Ⅳ.自由
6月29日(土)
雨の〈境界〉を消した翌日。昨日までの雨が嘘のように晴れていた。もう六月末だ。本格的に暑くなりつつある。昨日の疲れもあってか気怠くて昼前くらいに起きた。普段は休みの日も早く起きるので、母さんに「珍しいね」と言われた。朝桐もだが、起きるのが遅いだけで珍しがられる。
昼ご飯を食べ、自分の部屋で勉強をする。次の月曜日から期末テストが始まるからだ。
スマホの通知が鳴った。ミライさんからだ。
(休日に珍しいな。テスト範囲についてかな)
そう思い確認すると、要件は〈境界〉関連の呼び出しだった。夕方に『街角』集合。そのまま調査に出るので、晩ご飯は『街角』で出すとのことだ。教科書とノートを閉じる。友達の家に行ってくるから遅くなると母さんに伝え、着替えて家を出た。
十六時に喫茶『街角』に到着する。今日は店が休みだ。扉に近づくと中から鍵を開けて店内に入れてくれる。
「こんにちは、ミライさん、ジャスパーさん」
「こんにちは」
「いらっしゃい、悠紀くん」
二人と挨拶を交わし、一番奥のテーブル席の、壁際奥に座る。休日なので僕は私服でジャスパーさんはエプロンなしという恰好だが、ミライさんはいつも通りの制服姿だ。
「なんで制服?」
「こっちの服、これ以外に持ってない」
「ああ」
基本学校と調査以外で外に出ないのだろう。彼女が服に無頓着なのはあまり驚かなかった。しかし阿水さんと出掛けることはないのだろうか。
「橘くんも、学校で使っている鞄じゃない」
隣の空いている席に置いた鞄を見る。茶色の革製の肩掛け鞄。学校は鞄が自由なのでスクールバッグやリュックが多い。
「鞄これしか持ってないから」
鞄に手を置きながら言う。だからミライさんからもらったお守りをここに付けているのだ。平日も休日も、外に出るときはこれだから。
「じゃあ私と同じじゃない」
ふふん、と微かに笑いながら言う。
「うーん、まあ、同じか」
ジャスパーさんがいつものように飲み物を淹れ、僕の目の前にはアイスカフェオレが置かれた。ジャスパーさんが僕の対面にいるミライさんの隣に座り、話が始まる。
「二人とも、昨日はありがとう。無事にローブを持ち帰ってくれて」
今日の呼ばれた要件は主に二つあった。
一つはローブのことだ。向こうの世界に持って行き調べてもらっているのだそうだ。
「認識阻害ローブは高価なものなんだ。あまり手に入るものではない」
「……悪用されるからですか?」
「そう。それに、使用者を完全に透明にすることもできない。あくまで他人からの認識を薄めるだけのものだ」
確かに、完全に見えなくなってしまう道具が流通したらいくら高価なものでも危ない。それは分かるが、僕は首を傾げた。
「……え? じゃあ雫さんが見えなくなったのも、実は見えていたってことですか? 阻害されていただけで」
雫さんは特別足が速いわけではない。むしろ遅い方だ。それなのに、初めて会ったときに走り去る後姿をこの目で確認することができなかった。〈境界〉にいるときも、いくら靄の雨で視界が悪くなっていたとはいえ、遊具もない公園で彼女が自ら姿を現すまで見つけることができなかった。
僕の疑問に答えたのはミライさんだった。
「勘違いじゃない。確かに梅咲さんは見えなくなっていた」
「……やっぱり?」
その間、ミライさんは紅茶を飲む。さすがの彼女も今日の気温ではアイスティーにしたようだ。そして彼女は、
「カケラのせいよ」
と言った。
