7月2日(火)
「私、ふと思ったの。あの空間であの人以外を見ていないなって」
テスト二日目の朝。彼女は自分の席でそんなことを言った。
テスト期間中は出席番号順の席になるため、僕の荷物はいつもと違う席に置いている。しかしミライさんは席替え前と後で位置が変わらなかったのでいつもの席だ。ちなみに席替えはくじ引きなので、かなりの強運だなと思った。彼女の前の席が朝桐ではないため、僕は彼女の後ろ、彼女の席と掃除ロッカーの間の空間で窓に寄りかかっている。ミライさんは体を横にして椅子に座り、僕と同じ方向を向きながら話していた。
「あそこにあの人以外いる?」
僕は彼女に質問する。
「それは知らない」
「じゃあ、どういうこと?」
「あの人、二回連続でコンビニから出てきているじゃない。しかも何か買っている」
「ああ。弁当と水と煙草だったよ」
「何を買ったかはいいの。彼女、あの空間でコンビニの店員と会っているはず」
「あ」
全く思いつかなかったことだった。それに、車が二台あったんだ。客もいるはずである。
「今日こそ彼女に会わないで色々見てみましょう」
昨日と同じ行動指針だが、目的が明確になった。少しずつだが〈境界〉の違和感を解きほぐしていけているような気がする。
きっと彼女は昨日帰った後もずっとこのことを考えていたのだろう。関心するし、とても助かるが。
「ミライさん、それより今はテスト勉強だよ……」
僕は世界史のノートと睨む。この時期に特殊な〈境界〉の調査と、それに加えて僕は直前に熱を出した。テスト勉強は少しずつ行ってはいたし、僕自身そこまで高得点を狙おうという意識はないが、それでも今回は心配だ。ミライさんはそれもそうかと、一時間目のテスト科目である世界史の教科書を取り出した。僕はノートに赤シートを置き、空欄になった文章を思い出していく。
「ミライさん、問題出して」
僕はミライさんに自分のノートを渡す。今回の出題範囲を一問一答にしたものだ。ちなみにこっちの世界の歴史の勉強が大変と言っていたミライさんに、これのコピーを数日前に渡し済みである。
ミライさんがランダムに一問ずつ読み上げていくので、僕がそれに答える。すぐに答えられるものもあれば、少し考えないと思い出せないもの、記憶が混ざって別の問題の答えを言ってしまうこともありつつ、一周が終わる。それをやっている間に他の生徒も教室に着き、勉強をしていた。
「おはよう、橘」
出題者を交換し、僕が問題を出していると菊永がやってきた。
「おはよう」
「お前ら最近仲いいな」
「まあね」
菊永はミライさんに「どうも、ステラさん」と挨拶し、ミライさんも「おはよう」と返す。
「ミライさん、次の問題。この人の名前は?」
僕は菊永に指をさす。
菊永が「“この人”て」と小さく苦笑いする。ミライさんは無表情で、
「菊永くん」
と答えた。
「おお、正解!」
そう言って親指を立てたのは菊永だ。僕は自分で出題しておいて驚いた。
「噓でしょ、ミライさん同級生の名前覚えてるの?」
「失礼じゃない? さすがに転校してから二ヶ月経ったら覚える」
「転校一ヶ月で僕の名前知らなかったのに?」
「……」
ミライさんはあからさまに僕から目をそらし斜め下を見た。なんなら同級生であることすら知られていなかったというのに。
菊永が「はは、残念だったな」と笑う。
「てか橘、それ作ったんなら写真送れよ!」
菊永がびしっと人差し指を向けたのは僕のノートだ。
「ええ、ごめん。聞かれなかったから」
「朝桐、あいつ今回赤点取るぞ……」
「うわあ、ごめん朝桐……」
しかしもう今更である。申し訳ないが彼には今回赤点を取っていただくしかない。
その後は、菊永も加わり二人に問題を出していく。一時間目が始まる十分前に阿水さんが登校してきて、「ミライちゃん私なんにも勉強してないよぅ~!」と泣きついていた。彼女も加わり引き続き問題を出していたが、阿水さんはちゃんと勉強をしていないようで、これはまずいと三人で彼女に出題範囲を教え込むことになったのだった。
*
〈境界〉に入った。これで三度目だ。今日は雨が降っていたので変化が分かりやすかった。黒の折りたたみ傘を閉じ、ミライさんの折りたたみ傘と一緒にビニール袋に入れて鞄にしまう。これで両手が空く。
今回はあの人には会わない。これまでのことを考え、コンビニを通る前に歩みを止めて身を隠した。こっそりと様子を窺う。やはり同じ車が二台、同じ位置に停められている。
「出てきた」
ミライさんが呟く。
女性は初日と二日目のときと同じ格好でコンビニを出てきた。彼女は僕たちに気付かずに街灯の少ない通りを歩いていく。
僕たちはコンビニに向かう。店員や客と会うためだ。レジカウンターや店内に人影があることが、入る前から分かる。
