6月26日(水)

 傘を差して、一人であの公園に向かっていた。用事があったので今日の〈境界〉探しはミライさん一人で行ってもらっていた。何もなかったことと、もう公園についていることは連絡が来ていたので知っている。思いのほか用事が長引いて、雫さんとの待ち合わせ時間を過ぎてしまっていたので少し急ぐ。

 彼女に聞きたいことがたくさんある。昨日は彼女と話せる状態にすることに成功した。今日は具体的にローブについて聞き出さなければならない。しかしそれ以上に。

(二人きりで大丈夫かなぁ……)

 クールなミライさんと、大人しい雫さん。僕なしでどんな会話をするのか。想像できなくて、なんだか心配だった。


「橘くん。遅かったね」

「こんにちは」

「こんにちは、雫さん」

 駆け足気味に公園のその場所まで行くと、二人は少し距離を取っているものの同じベンチに座っていた。二人はあっけらかんとしていた。

「急いできたの?」

「うん」

 普通に二人で話していたようで、「じゃあ、よろしくお願いしますね」と雫さんはミライさんとの会話を終わらせた。

「何話してたの?」

「別に、何も」

「ええ?」

 雫さんがくすくすと笑う。

「ミライさんに、下の名前で呼んでくださいってお願いしたんです」

「僕がいない間に仲良くなった?」

「そんな感じです」

 雫さんが答える。意外だった。良いことだけれど。阿水さんといい、ミライさんに名前で呼ばれたがっている人が多いのは何故だろう。

 僕もミライさんの隣にあるベンチに腰かけようかと思って移動したが、二人と話がしにくそうだと思って止めた。ミライさんの横で、立ったまま話を続ける。

「ローブの話した?」

「いえ? あなたが来てからにしようかと」

「ああ、そう」

 余計、どんな会話をしていたのか気になったが、それ以上のことは教えてくれなさそうなのでもう聞かなかった。待たせてしまったし、僕から切り出す。

「単刀直入に聞くけど、」

 僕たちが雫さんに一番聞きたかったこと。

「君にローブを渡した人って、どんな人だった?」

 すると雫さんは顔を曇らせた。それが、と口ごもる。

 どうしたのだろうか。

「あの、なんか、変なんです」

「何が変なの」

 ミライさんは腕を組んで彼女に問う。雫さんは膝の上に置いた手を組みながら、その手を見つめる。

「……分からないんです」

「分からない?」

 僕が聞き返す。彼女は懸命に言葉を探している様子だ。

「……頑張って思い出そうとしてるんです。どんな人だったか、どんな声だったか。でも、何故か、思い出せないんです」

「……いつ、ローブをもらったとかは?」

「先々週の月曜です。忘れたわけではなくて、そのときのことは覚えているんです。鮮明に」

 二週間と少し前。それはちょうど、向こうの世界で荷物を運んでいた人が行方不明になった時期だ。

「その日も雨が降っていました。学校帰りにこのベンチにいました。初めてお二人に会ったときと同じくらいの時間です。傘を差したその人は真っすぐ私のところにやってきて、ベンチに座っていた私の目の前で止まって、急にローブを渡してきたんです。誰だろう? って思ったことも覚えています」

 こんなにも渡されたときの情景や心情を覚えているというのに。

「なのに、なんででしょう、その人の姿だけ思い出せないんです……。靄がかかっているような、ピントが合っていないような……。男の人だったのは覚えています。何を言われたかも、覚えています。声は、思い出せない」

 彼女は頭に手を当てて、一生懸命に記憶をたどる。

 雫さんの口から出た証言は衝撃的なものだった。見たのに、分からない。そんなことが本当に起きるのだろうか。

 その様子を見て、ミライさんは質問を変える。

「昨日は、ローブを渡した人は叔父さんではないって分かってたよね。どうして?」

「……ずっと分からなかったんです。ローブをもらった直後から少しずつ、その人の姿が思い出せなくなって。でも、特徴を聞いてもピンと来なかったので。会ったことのある人なら、どんな人か聞いたら思い出すだろうと思って……。昨日は、確実に違うと思ったんです……」