そう、あのローブの金具部分にはカケラが埋め込まれていた。ジャスパーさんが頷き、説明を補足する。
「あのローブには強力な魔力の跡があった。そもそも認識阻害の魔法と物質を視覚的に透かす魔法は原理が違う。認識阻害のための道具に効果増大魔法、それに加えて視覚的に透明にする魔法も付与されていた」
魔法を使った後は、痕跡として魔力が残ると以前聞いた。つまり、雫さんにローブを渡した人物は〈境界〉を作り出している張本人か、そうでなくても深い関わりがあるのだろう。その人はこのローブで『透明になれる』と断言していたのだから。ローブの効力のことも考えると、明らかに人為的なものだ。
「それに、君たちは〈境界〉ができる瞬間を見た」
ジャスパーさんは、「そんな報告は今回の君たちで初めてのことだ」と、眉間に指を当てて唸るように言う。僕の口からそのことは話していないが、ミライさんが昨日のうちに話してくれたのだろう。
「今まで〈境界〉が発生する現場を目撃した魔法使いはいない」
ジャスパーさんは現在分かっていることを丁寧に説明する。
「今までは、先に〈境界〉があるのだとされていた。その中に人が入っていくのだと。しかし今回は順番が違った。カケラが人を“決めて”から、〈境界〉を発生させ連れて行った」
「……でも、〈境界〉に人がいないときもあるんですよね?」
僕がこれまでに入った〈境界〉では全て迷い込んだ人がいた。一つ目は僕自身。二つ目は朝桐。三つ目は須々木さん。四つ目は向こうの世界の魔法使い。五つ目は雫さん。一つの〈境界〉につき一人はいたのだ。しかし、僕を連れて行かずにミライさんが一人で行った〈境界〉には人がいなかったと言っていた。
ジャスパーさんは僕の質問に答える。
「誰もいないと思われていた〈境界〉でも、迷い込んだ人物を見つけられないままカケラを壊している可能性もある。その場合は迷い込んだ人物も元の世界に戻ってきているはずだ」
「……僕たちはカケラに向かっているけど、それとは全く違う場所で彷徨っていることもあるってことですよね。トランクを持っていた魔法使いのように」
カケラが人を呑み込もうとしている場面にばかり遭遇していたので、今までは彼らと出会えていた。僕がミライさんに会えたのは偶然だ。山を下る道は限られていたから出会いやすかったというだけで。
「それは違う」
ミライさんは声のトーンを落とす。
ジャスパーさんと話していた僕は前にいるミライさんに目を向けた。彼女は正面から僕を見つめている。
「叔父さんは、分かってるでしょう」
ジャスパーさんは、「分かっているよ、ミライ」と呟く。たまにこういうことがある。魔法使いの二人が、僕より理解が早い。僕はなんと言ったらいいかわからず、
「えっと、」
考えを繋ぐ音だけ出した。
〈境界〉に人がいない状況を説明する、他の説。
いや、本当はなんとなく分かっている。考えたくないだけだ。何故なら、知らなければないものと同等なのだから。
「……なに?」
答えを口に出したくなくて、聞いた。ミライさんはさっきジャスパーさんと僕が話していた説よりも、もっと現実的な説を提唱する。
「人が、もうすでにカケラに呑み込まれた後なら、〈境界〉は無人になる」
「……」
一番嫌な説だ。
しかしこれが一番説得力がある。
毎回、カケラの場所に人がいる。否、人がいる場所にカケラがあると言った方がしっくりくる。カケラは人を呑み込む性質があるが、それがたまたまではないのだとしたら?
