていない。すぐに例の〈境界〉の調査とテストが始まったので、忙しくてあの公園には行けていないのだ。彼女は今でも屋根のあるベンチにいるのだろうか。

「来週行ってみる?」

 ミライさんが提案する。

「そうだね、テストも終わるし」

 それに、〈境界〉に入れる夜になるまで暇を潰さなければならない。別の〈境界〉探しもいいが、ついでに雫さんの様子を見に行くくらいいいだろう。


  *


 今日は現地集合だった。

 ミライさんとの待ち合わせ場所に向かう。

 空がオレンジ色に染まっている。

 あの〈境界〉に行くのは今日で四回目。今日こそ何か、いい情報が見つかるといいのだけど。

 それにしても。

(〈境界〉って何なんだろう)

 その疑問はずっと解消されない。二つの世界の間にある空間であることは、教えてもらったから知っている。僕が知りたいのはそういうことではない。

 二つの世界を繋げて何がしたいのか。〈境界〉に入れる人と入れない人の違いは? 何のために人を取り込んでいる?

 駅前に着いた。繁華街がにぎわっている。時間帯や天候などによる出現条件はあるが、〈境界〉の中はいつだって夜だ。日本の街中から見ているとは思えないほどの美しい星空で、大きな満月が出ている。

(そういえばミライさんは夜が好きだと言っていたっけ)

 その理由も魔力が上がるからという彼女らしいものだったけど。

「……?」

 人ごみの中、向こうで知っている顔があった。

 道行く人の流れの中で、彼は立ち止まり僕を見ている。

 目が合った。

 笑った。

 そして、唇が動く。

 人々の喧騒が遠のく。

「〈境界〉に入る条件は何だと思う?」

 すぐそばで囁かれたように、声が鮮明に聞こえた。

 目を見開く。

 顔を、姿を、確かにこの目で見ている。

 なのに、何故?

 何故、分からない?

 どんな顔をしているのか、この目で見ているはずなのに。

 彼は背中を向けて去っていく。

「待って!」

 人ごみをかき分け、横断歩道を渡る。

 顔を見たはずなのに思い出すことはできない。この感覚を知っている。顔が分からないのに、その感覚だけで確信した。

 雫さんにローブを渡した人物だ。

 彼女の記憶で見た人だと確信した。彼が、〈境界〉を作り出している犯人で間違いないと思った。

 横断歩道を渡るが彼がどこに行ったのかさっぱり分からなくなった。

 呆然と立ち尽くす。僕の横を人々が抜けていく。

 どっどっどっ、と心臓が速く打つ。

「橘くん!」

 名前を呼ばれ、ハッと声がする方に振り向くとミライさんがいた。

「ミライさん?」

「今、カケラの魔力を感じたの……! そしたらあなたを見かけたから……」

 何回も呼んだんだけど、と言う彼女は僕の顔色を見て表情を変えた。

「もしかして、また具合悪い? 熱ある?」

「……それは大丈夫。なんでもない。いや、なんでもなくはない」

「は?」

「今、いたんだ。誰かが」

「誰かって、誰」

「多分、雫さんにローブを渡した人」

「っ! どこに!」

「ここに」

 今にも走り出しそうな勢いの彼女だったが、「もういなくなった」と伝えると落ち着いてくれる。こんなに近くにいたというのに、逃してしまい申し訳ない。

「……なんで分かったの」

「……姿が分からなかったんだ。記憶で見たときと同じことが、今起きてた。それと、僕に話しかけたんだ。『〈境界〉に入る条件はなんだと思う?』って……」

「……本当、馬鹿にしてる」

 彼女の瞳の奥には怒りの感情が見えた。

「……とりあえず、早く行こう。時間になる」

 そんな彼女に言う。

 僕もかなり動揺していたが、珍しく僕よりも感情を露わにしている彼女を見て逆に落ち着いてきた。

「……そうね」

 彼女は頷いた。


  *


「あれ? ……君たちか、また会ったね」

 コンビニの前で女性に会う。相変わらず疲れた顔で笑い、くたびれたスーツにバッグとビニール袋を持っている。

「あ……、こんにちは」

 昨日のことがあったので、彼女の様子に何か変化はないか見るために接触することにした。

「あの、昨日、何かありました?」

「昨日? なんで」

「いえ、なんか疲れているように見えたので」

「いつも通りだよ」

 いつも疲れているからね、と彼女は笑う。僕はその言葉に苦笑いした。

(……覚えていない?)

