6月28日(金)‐03
ハッと目が覚めたように意識が戻る。
伸ばした手が彼女の手を捕らえたと思ったが、空ぶった。
雫さんの姿も、彼女を覆っていた黒い靄も綺麗さっぱり消えていた。
透明になってしまったのだ。
雨のしぶきのような靄が周囲を湿らせる。
「ミライさん!」
呼びかけると、彼女はハッとしたように答えた。近くにいた彼女も、記憶を見たのだろうか。
「だめ! 靄と魔力が充満していてカケラの場所が分からない!」
公園の中央で僕とミライさんは取り残された。周囲を観察するが、何も見えない。
「絶対にいるはずなんだ! この〈境界〉のどこかに!」
「でもむやみやたらに魔法は使えない!」
雫さんに当たってしまってはいけない。幸いにも靄は僕たちを襲ってはこない。ただただ静かに、雨の音だけが響き渡っている。
ローブをなんとかしなければ。しかし相手は透明だ。肉眼で見つけられない。加えて靄の雨で視界が悪い。空気中で細かく分散し、もはや霧になっていた。右手でおでこ付近に屋根をつくり、顔に雨が当たらないようにする。目を凝らすが、やはり無理だ。
少しずつ霧が濃くなっていく。降った雨が、水のような靄が溜まっていく。膝くらいまでの高さになっていた。
靄が僕の身体を這い上がる。
「うわっ」
すると緑色の光が視界を覆った。眩しくて腕で顔を隠す。
光が弱まる。目を薄く開けた。ミライさんが魔法で靄を払ってくれたのか。そう思ったが、光っているのは僕の方からだ。
鞄に付けていたお守りが、緑色の光を灯していた。
「言ったでしょう。黒い靄から守ってくれるって」
ミライさんが自分に襲う靄を消しながら言う。
大丈夫だ。そんな気がした。
「探そう。雫さんを」
彼女は頷く。僕たちはその場から一緒に移動し始める。靄をかき分けて、雫さんの名前を呼びながら少しずつ前へと進んでいく。
霧のように漂う黒で、あたりが見えなくなっていく。雫さんどころか、このままではミライさんから離れすぎると彼女すら見えなくなってしまう。
僕に任せると、ミライさんは言ったのだ。
(考えろ、考えろ。どうしたらを雫さんを見つけられる?)
魔法のローブを纏った彼女を、ただの人間の僕が。魔力を感知できるミライさんでも見つけられない彼女を。
〈境界〉に入る前に見た、雫さんの顔。〈境界〉の中で彼女の過去に触れたときに知った、雫さんの感情。彼女に手を伸ばしたとき、彼女もこちらに手を伸ばした。その手を掴めなかった自分の右手を見つめる。
(何故、彼女は手を伸ばした?)
本当に消えたいと願うなら、伸ばす必要ないのではないか。
(今日、最初に会ったとき。ローブを着ていた彼女を、何故見つけられた?)
それは、彼女がフードを被っていなかったからだ。すっぽりと身を包んでしまえば第三者が見つけることは不可能だ。今のように。
そう、見つけるのは無理なのだ。彼女が自分から姿を現してくれない限り。
「雫さん! 聞こえてるよね!?」
彼女は透明になっただけだ。いなくなったわけではない。声は届いているはずなのだ。
怖がらないように、優しく語りかけていく。
「君は、本当は、見つけてほしいんだよ。消えたいと思ってるけど、でも消えたくないんだ」
その二つの気持ちは両方持っていてもおかしくない。人間だから。透明になりたいときもある。彼女のその気持ちを否定してはいけない。否定されてはいけない。変ではない。
「大丈夫、隠れたいときは隠れていい。そうしたいときもあるよ。そして、見つけてほしくなったら見つけてもらえばいい。見つけてくれる人が必ずいるから」
彼女は僕たちのことを「いいですね」と言ったけれど、最初はそうじゃなかった。すれ違った。これじゃあいけないと思って、ミライさんとたくさん話した。本当の自分の気持ちを話し合ったからこそ、今の関係性がある。
「でも、声を出してくれないと、見つけることができないんだよ」
表に出して、初めて他人が見ることができる。存在を認識できる。見つけられない〈境界〉は、なかったことになる。それと同じだ。ミライさんが僕にしたように。
