6月18日(火)
放課後、喫茶『街角』に着いても彼女は出てこなかった。そういう日もあるか、と僕は扉を開けて店内に入る。カランカラン、と扉に付いたベルが軽快に鳴る。テーブルを拭いているジャスパーさんが「いらっしゃいませ」と振り返った。
「ああ、悠紀くんか、いらっしゃい」
「こんにちは、ジャスパーさん」
見渡しても彼女はいなかった。彼女がいつも座っている出入り口近くのカウンター席にも、僕が初めてここに来たときに三人で座っていた一番奥のテーブル席にも。
「ミライだね。呼んでくるから待ってて」
「はい、ありがとうございます」
ジャスパーさんは店の奥の扉へ消えていく。この奥、客が立ち入らない部屋と、そこにある階段から上がれる二階が生活スペースらしい。僕はそっちに入ったことはないが、魔法関連のもので溢れているのだろうか。
少しすると困った顔で微笑むジャスパーさんが戻ってきた。
「ごめんね、悠紀くん。もう少し待っててもらえるかな。もしかしたら今日の調査はなしになるかもしれない」
「あ、いえ、大丈夫です」
珍しいこともあるものだ。学校も無遅刻無欠席で(早退は一度していたが)、時間やルールには厳しそうなのに。
良かったら座ってゆっくりしていてくれ、と促された僕は最初に来たときと同じ一番奥の席に座る。
「……ミライさん、どうかしたんですか?」
「学校からは帰ってきたんだけどね、部屋から出てきてないんだ。昨日、帰りが遅かったから。疲れているんだろう」
そう言うジャスパーさんに、僕は一つ疑問が浮かぶ。
「昨日は解散早かったんですけど、用事でもあったんですかね」
水を目の前に置いてくれたジャスパーさんにお礼を言う。それを取り口元に運ぶが、
「〈境界〉に行ったと聞いたよ」
「えっ」
グラスの縁が、口につく直前で僕の身体は固まった。
「……もしかして悠紀くん、知らなかった?」
「……、何時に、帰ってきたんですか?」
「十一時過ぎだったかな。朝もいつも通り登校したから疲れているんだろうね。夜も危ないし早く帰ってきなさいって言っているんだけど……」
夜の十一時過ぎ。
なんだ、それ。僕はそんなこと知らない。
昨日は十七時半に彼女と別れた。彼女はあの後に〈境界〉に行ったというのか。場所に目星をつけていてすぐに向かったとして、五時間は〈境界〉でカケラを探し回っていた可能性がある。箒も、持っていなかったのに。
持ち上げたグラスの水は減ることなく、テーブルの上に戻される。喉の渇きを感じる。
僕は気付かないような〈境界〉でも、彼女なら。
「……僕、知らなかったです」
そんなこと、ミライさんは何も言ってくれなかった。
僕の様子を見て眉をひそめたジャスパーさんは聞く。
「ミライと、何かあったかい?」
「……僕、ミライさんに〈境界〉に連れて行かないって言われたんです。きっと、怒らせたんです。だから僕も何も言えなくて。でも、黙って行くなんて」
「うーん……」
ジャスパーさんは顎に手を当てる。
少し待っていなさい、とテーブルから離れていった。彼は出入り口の扉にかかっている小さい看板をひっくり返す。こちら側からは『closed』と見えていた看板が、『open』になる。外からは『closed』になっているはずだ。店内にある時計を見るとまだ十六時半で、閉店まではまだまだ時間があった。
「少し早いけどね」と、彼は人差し指を口元に持っていきカーテンを閉めた。彼はそのままカウンターへと入っていき、カチャカチャと食器を出している。
「カフェオレでいいかい? ホット? アイス?」
「あ、いえ、お構いなく……!」
「いいんだ、お金も大丈夫。手伝ってもらってるんだからこれくらいさせてくれ」
これじゃあ、足りないくらいなんだからと、目を伏せた彼に、僕はこれ以上何も言えなくて。
「……あ、ありがとうございます。じゃあ、アイスで」
「ガムシロップは」
「お願いします」
苦いのは苦手だ。
彼は微笑んだ。コーヒーメーカーを動かし、カラン、カランと、グラスに氷を入れていく音が響く。
しばらくすると、僕のアイスカフェオレとマグカップに入ったホットコーヒーを持ってきた。木製のコースターを僕の前に置き、その上にグラスをことりと置いた。寸胴なグラスは下の方でワイングラスのように細くしぼんでおり、銀製のマドラーが入っている。ストローはもう入れられていた。