「悠紀くんが行った〈境界〉で人がいなかったのは魔法具を回収したときだけど、そのときもきっと、迷い込んだ向こうの世界の人が近くにいたんだ。現に、カケラの近くに彼の持ち物があったのだから」
まだ決まったわけではないが、濃厚だ。
〈境界〉と人。
人が〈境界〉に迷い込んだり、カケラが人を呑み込んだりすることは偶然ではない。この一件を企てている人物は、「二つの世界の境目を壊す」以外の目的があるのかもしれない。カケラで人を呑み込む理由は。呑み込まれた人はどうなるのか。それが分かっていたら苦労はしない。そのための調査なのだから。
ジャスパーさんは「それと、」と言いながら、僕、ミライさんという順に見る。
「人の記憶を見た、という報告も初めてだよ」
「そ、そうなんですか?」
「商店街のときに言ったじゃない。そんなのは私でも知らないって。調査に出ている魔法使いが少ない上に、遠距離攻撃ができる私たちがわざわざ靄に近づこうなんて思わないんだから」
そういえばそんな話をしたか。その後の〈境界〉に連れて行かない宣言があまりに衝撃過ぎて忘れていた。
「……雫さんのときはミライさんも見た?」
「見た」
「……不思議な感覚だった」と呟いた彼女は見たものを思い出したようで渋い顔をする。見ていてそんなに気持ちの良いものではないのだ。他人の記憶を勝手に覗き見ているという罪悪感。そしてその人の辛い経験を自分も追体験してしまうのだから。
「……あのときはミライさんも一緒に、雫さんを追いかけてくれたからね」
「……そうね」
「それに関しては分からないことが多い。向こうで何か分かったら共有する」
続けてジャスパーさんが言う。
「記憶を見に行くという目的で靄に近づかないように! 危ないからね」
「分かってる」
「……分かりました」
そういえば、とミライさんが思い出したように言う。
「梅咲さんの記憶の中で、ローブを渡した男は『予想外のことが起きた』と言っていた」
「ああ、確かに」
どうして、と聞いた雫さんに、男はそう言った。
「予想外、ね……。ミライさん、どういうことだと思う?」
「例えば、盗んだ魔法具が叔父さんのものだった、とか」
「……ミライさんの関係者のものだったから都合が悪かった。だから他の人間に渡したのか」
「だとしたら私が叔父さんに迷惑かけちゃったな……」と呟くミライさんに、ジャスパーさんは首を振る。
「そんなことないよ。僕の魔法具よりも〈境界〉の調査の方が大事だ。君たちも無事だったしね」
穏やかにそう言うジャスパーさんは、「よし」と手を叩いてにこりと笑う。
「ローブの話はこれで終わりだ。一旦休憩にしよう」
*
もう一つの要件。これは僕も検討がつかなかったのでジャスパーさんが話し出すのを待った。彼は口を開く。
「向こうの世界が、君たちに調査してほしい〈境界〉があるのだと」
『君たち』と言われたことにまず驚いた。
(そうか、僕のことは向こうに知らされているんだ)
ジャスパーさんから協力者という役割を言い渡されていただけなので、向こうの世界に僕のことが伝わっているという実感はなかった。魔法を知ってしまっているし、終わったら記憶操作魔法をかけられることになっているのだから当たり前か。
というか、そんなに具体的な指令が直々に来ることもあるのか。少なくとも僕が調査に加わってからは初めてのことだし、彼女からも聞いたことがない。彼女の様子を窺うと、何も反応がなかったので「先に聞いてた?」と聞いてみたが、「何も」と返された。うーん、クールだ。
「で? わざわざ〈境界〉の指定をするくらいなんだから何かあるんでしょう?」
彼女はジャスパーさんを急かす。ジャスパーさんは頷いた。
「なんでも一カ月ほど前にできた〈境界〉らしい。その近辺で六月一日に行方不明になった人もいる。こっちの世界にいる魔法使いがその〈境界〉に行ったが、カケラに辿り着けずに元の世界に帰されてしまったのだそうだ」
そんなことが起きるのか。〈境界〉に入ったらカケラを破壊しなければ元も世界に帰れないと聞いていた。実際、カケラを壊す以外に帰れたことがない。
イレギュラーな〈境界〉の調査。しかし僕たちに頼む理由はそれだけではないようで。
「三日前、その〈境界〉を担当していた魔法使いと連絡が取れなくなった」
空気がピリッとした。心がざわつく。
「どうしたんですか」
「分からないが」
一息置く。
「おそらくカケラに吞み込まれた」
「そんな……」
目の前の人がカケラに呑みこまれることを阻止して安心しても、僕の知らないところで誰かが消えている。ニュースでは依然として行方不明事件のことは取り上げられているし、減る見込みもない。
それに――。
「そこに行けって言うのね?」
言葉を失った僕に対して彼女は物分かりが良かった。
「ああ」
「分かった」
当然のように即答する彼女に、思わず苦い表情になってしまう。
「……決断が早い」
彼女はそういう人だ。分かってはいる。僕だって断るつもりはない。しかし。
「橘くんは留守でもいいけど」
「……もちろん行くに決まってる」
「じゃあ何」
はっきり言わない僕に、彼女は不興顔をした。
僕は彼女ではなくジャスパーさんに問いかける。
「……向こうはそんなに危険なことも頼んでくるんですか? 得体の知れない〈境界〉に」
「今更でしょう?」
僕の問いに答えたのはジャスパーさんではなくミライさんだ。
「それに、どんな〈境界〉も危険なことに変わりない」
「そうだけど……」
危険だから行きたくないと言っているわけではない。彼女の言う通り、〈境界〉に行くこと自体が危険なのだ。そんなの今更だ。
だからそうではない。僕が言いたいのは。
何故、そんなに危険なことを彼女に頼むのか。
「……ジャスパーさん。連絡が取れなくなった魔法使いは大人ですか?」
「……大人だよ」
大人の魔法使いが帰ってこれなかったんだ。それなのに何故、子どもに頼む? それほどまでに彼女は期待されているのか?