 昨日は、と言うことは、今はもうそれすらも分からないということか。

 すみません、と申し訳なさそうに謝る彼女に、僕は大丈夫だと首を横に振る。

「お二人が詳しそうなので、何か分かるんじゃないかと思って……」

 なるほど。だから雫さんはこの公園に来て、僕たちに話すことにしたんだ。

 ミライさんは指を顎に添えて、静かに思考を巡らせている。本人は否定しているが、その姿は謎を解明しようとしている探偵そのもので、彼女ならこの謎を解いてくれるのだろうという安心感があった。

「なんて言われたの?」

 僕は次の質問に移す。

 謎の人物への手がかり。痕跡を残さない犯人が何を言ったのか。

「――『君にいいものをあげよう』」

 雫さんははっきりと、彼が口にした言葉を紡いでいく。

「『この魔法のローブが、君を透明にしてくれるよ』」

 彼女は迷うことなく、言い切った。彼女の声なのに、別の人が言ったように聞こえた。

 静かになる。雨の音がその空白を埋めた。

「……その人は、確かにそう言いました」

「……」

 姿は覚えていないのに、言われたことはこんなにも鮮明に覚えている。かなり自信ありげに言っていた。一言一句、合っているのだろう。実際に聞いたわけではないのに、何故かそう思った。

 そして、やはりその人物が魔法のこととローブの使い方を仄めかしたのだ。

「――記憶操作魔法」

 静かだったミライさんが、ぼそりと言った。目を見開いて、彼女を見る。

 それは、僕がかけられるはずだった魔法で、全ての調査が終わったらかけられる予定の魔法。

『街角』に初めて行った日に、その説明もされた。

 強力な魔法使いしか使えない。強い効力を発揮する魔法はより難しい。そうジャスパーさんは言っていた。ミライさんでも使えないから、僕を連れ帰ったのだ。ジャスパーさんでも自分の力だけでは使えない。純粋に魔法だけで効果を出すには膨大な魔力が必要なため、魔術や魔法陣を使うことで補う。それでも成功させるのに相当な知識量が必要。それに、一瞬で全てを消し去ることはできない。少しずつ効果が表れる魔法だ。そう聞いた。だんだん、忘れていくのだと。