 彼女の言う通り、いつも通りに見てる。本当に、何もなかったように見える。昨日何かあったことは僕たちがこの目で見たというのに。

「それより今日も箒?」

 女性はミライさんに「叔父さん、箒コレクターか何か?」と笑いかける。どこか飄々としている態度に、昨日のことを隠しているのではないかという疑問が湧いた。しかし僕は言い逃れできない決定的なことを言える。

「あの、昨日僕と会いましたよね?」

「昨日? 昨日は会ってないよね?」

「目、合いませんでした?」

 マンションから出てきた様子のおかしい彼女と目が合った。暗くて誰か分からなかったかもしれないが、ここまで言えばあのときの人物が僕だったと気付くはずだ。

「う~ん……」

 彼女は頭をひねって思い出そうとしている。

「……」

 頭に手を当てて固まる。

 ……?

 なんだ? この間は。

「……昨日、……は、会って、ない……?」

 彼女は小さく呟いた。

「……お、お姉さん?」

 虚空を見つめる彼女に思ず声をかける。女性はパッとこちらに顔を向け、

「ごめん、覚えてないや。それ人違いかもね」

 と眉を落とした笑顔で申し訳なさそうに言った。


「あの人、覚えてないみたいね」

「うん……」

 僕たちはマンション前で別れた。昨日靄から隠れた角で身を潜め、入り口を見張りながら小声で会話する。

 暗いとはいえ、そう遠くない距離で女性と目が合ったのだ。覚えてないなんてことあるのだろうか。昨日のことを忘れている方がおかしい。

 そんな話をしていると、マンションの扉が開いた。

「あれだ。昨日と同じ……」

 出てきたのは靄だ。

 靄がマンションから出てきて消えるタイミング、全て同じだ。昨日と違うことは、ミライさんが靄の前に出ていないことだけ。やはり彼女が何もしなくても同じ位置で消えるようになっているのだ。

「ということはあの人もこの後出てくる? ……もしかして、」

「繰り返しているのかも」

 元の世界のとある日を完璧に模倣したこの〈境界〉は、写し取ったものは時間や風景だけではないのかもしれない。ここにはいないはずの女性以外の人間を靄が演じ、出来事をも再現している。

「……出てきた」

 ミライさんが呟く。遠目から見てもふらふらとしているあの人は昨日と同じように元も道を戻って、左に曲がった。

 そして僕たちは〈境界〉から戻された。

「……彼女、私たちのことは記憶にあるのは何故?」

 周辺を探してもやはり何も見つからず、帰路に着く。ミライさんは疑問を口にした。

 そう、覚えているのだ。同じ日を繰り返しているのなら、僕たちに会ったことすら忘れていそうなのに。

「……いや、忘れてるよ」

 僕はミライさんの言葉を否定する。

「え?」

「彼女、忘れているんだ。それで、思い出している。

「どういうこと?」

 僕は女性に会ったときに感じていた違和感について説明する。

「えっと、二回目に会ったときもそうだったんだ。僕たちの顔を見て、すぐに思い出せなかった。今日もそうだ。昨日会ったと言われて、僕たちと会った日のことを思い出そうとした」

 彼女は僕たちのことを思い出そうとするときに、変な間が生まれる。

「……『昨日、……は、会ってない』」

 そう、昨日“は”会ってないのだ。彼女の中では。でも一昨日会ったことは覚えている。同じ日を繰り返しているのに、特定の人と出会ったという新しい出来事は覚えている。

「……矛盾が生まれたのね」

「今日を繰り返しているなら、一昨日会ったという時系列が彼女の中でおかしくなるんだ」

「……記憶を操作した。意図的に、私たちを思い出すように」

 今日、犯人が僕に接触したことを考えると、導き出されることが一つ。

 ミライさんが断言する。

「犯人は私たちのことを見ている」

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