ジャスパーさんは僕の目の前に座る。前にミライさんが座っていた席だ。彼が持っている白いマグカップは店で出されるものではない。おそらくジャスパーさんが個人的に使っているものだろう。
「君を〈境界〉に連れて行かないことは、僕もミライから聞いた。でも、昨日ミライが〈境界〉に行くことを君に伝えなかったことは今初めて聞いた。報連相は大事だが、ミライはそれを欠いたんだ。何があったか、君の口から教えてもらってもいいかな」
「は、はい」
ミライさんが悪いことをしたよう口ぶりだ。学校の先生に問いただされているようなこの構図。彼女の言動を告げ口するようになってしまうのが、彼女に対する罪悪感を生んだ。
僕は先週のことを彼に説明する。〈境界〉で起こったことやその後の僕たちの会話、そしてきっと僕が彼女を怒らせてしまったのだろうということ、彼女と僕の目的が一致していないこと。ミライさんから聞いているであろうことも、僕の考えや想いを交えながら全て話していく。
ジャスパーさんは相槌を打ちながら、黙って僕の話を聞いてくれた。そのまなざしは攻めるようなものではなく、心配の色が伺えた。
全て話し終えたとき、彼は「そうか」と呟いた。
何を言われるのだろうか。
膝の上に置いた拳を緩めて、彼が用意してくれたカフェオレに手を伸ばす。氷から解けた水が表面に浮いていた。カラカラ、とマドラーでかき混ぜ、ストローに口をつける。優しい甘みがじんわりと広がっていく。
「さっきも言った通り、ミライが君に伝えずに行ったことももちろん良くない。それは後で注意をする」
今度は彼が、柔らかい口調で話し始めた。
「でも君たちの一番良くないことは、君が納得していないこと、だ」
「納得……?」
「ミライは君に明確な理由を述べず、君もまた、自分の考えを彼女に言わずに受け入れてしまった」
そうだ。僕は彼女の提案を否定しなかった。
色々思うことがあるはずなのに、何も言わなかった。僕は本当の理由をしっかり彼女から聞いたわけではなく、憶測だけで悩んでいる。
「君たち二人が納得してお互いの了承のうえで、〈境界〉にミライ一人で行くことにしたのなら、僕は何も言わないよ」
「ぼ、僕が〈境界〉に行かなくてもいいんですか? 〈境界〉に入れるから、協力しているのに」
「僕はそれでもいいと思っている。彼女からそれを聞いたときも何も言わなかったんだ。確かに君を〈境界〉に連れていくことは危険だ。僕から言い出したことだけど、無理はさせられない。強制はできない」
僕が〈境界〉に行かないことに対するジャスパーさんの話が呆気なく終わって、背もたれに身体を預ける。
(それで、いいんだ)
あの夜の世界に行かなくても、誰にも何も言われない。
(でも、それでいいのか?)
彼女から〈境界〉に連れて行かないと言われて僕が気にしたことは、ジャスパーさんからどう思われるかや何を言われるかといったことではない。自分の体裁を守りたかったわけではない。
ただ、僕が彼らに協力すると決めた。〈境界〉に入ると決めた。例え〈境界〉から帰って来れなかったとしても、それは僕が決めたことで、納得している。
「僕が言い出したことなのに、ごめんね」
目の前の大人からの謝罪に、僕は首を振る。
もう学校の先生のような姿はそこにはなかった。
「僕が君に協力をお願いした理由はね、本当は別にあるんだ」
「調査のためではないんですか?」
「……もちろんそれもあるが。……魔法を使えない君が、他の魔法使い以上の成果を上げるとは思っていなかった。もちろん、この事件解決の糸口になる情報を君が持ってきてくれたらラッキーだとは思った」
「じゃあ、なんで」
「ミライには、君のような子が必要だと思ったんだ。これも、僕の独りよがりな願いで申し訳ないんだけれど」
そうだ。学校の先生のようだと思ったが、そうではなかった。
これは、親の顔だ。
彼は、ミライさんと、僕のことを考えている。この過酷な使命を受け持った高校生を見守り、無事を願う、ただの保護者だ。心配する姿は魔法使いでも人間でも同じなのだと知った。
「悠紀くんから見て、あの子はどう映っている?」
「ミライさんは……」
賢くて優秀だ。学校でも、調査でも。物静かで口数が少なくていつでも冷静だ。たまに僕が恥ずかしくなってしまうくらい大人びている。転校してきた当初は怖そうだと思っていた。今はそんなことは思っていないが、何を考えているのかは読めない。表情があまり変わらないのだ。
しかし、
――橘くん!!