 単純に考えて、簡単にできてはいけない魔法なのだ。人の記憶に干渉するのだから。

 そんな魔法をその人物はほぼ完璧にこなした。たった二週間で、彼女の記憶から自身の姿と声を消し去った。

 何者なんだ。

 背筋がぞわりとした。

「うめさ、……雫、さん。あなたが会ったのは魔法使いで間違いない」

 ミライさんは断言すると、雫さんは「やっぱりそうなんですね」と言う。分かっていたのだろう。

「その人にまた会えると思いますか?」

「何故?」

「お礼が言いたくて」

「お礼?」

「その人、多分人の荷物からローブを盗って君に渡したんだよ?」

「悪い人なのかもしれないですけど、あのときにローブをくれたのが私にとってはありがたかったんです。私がこれを必要としていたことを、きっと分かっていたんです」

「……どういうこと?」

「……なんでしょうね。なんか、透明になりたかったんですよ。そういうときありません?」

 似た経験があった。なんとなく、そういう気分。僕が夕方にあの山に行って住宅街を見下ろしたくなるのと似たようなものだろう。

「……うん、なんとなく分かると思う」

「ふーん……」

 僕が答えるとミライさんは短く返した。

 とりあえず聞きたかったことは聞けた。分からないことだらけではあるが。

「今日も塾?」

「いえ、今日はないんです」

「そうなんだ。でも最近危ないから、暗くなる前に帰った方がいいな」

「行方不明事件、解決しませんしね……」

「そうね」と答えるミライさんは心の底から思っているのだろう。

 僕は明日の話をすることにした。

「明日どうする? ここで待ち合わせてから行く?」

 雫さんをジャスパーさんに会わせるために、『街角』に行くことになる。待ち合わせはいつも通りここで、時間だけ十六時半に変えて約束した。

 それだけ決めて、二人は帰るため立ち上がる。雨は大分弱く細かくなっていたが、それでも傘を差す必要があった。座って話していたときの順番で、左から雫さん、ミライさん、僕の並びで歩き出す。雨が降っているので、雫さんにも届くように大きめの声で話しかけた。

「雫さんって何年生?」

「三年です」

「今年受験かぁ。あ、内部進学?」

「内部です」

「それでも進学校だから勉強大変そうだな。部活も今忙しいよね。夏の大会とか」

「まあ、そうですね」

「僕、琴の演奏とか生で聴いたことないかも」

「お二人は楽器やったことないんですか?」

 僕の楽器経験なんて音楽の授業で触ったことくらいだ。

「僕は特に……。ミライさんは?」

「私もない。音楽は向こうで一番成績が低かった」

「え、ミライさんが?」

「なんで驚くの」

「いや、なんでもそつなくできそうだから」

 しかし苦手科目が技術や座学ではないのがむしろ彼女らしいとも思えた。

「それを言ったら私はあなたみたいに料理できないけど。向こうでは学生寮だったし、叔父さんが料理好きだから」

 何か悪い? と軽く睨みをきかせてくるミライさんに、ごめんごめんと謝る。

 ジャスパーさんが家事が得意そうだったので、そのイメージがあったが違ったようだ。

「人を見た目で判断しない方がいいよ」

 ミライさんはふん、と前を向く。特に彼女は、転校してきてから冷たいだの、怖いだの、偏見の目で見られることが多かったように思える。そんな彼女が言うその言葉には説得力があった。僕もそれは、彼女と過ごすようになって身を持って知っているはずだ。

「確かにミライさん、抜けてるところあるからなぁ」

「は?」

「なんでもない」

「……ふふ」

 僕たちのやり取りを聞いていた雫さんは笑った。その笑い声につられて、僕とミライさんは一番左を歩く雫さんの方を向く。傘を差しているため、ミライさんに遮られてあまりよく見えないが。

「ミライさん、意外と話しやすくてびっくりしました」

「……それはどうも」

 ミライさんは話してみると面白いんだよ。どこが面白いの。教えたら面白くないよね、雫さん。そうですね、私もそう思います。梅咲さんまで……。名前で呼んでくださいよ。……雫、さん。

 そんな会話がまた始まった。雫さんは随分と心を開いてくれていたようだった。

 すると、ミライさんの向こう側で彼女が何か言ったのが聞こえた。

「――」

「……何が?」

 雫さんの言葉にミライさんが返す。僕には聞こえなかったが、ミライさんの耳にはしっかり入ったらしい。

「いいえ、なんでもないです!」

 信号のある十字路までつく。彼女は僕たちの数歩前に出て、身体をこちらに向けた。

「ここまでで大丈夫です、ありがとうございました!」

 傘から身体を出さないように、控えめにお辞儀をする。

「え? ああ、うん。また明日! 気をつけて帰ってね」

「また明日」

 僕とミライさんは、雫さんが青信号を渡っていくのを見送った。

 僕たちも帰宅のために歩き出す。

「彼女、なんて言ってたの?」

 別れ際に何を言ったのかが気になった。隣を歩くミライさんは彼女の言葉を復唱する。

「……『お二人は、すごくいいですね』って」

「……どういう意味?」

「さあ……」

 彼女がローブを手に入れた経緯は分かった。しかし、彼女のことはまだまだ分からないことだらけで、謎も深まるばかりだ。

 一筋縄ではいきそうにないな。と、そう思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る