自動ドアが開く。レジに立つ人を確認することができた。
「!」
目を見開く。僕たちはコンビニに入ることはなく、数歩後ろに下がった。
僕たちが見たものは、人ではなかった。
人だと思っていたものは、靄だった。
人の形をした、ぬらりとした黒い靄が、佇んでいた。人間の形状をした黒は、商品をレジに持って行き、同じ見た目の黒い人に渡す。バーコードを読み取り、値段を伝える。否、声は聞こえない。そんな仕草をしている。客の靄は、ポケットから四角い何かを取り出す。きっと財布だ。雑誌の前で立ち読みをしている黒い影もいた。ぱらりとページをめくる。呼吸で肩が上下している。
まるで、人間だ。
不気味だ。掴み取れないが明確に僕たちを掴みカケラに引きずり込もうとする靄が、具体的な形状を持って動いている。
「なんだ、あれ……」
幽霊でも見たような感覚に、じとりと汗をかく。
自動ドアが閉まった。
「は、入る……?」
僕がミライさんに聞くと、彼女は迷ったのち、
「行く」と言った。
もう一度自動ドアを開け、今度こそ中に入ろうとするが。
「……やっぱりやめない?」
僕は彼女を止めた。
襲ってくる靄かもしれない。ただでさえよく分かっていない〈境界〉なのだから、急いで近づかない方がいい。そう思った。
「ごめんなさい。あの人を追いかけた方が良さそうね……」
彼女はそれでも行くと言いそうだと思ったが、意外にも僕の言うことを聞いて入るのを止めてくれた。
二人で女性の後を追いながら、先ほど見た光景のことを話す。
「……さっきの何?」
「分からない……」
これも、この〈境界〉のイレギュラーたる所以なのか。
今まで靄に対して感じたことのない類の恐怖を感じた。今までは物理的な身の危険だったが、あれは違う。
人の姿を模倣していて、意思を持っていそうな、息をしていそうな生々しさ。顔にはパーツが付いていないのに、視線が動いているような自然な動作をする。自動ドアが開いたとき、あれは僕たちに気付いたはずだった。しかし襲ってこなかった。それなのに少しも安心できなかった。
何が引き金になるかは分からない。あれが襲ってくるところを想像して、足がすくんだ。彼女には申し訳ないが、彼女が行かずにいてくれてひどく安堵した。
「……あの人、やっぱり気付いていないのね」
あの靄を前にしておかしいと思わないのか。それとも彼女には僕たちとは違うものが見えているというのか。
「やっぱり、人と〈境界〉は何か繋がりがあるのかもしれない」
彼女が呟く。どこかの家の夕飯の匂いが漂ってきた。
「……僕もそう思う。彼女がただ迷い込んで気付いていないっていうには、あまりに不自然すぎる」
〈境界〉が先ではなく、人が〈境界〉が生まれるきっかけになっているのではないか、という話。それが本当だとしても、やはり人が〈境界〉に入れる条件というのがあるはずなんだ。僕とミライさんが入れるのだから。分からなければ、そのきっかけも分からないままだ。
女性の住むマンションに着いた。
「あの人の部屋、見つけてくる」
この〈境界〉を解明するには、女性のことをよく観察するしかない。それに部屋が分かれば元の世界で訪問することができる。同棲していると言っていたので、その人に接触できるかもしれない。彼女の提案に僕も賛成した。〈境界〉から戻されるとき、彼女がどんな行動をとっているかも気になる。
「マンションの中までついて行ったらさすがにバレるんじゃない?」
僕の疑問に彼女は左手を持ち上げて見せる。
「そのための箒でしょう?」
「あっ」
ミライさんは箒にまたがって浮かび上がる。彼女が飛んでいる姿なんて、最初にぶつかったときに見たくらいである。
「何かあったら大声で呼んで」
彼女はそう言い残して上昇する。
この時間、僕は何もできない。ただマンションの前で彼女の姿を眺めている。
彼女の高度が一定になった。エレベーターから下りた女性を見つけたのだろう。
そして、ミライさんは降りてきた。しなやかに箒から下りる。
「おかえり、何か見つけ」
「一回こっち来て」
「え? う、うん」
慌てた様子の彼女について行く。マンションを離れ、一つ目の曲がり角を曲がる。
彼女は角からマンションを観察する。何かあったのだろうか。聞く前に彼女が小さく口を開く。
「……部屋から、靄が出てきたの」
「靄? どこから?」
「一番奥の部屋」
それが、どうしたのか。
「……靄が、廊下で彼女とすれ違った」
視線の先で、マンションのエントランスが開く。
「下に、降りてくる」
誰かが出てくる。
「――!」
出てきたのは、靄だ。コンビニにいた靄よりも抽象的で、もやもやと人の形を保とうとしているように見える。それでも一歩、二歩と足を前に運んでいる。