「……思ってることを言ってみて。自分がしたいと思うことを」
そしたら今度は、僕が雫さんの期待に応えられるように頑張るから。一人だけで我慢しないで、お互いに話して、受け入れていかないと潰れてしまう。
その言葉を聞いて、彼女は僕に希望を抱いたようだ。
――……ぁ。
振り返る。
聞こえた。
かすれた声が。雨の音の奥に聞こえたそれを僕の耳はしっかり拾った。
すぐ右にいたミライさんと顔を見合わせる。静かに、と人差し指を立てて口元に当てると彼女は頷いた。もう腰辺りまで水位は上がっていた。
彼女の声が聞こえた方向に、慎重に近づく。心なしか靄が薄くなった気がする。もう一度、ヒントが欲しくて声をかけた。
「……どこにいるのかな」
どの言葉を選ぶのが正しいかは分からない。否、正しい言葉などない。しかしこの言葉が彼女の未来を左右してしまうのではないか、という責任感は重く圧しかかっている。一つ一つ慎重に選んで、声を発する。
「教えてくれたら、そっちに行くから」
問いかける。この先で誰かが動いている気配がある。横にいるミライさんではない。雫さんは僕たちが近い距離まで来ていることは分かっているはずだ。
「たすけて」
雨の音にかき消されてしまいそうなその声が、今度ははっきりと聞こえた。
彼女はその言葉を言うことができずに、何も言わずに透明になった。透明になっても抱えている心の負荷の大きさは変わらないというのに。
「そっちに行ってもいい?」
「……はい」
一歩。また一歩。前に進む。靄が減ってきた。雨が弱まってきた。
五歩先で、雫さんは自らフードを外して姿を現す。うつむく彼女の表情は見えないが、顎に滴る水は絶え間なく流れていく。
「……見つけた」
僕は微笑んで彼女に手を差し出す。雫さんはおずおずと手を伸ばす。今度こそ、彼女の手を取った。
水のように沈殿した靄と、空気に充満していた霧が消える。
しかし雨は依然として降り続けていた。まだここは〈境界〉だ。
雫さんはしゃがんでしまったため、僕も取った彼女の手の高さを揃えるように一緒に膝をついた。彼女は地面にぺたんと座り込む。うつむいたままだ。
「……大丈夫?」
「……」
彼女は首を横に振る。大丈夫ではないと、素直に言えていることに安心はした。
「大丈夫じゃないよね。ずっと大丈夫じゃなかったよね」
「……うぅ」
静かに泣いていた彼女が嗚咽を漏らす。
彼女が着ているローブの金具についている石がまだ青白く輝いている。僕はミライさんを呼んだ。
「ミライさん、カケラ壊せる?」
「……梅咲さん、ごめんね」
三歩ほど後ろに立っていたミライさんは、僕の左隣にしゃがむ。左手を彼女の胸元に光るカケラに触れる。パキィン、と高い音と共にカケラは砕け散った。
瞬間、世界が明るくなった。星が輝いていた夜空は雨雲で覆われる。雨も急に弱まった。〈境界〉に入る前よりも落ち着いており、しとしととあたりを濡らす。見慣れた公園の真ん中に僕たちはいた。
「ミライさんありがとう」
そう言うとミライさんは再び立ち上がり、後ろに下がっていった。足音が遠のく。
僕は声を上げながら泣き続ける雫さんに語りかけた。
「雫さん、隠れたくなったら隠れよう? そして大丈夫になって、また姿を見せてくれればいいよ」
「……っ、それで、いいの……?」
雫さんは顔を上げる。雨で涙かどうか分からなくなっていた。しかしその顔は大人びたものではなく、幼さが残る年相応のものだった。
「うん」と答える。
影が差し、雨が止んだ。見上げると透明なビニール傘が僕と雫さんの頭上で雨を遮っていた。ミライさんはベンチに放り投げていた僕たちの傘を取りに行っていたらしい。自分の傘を差して、僕の傘を僕たちに差してくれている。
このまま話を続ける。
「僕もベッドに隠れて出てこないときがあるからね」
「起きれない、っ、だけじゃなくて……?」
「僕は朝が好きで早起きが特技なんだ。だから夜に隠れてる」
「そう、なんですね」