正直、ミライさんをこっちの世界に派遣したという向こうの政府機関はあまり良い印象がないのだ。僕と同い年の、向こうでまだ卒業もしていない学生を別の世界に行かせている。カケラに呑み込まれる人を助けたいと言う彼女に、それよりも〈境界〉を消すことと調査の報告を優先しろと言う。
「『やらなきゃいけない』。そうでしょう?」
ミライさんは強い意志で言う。
いくら疑念を抱いても行方を眩ます人がいなくならない限り、向こうからの指令を受けないという選択肢は僕たちにはない。それには、納得している。
「……そうだね」
話がまとまったところで、ジャスパーさんはミライさんに言う。
「ミライ、箒は持って行きなさい。今日は無理に動かないで無事に帰ってきなさい」
「分かった。持って行く」
ミライさんは立ち上がり店の奥へと消えていく。バタンと扉が閉まるのを確認してから、ジャスパーさんが重々しくため息を吐いた。
「……僕が代わってあげられたらいいんだけどね」
彼はテーブルの上で手を組み、それを見つめるように目を伏せた。
「……ジャスパーさんは〈境界〉に入れないんでしたっけ」
頷く。
「本当は、あの子にも行かせたくないんだ。でもあの子は何も言わないで、飛び込んでいってしまう。僕の立場的にも止めることができない」
家族でありながらも、向こうからの危険な使命を彼女に伝える役割でもある。危ないことをさせたくない気持ちと、向こうからの命令と、彼女の使命感。彼は板挟みになっている。難しい立ち位置に、彼はずっと身を置いている。
大人ではない僕は、彼のような保護者の気持ちは分からない。だから、僕から見たミライさんを、僕が彼女に対して思っていることを言ってみる。
「……でもミライさん、行っちゃうんですよね」
「……ああ」
僕とジャスパーさんの、『彼女に対して思っていること』の重なっている部分だ。
沈黙。
〈境界〉に入れる人と入れない人。その差は何なのだろうか。
ジャスパーさんを見ていて思う。彼女は入れるのに、彼は入れない。遺伝ではない。ランダムなのか、条件があるのか。それすらも分かっていない。
犯人に関する情報を向こうに提供するという実績はできたが、調査はあまり進んでいないのかもしれない。
ジャスパーさんが息を吸って、顔を上げた。
「悠紀くん。君がいてよかったよ。僕からは色々言えないからね」
向こうへの疑問のことだろうか。「危ない」とミライさんを止めようとすることだろうか。
きっと両方だと思った。
僕はゆっくりと、首を横に振る。
「僕は、何もできてないです。助けてもらってばかりで」
「そんなことない。君がそう思っていても、だ」
以前も一度、ミライさんがいないときにジャスパーさんと二人で話したことがあった。ミライさんと上手くいっていなかったとき、彼に助言をもらった。そんな彼に、今度は僕が何か気の利いたことを言えれば良いのだけれど。残念ながら相談に乗るのは苦手なのだ。それに、僕みたいな子どもが彼を元気づけられるとも思えない。
上の階でバタバタと物音が聞こえた。二人で天井を見上げる。
「何をしてるんだ?」
「さ、さあ……」
するとすぐにミライさんが店内に戻ってきた。左手には箒がある。
何事も無さそうな彼女に、ジャスパーさんが話しかける。
「ミライ、すごい音がしたけどどうしたんだい?」