彼女はあのとき声を張り上げて僕を呼んでくれた。どんな顔をしていたのかは見ていなかったけど、背中で受けたその声から焦っているのが伝わってきた。冷静な彼女があれほど大きな声を出すとは思っていなかった。
彼女は冷たいように見えて、案外そうではないかもしれない。彼女と行動を共にしていてそう感じる場面はいくつかあった。須々木さんを助けた〈境界〉に入る直前、「助けないとね」と言った彼女の言葉はきっと本心だった。それに、僕が話しかけるとちゃんと返してくれる。分からないことや向こうの世界のことを聞くと教えてくれる。
ジャスパーさんは問いの答えを僕から聞くより前に、口を開く。
「ミライは頭がいい。僕なんかよりもね。でも君と同い年でまだ子どもだ。言葉は少ないし分かりにくいけど、優しい。きっと君のことを心配しているから、その提案をしたんだ」
「……でも、〈境界〉を消すことの方が、大事だって」
「ミライがそう言った?」
「はい……」
「ミライがこっちの世界に来て、一人で〈境界〉を二つ消した。そのうちの一つでね、人を助けられなかったときがあったんだ。カケラに呑み込まれていくところを、目の前で見たんだ」
「あ……」
まだ僕は見たことがない光景だ。そしてそれは、これからも見たくない。朝桐と須々木さんに訪れていたかもしれない未来。手を伸ばしても届かず、彼らの身体が暗闇に消えていく光景を想像した。
彼女はそれを、一人で目撃した。その事実は僕にとって衝撃的だった。完璧にこなして、失敗しない彼女のイメージが、崩れていく。
「その日、帰ってきたミライはかなり様子がおかしかった。ひどく動揺していて見ていられなかった。『助けたかったのに、私が力不足だったから間に合わなかった』と、とても辛そうに僕に報告した。彼女は本当は助けたかったんだ」
「……でも、向こうの世界は、」
僕のかすれた声に、彼は悲しそうに頷く。
「この事態を起こしている犯人を見つけること。人を助けるのは二の次だ、とも言われている。これはあの子が向こうから命じられていることで、本心ではない」
――そう思わないとやってられないから。
まだ調査を始めてすぐの頃、彼女はそう言った。〈境界〉に気付けなければ、そこには〈境界〉なんてなかったのと同義だと。彼女はそうやって諦めているのだ。本当は助けたいのにそれに全力を出せない。助けられなかったことに苦しんで、自身の心を保つために自分の使命を言い訳にした。そう思わないと、やってられないのだ。
「だからジャスパーさんは、僕が協力する理由に納得したんですか? 手伝う、なんて言葉に言い換えた、あんな理由に」
「君は、カケラに呑み込まれそうになった友人を救った。ミライができなかったことで、本当はしたかったことだ」
僕に〈境界〉のことを言わなかったのは、〈境界〉や助けられなかった人がいないことにしたかったんだ。僕が悲しまないように。迷い込んだ人を助けたいと思っている僕が、同じ気持ちにならないように。彼女の中だけで完結させて、封をした。
僕は彼女に守られていた。心が壊れないように、〈境界〉から遠ざけてくれた。
「君はどうしたいかな」
ジャスパーさんは組んでいた自身の手から目線を上げ、悲しそうに僕に問いかける。微笑みながら僕の言葉を待つ。
「僕は、」
そのとき、店の奥の扉の向こうからバタバタと物音が聞こえた。勢いよく扉が開かれる。慌てた様子で出てきたのはミライさんだった。
「叔父さん! なんで起こしてくれな、……っ!」
ミライさんは言葉の途中で僕がいることに気付き、そのまま固まってしまう。髪も少し乱れている。寝起きなのだろう。
「た、橘くん。ごめんなさい、寝るつもりはなかったの」
彼女は目をそらしながら、どこか気まずそうに謝る。
「大丈夫。気にしてないよ」
さっきのことを聞いた後で、彼女のことを責めることはできない。彼女にもそういう日があっていいのだ。ジャスパーさんから話を聞く前から僕は別に気にしていなかった。
「おはよう」
僕が笑いながらそう言うと、ジャスパーさんもふふっと控えめに笑った。彼女はもう一度謝るが笑われたことが不服みたいで、髪を手櫛で整えながら眉をひそめた。
彼女もこういうところがあるのか。なんでもできる人だと思っていたけど、疲れていたら寝てしまうこともあるし、そんな表情もできるのだ。
彼女は魔女だが、案外僕らと同じなのかもしれない。ジャスパーさんを見ていてもそう思う。彼らは、世界が違うけど僕たちと同じところがある。
