7月1日(月)
例の〈境界〉に行ってから一日が空き、今日は月曜日だ。昨日はジャスパーさんが家にいなかったので調査は休みだった。僕も熱が出ていたので寝ていた。無事に平熱まで下がり、テスト一日目を乗り切ることができた。
「入れる時間や場所が細かく決まってるのかもしれない」
ミライさんの言う通り、前回と同じ時間、二十時頃にコンビニに着く手前のところで〈境界〉に入った。らしい。相変わらず僕には元の世界と〈境界〉の境目は分からなかったのだけど。
「今日はどうするの?」
一昨日と同じことをしても、同じように戻されるだけだ。ミライさんに聞くと、彼女は今日の行動指針を話す。
「あの人には会わないでおく」
あの人とはこの〈境界〉に迷い込んでいる女性のことだろう。
彼女は今どこにいるのだろうか。一昨日は自宅に帰っている最中で僕たちと出会ったが、この〈境界〉にいる間は元の世界にいたときと同じように過ごしているのだろうか。彼女は自分が〈境界〉に迷い込んでいる自覚がなかったし。
僕たちはそのままコンビニまでの道を歩く。街灯も少ない、車もあまり通らないこの道で、コンビニの灯りが眩しく目に映る。コンビニの駐車場には車が二台停まっていた。そういえば一昨日と同じ配置である。
コンビニの前を通り過ぎるときに視界の隅で何かが動いた。コンビニの自動ドアが開いたのだ。
僕とミライさんは驚いてそちらを見る。この世界では動くものに敏感になる。基本、誰もいないから。
「あの人だ……」
コンビニから出てきたのは一昨日出会った女性だった。くたびれたスーツを来て、黒いバッグとコンビニの袋を持っている。彼女は、僕たちに気付いた。
「……?」
女性は僕たちの前で止まる。数秒の間。
(なんだ、この時間は)
彼女は頭に手を当て、
「……ああ、……あれ、この間の……」
と呟いた。
忘れていて、思い出していたのか。
一度しか会っていないし、暗いからそれはそうか。立ち止まったのは僕たちとばっちり目が合ったからだろう。
「……どうも、こんばんは」
僕は困惑しながらも彼女に挨拶する。女性は先ほどの態度とは一変してぱっと明るい表情になった。
「こんばんは~。体調大丈夫だった?」
「え? あ、はい、おかげさまで。その節はどうもありがとうございました」
「いえいえ、それは良かった」
彼女は笑う。はきはきと、それでいて気だるげな雰囲気を醸し出しながらゆったりとした口調で話す。
「にしても偶然だねぇ。今日も勉強?」
「は、はい。テスト期間なんで……」
「偉い!」
今日は彼女には会わないつもりだったのに、さっそく予定が崩れた。隣にいるミライさんをちらりと見ると、目が合った。彼女はゆっくり頷く。諦めたようだった。
結局このまま一緒に、前回と同じ場所まで行くことになった。女性は今日も仕事終わりだと言った。どこかの家の晩ご飯の匂いがする。前回と違って夕飯をまだ食べていないのでその匂いで自分の空腹に気付いた。
「テストか~。いま何年生?」
女性は僕たちに話題を振る。「二年です」と言うと、「若ぁい!」と笑った。
「お姉さんも若いでしょ……」
「いやぁ、君たちに比べるとね」
「いくつですか?」
「二十八」
「若いじゃないですか」
ミライさんに「ね」と同意を求めると、「ええ」と頷いた。彼女は正直だからお世辞ではない。
女性は「ありがとね~」と僕たちの言葉を受け取る。彼女は少し遠くを見つめる。きっと自分の学生時代を思い出しているのだろう。
「……将来なりたいものとか、あるの?」
少しの沈黙の後に続いた言葉に、僕は固まった。
「……う~ん、僕は特に……」
「……」
僕たちは両方とも上手く返答できない。
「まだ決まってない?」
「……そうですね」
「まあ、そうだよね。私も高校のときは別になかったな」
私が聞いておいてなんだけど、と彼女は笑った。他人との会話の話題なんて、そのあたりになってしまうのは仕方のないことだ。むしろせっかく話を振ってくれたのに、若さ故の面白い話ができなくて申し訳なくなってくる。
「私もそうだったけど、結構周りにもそういう人いたよ。自分が何をやりたいか分からないけど、とりあえず大学行くっていう人」
女性は「ま、いつか見つかるよ、多分」とふわっとしたことを言う。その適当さや無責任さが、僕にとっては心地良かった。彼女は独特な空気感を持っている。
「お姉さんは何か見つかりました?」
女性はう~ん、と視線を上にあげて考える。黒い空を覆いつくしている雲。月の姿も見えないが、月の光が雲を透かしているので位置だけは分かった。
(〈境界〉に入る前も、こんな空だったっけ?)