出入り口の扉付近の壁に箒を立てかけたミライさんは「ああ」と思い出したように言う。
「積み上げていた本が崩れたの。箒出すの久しぶりだったから周りにものが多くて。ぶつけた」
さもよくあることのようにスラスラと説明する。
かなりの大きな音に、本の山が盛大に崩れた部屋を想像する。「それどうしたの?」と僕は彼女に聞いた。音が聞こえてからすぐに彼女は姿を現したからだ。
「そのまま。帰ったら片付ける」
ジャスパーさんからさっきとは全く違うため息が聞こえた。僕はおかしくて笑ってしまった。彼女はたまにこういうことがある。当の彼女は何故笑われているのか分かっていないようで、眉をひそめていた。
「叔父さんも人のこと言えないでしょう」
「え、ジャスパーさんも部屋汚いんですか?」
話題の矛先が彼に向く。
「ものが多いって言ってほしいな」
彼の苦しい言い分にまた笑ってしまった。
*
例の〈境界〉は夜にしか現れないのだという。ジャスパーさんは
「昨日の今日だ、無理はしないでいい。遅くなるから家族も心配するだろう」
と言ってくれたが、せっかく今日来たのだから彼女と行ってしまおうと思う。早い方がいい。というか彼女は一人でも行く気でいたのだろう。
帰宅が遅くなることは改めて母さんに連絡して伝えた。基本、何時頃に帰るか連絡を入れれば、よっぽど遅くならない限り家族には何も言われない。割と自由にさせてくれている。友達の家に行くと言って家を出てきたので朝桐か菊永の家でテスト勉強をしていると思っているだろう。話が終わってからは勉強をしているので、嘘は吐いていない。
勉強の切りがいいところでジャスパーさんが夕飯を出してくれた。
「“街角プレート”だよ」
そう言って彼が出した大きめの皿にはサンドイッチとナポリタン、サラダが盛り付けられており、続けてスープが付いてきた。
「あ、メニューに写真載ってたやつだ。美味しそう」
喫茶店のメニューの一つだが、調査の手伝いをしてもらっているからお礼だ、と出してくれたのである。まかないだとも言われ懇意に甘える。
三人で「いただきます」と手を合わせて口に運ぶ。
「……ミライさんのお昼ご飯も、ジャスパーさんが作っているんですか?」
「うん、毎日じゃないけどね」
彼が向こうにいる日もある。確かにミライさんが購買で昼ご飯を買っているところを見かけたことがある。
「……この味を学校で食べれるの羨ましいな」
「はは、嬉しいことを言うね。ありがとう」
外が薄暗くなってきたのを見て、「そろそろ」とミライさんは立ち上がった。僕も続いて席を立つ。
とりあえず今日は様子見程度でいい。下手なことはせずに、無事に帰ってきなさい。ジャスパーさんにそう言われ、『街角』を後にした。
*
僕たちはジャスパーさんに教えてもらった場所に向かう。僕たちの会話は少なかった。箒だけを持つミライさんは道行く人にチラチラと見られていた。
駅の近く、人通りの多い大通りを反れて人が少ない暗い道に入る。三分ほどでコンビニの光る看板が見えた。そこで、ミライさんの首にかかったカケラが一際強く、青白く輝いた。
「……カケラが」
「近いみたいね」
彼女のネックレスがこんなに光っているところを見るのは初めてだ。ジャスパーさんに聞いた〈境界〉の場所はこの付近なのだろう。
歩みを進めながら観察していると、ふっと光が収まる。
……なんだ?