「隠れて」
ミライさんは呟き、警戒を強める。隠れているとはいえ、何が起きるか分からない。
靄はマンションを離れ、こちらに向かってくる。
ま、まずい。
「これ、持ってて」
「う、うん」
箒を渡され、両手で受け取る。
ミライさんは僕の前に立つ。そして、
バッと角から姿を出す。左手を前にする。手のひらから緑色の光が輝く。光を放出しようとして。
「……え?」
靄は消えた。
「……大丈夫?」
角から身体を出す前に、僕は彼女に聞いた。
「……うん」
「……ミライさん、今魔法使った?」
「使ってない。勝手に消えた」
なんだったのだろうか。
ミライさんは「もう一度上見てくる」と言い、僕の手から箒を受け取る。その場で箒に乗り行ってしまった。
小さくなっていく彼女の姿を見て、目を細めてため息を吐いた。
(……僕もマンションの前まで戻ろう)
来た道を戻る。
靄が消えたあたりで、ぴたりと足を止めた。
(……なんだ、この匂い)
かすかに花の香りがした。すんすんと嗅ぐが、もう匂いは感じない。
ミライさんは何かを見つけただろうか。そう思って上空を見上げる。ミライさんはまだ降りてこない。最初、マンションから出てきたのはあの女性だと思ったのだが、その彼女はまだ上にいるのだろうか。
ぼんやりと上を眺めていると、マンションの扉が開いた。
また靄だろうか。
もう一体いたのか、と焦ってミライさんを呼ぶために大声を出そうとする。
(……あの人だ)
出てきたのはあの女性だった。
ふらふらとした足取りで、マンションから出てくる。いつもの彼女と様子が違うのは明らかだ。
「あ」
彼女の顔が一瞬こちらに向いた。ばちりと視線が絡む。
彼女はふっと顔をそらし、おぼつかない足で帰宅してきた道を引き返していく。ふらふらと、駆け足気味に。
(目が合った……?)
固まってしまったが、はっと思い出したようにミライさんを呼んだ。ミライさんがすぐに下まで降りてきた。
「何かあった!?」
「あ、いや、危ないことはないよ。あの人がマンションから出ていっただけ」
「……帰ってなかったのね」
「どういうこと?」
「あの人、さっきは廊下にしゃがみ込んでいて。今見たらいなくなっていたからもう帰ったのかと……」
「彼女、向こうに行ったけど」
向かった方向を指さす。まだ遠くの方に小さく女性の背中が見える。手にはバッグとコンビニ袋をしっかり持っていた。
「追いかける」
彼女は走り出す。その姿が見えなくなる前に、僕たちは彼女の後を追う。
女性はいつもの帰宅ルートを引き返しているのだと思っていたが、そういうわけではないらしい。真っすぐ進んだ道路を、彼女は左に曲がった。
さっきまで身をひそめていた靄たちが、急に現れ視界に入る。ミライさんの首から下げられたカケラが強く光る。異常なほどに重苦しい空気。
そして、
「……あ」
そう呟いたのは僕だったか、ミライさんだったか。
〈境界〉から元の世界に戻されたのだ。〈境界〉に入る前に降っていた雨は止んでおり、空は雲で覆われていたがすぐに分かった。靄が消えた。それに、最後の空気は明らかにおかしかった。
彼女が曲がった道を曲がるが、誰もいない。二人で切れた息を整えながら呆然とする。
「……ねえ、ミライさん。マンションで何があったの?」
僕は女性がいたであろう場所を見つめながら聞く。
「……彼女、四階で降りたの。廊下を歩き始めたときに一番奥の部屋のドアが開いた。私はあの人に見つからないよう近づきすぎないようにしていたから、よく見えなかった。でも、その部屋から靄が出てきて」
「降りてきたやつだね」と言うと、「そう」と頷く。
「……その靄が出てきたときにあの人が立ち止まって。靄とすれ違ってからかなり様子がおかしかった。その場で座り込んでしまって、でも靄がエレベーターの方に行ったから、降りてくるんじゃないかって思って……」
「来てくれたんだね」
ありがとう、と礼を言う。
「何もしてないけど。勝手に消えたし」
「それでも」
また、彼女に守られた。
つくづく僕は何もできないなと思う。箒で飛べない僕は、彼女について行くこともできない。
人間だから? 仕方ない?
ああ、考えてはいけないこと、考えてもどうしようもないことを、考える。どうにもならない。だから、彼女にぶつけてはいけない。彼女は悪くないのだから。感情に蓋をする。それでも。
「……ごめんね」
――それでも、ほんの少し、羨ましいと思ってしまう。どうしようもないことなのに。
「……無事ならそれでいいじゃない」
彼女は僕の感情に気付かないまま、優しい言葉を吐いた。
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