そんなことを考えていると、彼女が口を開いた。
「君たちはお姉さんみたいにならないようにね!」
にぱっと笑った顔で、明るい声色で言ったものは自虐だった。
「……反応に困りますって」
変な空気になる前に、なんとかそう返した僕を褒めてほしい。
高校生相手にとんでもない爆弾を投げてきた彼女はへらりと笑った。さっきは心地良いと思ったが前言撤回だ。本当に反応に困る。
「あはは、ごめんねぇ」
「笑えない冗談はやめてくれません?」
そんな彼女にミライさんでさえそう言う。
しかし彼女は痛々しい笑みを止めない。
「こんなやつにならないようにね~」
そうしてこの〈境界〉にいる女性は、マンション前に着くと「気をつけて帰ってね~」とエントランスに入っていった。
「……はあ」
「なんなの、あの人……」
「知らないよ……」
どっと疲れてため息を吐いた僕に、ミライさんは呟いた。
「それで、この後どうする?」
「道を戻る」
僕たちは女性と歩いてきた道を引き返す。
「カケラの場所、分かる?」
「いえ、昨日言いそびれたことなのだけど、カケラの位置が分からないの。前回はこの道をそのまま真っすぐ行ったら〈境界〉から出てしまったから戻ってみる」
しばらく無言で歩く。
彼女の感覚でしか異変が分からないので、改めて僕のできることの少なさを痛感する。こればかりはどうしようもないな、と空を見上げた。
「あ」
「あ」
僕とミライさんは同時に声を出した。
驚いて顔を見合わせる。僕から話し出した。
「今、戻った?」
「……戻った」
やっぱり。
「なんで分かったの?」
ミライさんは僕に聞く。
僕は空に指をさしながら見上げた。
「雲の位置が変わったんだ。空全体を覆っていた雲が、今はほら、ところどころ空が見えてる」
「……よく気付いたね」
ミライさんの驚いた顔を見て、難解な問題に正答して褒められたような気持ちになった。
彼女は考え込み、ぶつぶつと呟く。
「前回と別の道を歩いていたのに戻された……。明確な出口が決まっているわけでなない。戻される条件は時間? 元の世界とあまり変わらないけど、いつもと同じように空は変わった。変わった意味は? 曇っているのは何故? 彼女はなんで気付かない?」
僕が一つの違和感に気付いている間にも、彼女は新たに次の謎を見つけ出し、考察していく。謎は多いのだから、一つに喜んでいるだけでは駄目だ、と彼女の言葉に耳を傾ける。口に出してくれているのは助かる。たまに彼女の思考に追いつけないことがあるから。
「あ」
僕は思い出したことを彼女に伝えようと、彼女の思考の間に言葉を挟む。
「ミライさん?」
「何?」
「勘違いかもしれないんだけど、」と切り出す。
「コンビニの駐車場にあった車なんだけど、前回と同じだったような気がしたんだ」
「……〈境界〉が生成されたときの風景が、そのまま残っている……?」
「あの、本当に見間違いかもしれないんだけどね」
あまりにも似ていたから、ただこの世界を模倣したように見えていた〈境界〉。だが、実際はそうではないのかもしれない。〈境界〉ができた当時のことが切り取られている可能性がある。
しかしミライさんは、矛盾点をあげた。
「じゃあなんであの人は気付いていないの? 毎日同じこと、同じ風景があったらさすがに変だと思わない?」
「それは……。なんでだろう」
また二人で考え込む。
しかし時間が時間だ。今日はもう帰宅しなければならない。歩きながらもあの〈境界〉のこと、女性のことを考えていた。
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