周囲を見渡すが何も変化はない。夜だから〈境界〉に入っても分かりにくいだろうが、それでも元の世界とはどこか空気感が違うはずだ。〈境界〉特有の星空はなく、曇り空が広がっている。地形の変化もない。靄も見当たらない。
カケラの光は一体どうしたのだろうか。そう思いミライさんに聞こうとするが、彼女は目を見開いて固まっている。
「〈境界〉に、入った」
彼女はついさっきの僕のようにきょろきょろと周りを見渡す。
「……〈境界〉って、ここが?」
「間違いない。今、私たちは〈境界〉に入った」
魔力を感知できる彼女が言うならそうなのかもしれない。
「……大変だ」
思ったよりも他人事のような気の抜けた返事が出てしまった。
彼女は首から下がったネックレスを触りながら考え込む。僕は彼女より先に歩き出す。
「……行こうか」
「……ちょっと、橘くん?」
「……なに?」
彼女に少し顔を向ける。僕の顔を見て彼女は眉間に皺を寄せる。
「橘くん、あなたどうしたの?」
「……どうしたのって、なにも」
「待って!」
再び歩き出そうとするが、叶わなかった。彼女に腕を掴まれ、それ以上進むことも振りほどくこともできなかった。
「……橘くん、もしかして体調が悪いでしょう?」
「……悪くない」
「嘘」
「……」
「熱、あるでしょう。顔が赤い」
はあ、と息を吐いた。膝に手を付き、そのまましゃがみ込んでしまう。
「……通りで今日、会話のテンポが遅いと思った……」
ミライさんが呟く。
ダメだ。ここは、〈境界〉なのに。ミライさんに迷惑をかけてしまう。
頭では分かっているのに、身体は言うことを聞かない。
「……昨日の雨でやられたのね。なんで言わなかったの」
何故言わなかったか。
「……頑張りたかったんだ」
「……馬鹿ね」
彼女の言葉が耳に届く。本当に馬鹿だ。
何か目標を持って行動する日々が久しぶりで、気が高ぶっていたのかもしれない。何かを頑張りたい、必死になりたいと思うことが、久しぶりで。
ごめん。
謝罪の言葉が、音になったか僕には分からなかった。
ミライさんを困らせていることだけは分かる。もう、〈境界〉に入ってしまっている。通常であればカケラを壊さなければ元の世界に戻ることができない。しかもこの〈境界〉は例外だと言っていた。何が起こるか分からない。景色の変化がないことが既におかしいのだ。ミライさんだけカケラを探しに行かせようかとも思ったが、きっと彼女は断る。
「……ごめん、行こう」
「……、無理しないで、休みながら行こう」
情けないなぁ。
立ち上がろうとしたとき、
「あのー、大丈夫?」
声をかけられた。こんなところにいる人なんて、迷い込んだ人くらいしかいない。
オフィススーツを着た、二十代後半くらいの女性がそこにはいた。
*
彼女は〈境界〉にいる自覚がなかった。
ふらふらと歩く僕を心配して声をかけてくれたらしく、コンビニで買ったばかりのペットボトルの水をくれた。少し休んで大分楽になった僕は立ち上がり、三人でゆっくりと歩く。真ん中にミライさん、その左に僕、反対側に女性である。
「高校生がこんな遅くにどうしたの?」
ミライさんが制服姿だから高校生と分かり、心配したのだろう。
「……勉強していて、その帰りなの」
ミライさんが答える。無難な返しだ。
「偉いわね、こんなに遅くまで……。危ないから気をつけて帰るのよ?」
「お姉さんはお仕事の帰りですか?」
僕が彼女に聞く。
彼女を改めて見ると黒いスーツ姿に黒いビジネスバッグ、それに先ほどコンビニで購入したものが入っているのだろう、ビニール袋を手に持っている。チラリとコンビニ弁当が見えた。胸くらいの長さの黒髪を肩の前に流している。化粧はしっかりしているが、よく見ると目の下には隈が見えた。スーツもくたびれている感じがしていて、いかにも仕事帰りという恰好である。
「そうよ。休日出勤で」
「大変ですね、お疲れ様です」
辺りさわりのない会話をする。
こういうのは僕の方が得意だ。そう思って話し続けようとしていたが、ミライさんに
「あなたは体調が悪いんだから静かにしてて」
と言われた。
……冷たい。しかし気を遣ってもらって申し訳ないという気持ちもあるので「は、はい……」と大人しく従う。鼻も詰まってきていて心なしか鼻声だ。女性は萎れた僕を見て、「安静にね~」と苦笑いした。
「その箒、どうしたの?」
女性はミライさんが持つ箒に目を移す。当然の質問だった。
「……買ってきてって、頼まれたんです」