それと同時にやはり心配になった。〈境界〉に行くことは彼女にとっても危険なことには変わりない。彼女一人で行かせるのは違う。危険も承知で飛び込んだんだ。見過ごしちゃいけないから。だから、
「ねえ、ミライさん。やっぱり僕も〈境界〉に一緒に行きたい」
協力するようになってから初めて彼女に本音が言えた気がする。自分のわがままを口にするのは久しぶりだった。
そんなことを言うとは思わなかったらしい彼女は、一瞬言い淀んでから、
「……危ないからだめ」
拒否した。それを見て僕も困ったように笑う。それでも僕は行きたいと思っているんだ。そして彼女からまず最初に出てきた理由が『危ないから』だったことが、先ほどジャスパーさんが話していたことの通りなのだと物語っている。
「でも、危険なのはミライさんも同じだから」
「私は魔法が使えるから」
「僕にとってはすごいことでも、向こうの世界では魔法は当たり前なんでしょ? だったら、同じだよ」
いつも自分が言っているセリフで返されると思っていなかったのか、ミライさんは黙ってしまう。
「魔法が使えても、世界が違くても、やっぱり同じだよ。僕もミライさんも危ないし、でも、助けに行きたい」
〈境界〉に足を踏み入れる恐怖や勇気。あの空間は、どこか寂しい気持ちにさせる。心が弱気になってしまう気がする。それでも踏み込んで、これ以上被害を増やしたくない、人が消えないようにと思う。この事件を解決したいという目標がある。
朝桐や須々木さんを思い出す。
助けたい。
魔法が使えない僕も、魔法が使える彼女も。両方その気持ちは持っている。それだけではいけないのか。無謀でも、その気持ちだけを胸に走りたい。臭い表現だけど、そんな生き方、今じゃないとできない気がして。
「それであなたもカケラに呑み込まれてしまったらどうするの!? これまで無事だったのは運が良かっただけ。それに、私がずっと魔法を使えるとも限らない……っ」
だから私は反対だったのに、と言う彼女は、どこまでも僕の身を案じてくれている。
すごく、優しい人じゃないか。笑みが零れた。
「はは」
「……なに笑っているの」
「いや、優しいなって思って」
「……意味が分からない」
彼女は呆れていた。
「危ないとか、危なくないとかじゃないんだ。僕はミライさんと同じくらいの使命感は持ってないかもしれないけど、持ちたいって思う。やらなきゃいけないって思ってる。自分の身の安全はできるだけ優先する。危ないことをしないっていう約束はできないし、人がいたら助けたいと思ってるけど……。もしそれで〈境界〉から帰ってこられなくなっても、それは自分で選んだことだから誰のせいでもない。それはミライさんと同じ条件でしょ?」
「……はあ」
ミライさんは大きいため息を吐いた。腕を組んで、左手を眉間に当てる。そして黙り込んでしまう。
しかし僕のやりたいことを頭ごなしに却下することはもうなかった。彼女のこの沈黙は、考えてくれているからだと分かった。どうしたら二人が納得がいくところに落ち着くのか懸命に頭をひねってくれている。そしてついに口を開いた。
「……分かった。確かにあなたがいなかったら、二人を助けられなかったかもしれない」
「ありがとう……!」
「ただ何度も言っているけど、危なくなったら自分の身を優先して」
彼女は人差し指をこちらに向けて言う。黙って僕たちの話を聞いていたジャスパーさんは、「ミライ、人を指でささない」と注意する。ごめんなさい、とミライさんはすぐに手を下げて謝った。
「今日はもう調査に出ないだろう? 悠紀くん、ゆっくりしていきなさい」
ジャスパーさんの言葉に時計を見るとかなり時間は進んでいた。しかし外はまだ明るい。今から出てもいいかもしれないが、今は彼女と話す方が大事だと思った。
僕たちに足りなかったものは、言葉だ。
それを欠いた結果、お互いの本心が分からずにすれ違ってしまった。
ミライさんは僕たちが座っているテーブルに一番近いカウンター席に座る。
「こっちに座らないのかい?」
ジャスパーさんが立ち上がり退きながら言う。
「いい」
短く返したミライさんの背中はいじけているように見えた。そう思ったのは、僕の中の彼女のイメージが変わったからかもしれない。
目の前のグラスにはカフェオレが半分くらい、まだ残っていた。
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