「……全然、大人じゃないんだ」
彼女にとっては大人に見えていたかもしれない。しかし僕はそう思わない。自分のやりたいことに必死になっている雫さんの方がよっぽど大人に見える。ただ、大人びた彼女は休み方を知らないだけ。
「学校を休めないのなら保健室に行くといいよ。体調不良って言って休ませてもらえばいい」
「っ……、仮病、ですか?」
真面目な彼女はそれを気にした。ずる休みをしたことなんてないのだろう。
「仮病じゃないよ。だって、休みたいんだから。そういう場所でしょ?」
彼女の濡れた目が大きく開かれた。目から鱗といった顔だ。
「雨が降ったら、雨に消してもらう日があってもいいかもしれない」
「……雨、好きのままでいいのかな」
「いいんだよ。僕も雨は好きだし」
嘘吐かなくていいんだよ。
そう言うと、雫さんはまた涙を流した。
雫さんは僕の手を離す。
金具を外し、自身の肩にかかったローブを脱いだ。軽くたたんで、僕に渡してくる。
「……返すの遅くなって、ごめんなさい」
全く濡れていない、さらりとした布を両手で受け取った。
「ありがとう」
魔法に頼らないで生きる決意をした雫さんを、僕は最高にかっこいいと思った。
*
彼女を家の近くまで送った後、僕とミライさんは並んで歩いていた。全身びしょ濡れで、僕に至っては地面に膝をついていたので泥だらけだった。雫さんもなかなかに汚れていたので心配だ。
僕が一つくしゃみをすると、ミライさんはちらりとこちらを見た。
「橘くんも、仮病使うのね」
「仮病じゃない。普通に体調悪かったら保健室行くでしょ。あと僕、保健委員」
「ふーん」
「あ、もしかして行ったことない?」
「……なくはない、けど」
「健康なのはいいことだよ。ミライさん丈夫そう」
「まあ、丈夫ではあるかな」
これまでの〈境界〉での出来事を見た限り、魔法だけではなく純粋にフィジカルが強い。それとも肉体的な強さと魔法の強さは比例するのだろうか。
「……ミライさんは、逃げることある?」
そんな強いミライさんにも、そういうときがあるのだろうか。雫さんが雨の日に一人になったり、僕が夕方に街を見下ろしたり。なんとなく、そういうとき。
気になって彼女に聞くと、彼女は小さく息を吐いた。
「前に、十二人の魔法使いの話をしたの覚えてる?」
「ああ。世界の〈要〉を守っている?」
「母が、その後継に選ばれたの」
「え?」
急に、何故その話を。反射的に彼女の顔を見たが、彼女はこちらを見向きもしなかった。いつもの無表情で話を続ける。
「私が小さい頃の話。母は〈要〉を守り続ける使命を与えられて、もう帰ってこない。私は、母みたいになりたいって思ってる。優秀で、優しくて、強い魔法使いに」
それが、彼女が別の世界に来てまで頑張り続ける理由なのだろうか。明確な目標を持って生きてる彼女は、ずっと眩しい。
「でもね。どうしたらいいか、ずっと分からないの」
「……ミライさんでも、そうなんだ」
「……そう。逃げてるんだと思う」
僕も逃げている。ずっと。
いつもの問いを繰り返す。
雫さんにはあんなことを言ったが、当の僕はこの様だ。偉そうなことなんて言えない。
「あのさ」
答えが出ても変わらない。この世界は、僕の人生は変わらない。いつもの結論。
彼女にもこの問いをしてみようと思って、
「……傘、ありがとう。差しててくれて」
言葉を飲み込んだ。これは言わなくていいことだ。
ミライさんは「いいの。私は何もできなかったから」と穏やかに言った。
「橘くんありがとう。私一人だったら梅咲さんからローブを返してもらうことできなかったと思う」
「……ミライさんに、初めて言われた」
「何を?」
「『ありがとう』って」
「……嘘」
「本当」
「……それは、ごめんなさい」
「はは、なんで謝るの。せっかくお礼言われたのに」
僕は笑った。
彼女からもらったその言葉が、とてつもなく嬉しかった。
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