「箒を?」
「ええ」
「こんなに大きな箒、自宅で使うことあるんだ……」
「叔父さんがこういうの好きなので」
女性は「叔父さん、変わってるわね」と言う。
ああ、全部ジャスパーさんのせいにした。黙っていろと言われた手前、助け船も出せずに聞いていたらミライさんはそんな誤魔化し方をした。
その後もミライさんが彼女と話す。女性が会話を繋いでくれているので、お互いの名前を知らなくても気まずくはなかった。二人の話を聞きながら、ずず、と鼻をすする。
「あなたこそ、こんなに暗い道を一人で歩いて帰るの危ないんじゃない?」
ミライさんはいつもの調子で話す。年上に対して敬語とため口を混ぜて話す彼女だが失礼な感じがあまりしない。彼女が外国人だからなのか大人びているからなのか。女性も特に気にせずに返すので、僕は何も言わなかった。
「同棲してるの。家ももうすぐだから大丈夫よ」
心配していくれてありがとう、と彼女は僕たちを安心させるように言う。
やはり彼女はここが〈境界〉であることに気付いていないようだ。会社から自宅へと帰っている。
この〈境界〉は元の世界と変わらない。彼女も普通に歩いているし、ここに踏み入れた記憶もないようで。僕も事前情報と彼女が持っているネックレスがなければ異変に気付かなかったし、〈境界〉に入ったことも彼女に言われるまで分からなかった。靄も見当たらない。ここは本当に〈境界〉なのかと疑ってしまうほどに元の世界にそっくりで、不気味なほど静かだった。
女性は、
「じゃあ、私そこだから」
とマンションを指さして言う。別れ際に僕は改めてお礼を言う。
「あの、水とかありがとうございました……!」
「いえいえ、お大事にね~!」
彼女は手を振り前を向いてマンションに向かう。八階ほどの高さのあるマンションだ。エントランスに入っていく姿を見届ける。
彼女の姿が見えなくなってから僕は話し出す。
「……ごめん、ミライさん」
「別に怒ってないから。体調悪いなら言ってほしかった」
「……言ったら、ミライさん一人で行くよね」
「そうね」
彼女は僕がいなくても一人で行ってしまうのだ。そういう人だ。僕がいないから行くことを止める、なんてことはしない。その間に人が消えてしまうかもしれないから。世界は僕たちを待ってはくれないから。分かってはいても、寂しいものがあった。
僕も、魔法が使えたら。
魔法にもできないことはある。それでもその力に頼りたいと思ってしまう。しかし叶わない願いだ。僕が魔法を使えるようになることは絶対にない。分かっていても、羨ましく思う。自覚して、勝手に落胆する。雫さんも同じ気持ちだったに違いない。あのときはこの気持ちに蓋をすることができたけれど、今は熱があるからか、じわりと広がって圧迫していく黒い感情を無視できない。
「……大丈夫?」
彼女は黙ってしまった僕に心配そうにうかがう。また具合が悪くなったと思ったのだろう。
「……大丈夫、歩けるから」
僕たちはその場から移動し始めた。まだカケラを見つけていないのだ。
「それよりも何か分かった?」
ミライさんと女性の会話はなんとなく聞いていたが、たまにぼんやりしていたときもあった。それに、歩いていて〈境界〉に変化があっても僕は気付くことができないだろう。しかしそれはミライさんも同じなようで。
「特に何も。……カケラの魔力は感じるの。でもいつもより、何て言えばいいんだろう、……!」
彼女は足を止め、ばっと後ろを振り返る。
その横顔は驚きの表情で染まり、瞳が揺れている。僕も振り返り彼女が見つめる道を見てみるが、何もない。
「……どうしたの?」
「……戻ってきた」
「え?」
「〈境界〉から出た。今」
「……いま?」
入ったときと同じだ。何も分からなかった。
ジャスパーさんが言っていたことがよく分かった。カケラを壊していないのに元の世界に帰される。
ミライさんはすぐに元の道を戻り始めた。僕も彼女を追う。ゆっくり歩く僕は早歩きの彼女と距離が離されていくが、彼女の姿は消えることはなく僕の目に入っていた。
彼女はあのマンションの前で止まった。少し遅れて僕も辿り着く。
「ここは〈境界〉?」
「……違う。元の世界」
その後も周辺を歩き、〈境界〉に入ったコンビニ手前まで戻ってみたが、再び〈境界〉に入ることはできなかった。
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