Ⅵ.星屑
7月20日(土)‐01
半袖のYシャツに腕を通し、朝焼けをイメージしている橙色のネクタイを締め、お守りをポケットに入れる。
玄関でローファーを履いていると、母さんがリビングからやってきた。
「どこに行くの? 土曜日に制服着て……」
「ちょっとね。帰り遅くなるよ」
「……ハルキ、最近おかしいわよ。危ないこと、やってないよね……?」
「大丈夫だよ。ただ、学校に行くだけ」
「図書館?」と、母さんは更に聞く。「だったらすぐ帰ってくるよね……?」と心配そうだ。
鞄も何も持っていない僕を不思議に思っている様子だ。
ゆっくりと首を振り、ドアノブに手をかける。外の光が入る。
僕は振り返り、微笑んだ。
「友達に会いに行くんだ」
*
ジャスパーさんとの約束まで、まだ時間がある。
ガードレールの向こう側を見つめる。背後にある太陽は山の陰に姿を隠そうとしている。橙色に溶けだした空。水色だった空が段々と青色、そして藍色に染まり、闇が濃くなる。
一番星を見つけた。しかしそれより先に街の灯りを見つけた。大通りでは車のライトが行き来している。商店街は賑わい、公園で遊んでいた子どもたちは帰っていく。駅前の繁華街は煌びやかだ。
下を向いていた目を上にあげる。
月が丸い。明日は満月だ。
*
「悠紀くん、待っていたよ」
ジャスパーさんはそう言って店内に僕を入れた後、店の奥へと姿を消した。
『いいものを持ってきてあげるから』
昨日、彼は優しい顔でそう言った。会話の流れから、彼はやはり僕を〈境界〉に行かせるのを止めたいのではないかと思っていたが、違うらしい。行くなら明日にしろとも言っていたし。
“いいもの”とは何なのだろうか。
“いいもの”。どこかで聞いたことのある表現だと思う。どこだっけ。
考えていると扉が開き、ジャスパーさんが帰ってきた。手には小さいトランクがある。茶色の皮でできた、アンティークな金具のついたトランクだ。西洋風な、もっと言えば魔法の世界にありそうなデザインのそれを見て思い出す。
そうだ。犯人が雫さんに言った台詞。確か、『君にいいものをあげよう』だった。
ジャスパーさんは4人席の広いテーブルの上にトランクを置き、カチャリと金具を外す。
「修理に時間がかかっていたんだけど、これが必要だと思ってね。急いで終わらせてきたんだ」
彼の手によって開かれたトランクの中身を見る。
街灯の形をしたランプだ。
「これ……!」
見たことのあるランプに、思わず声を出す。僕が見たときには割れていたガラスは、今は綺麗にはめられており照明の光を反射している。しかしガラスで囲われたその中には電球やガス管は相変わらず入っていなかった。
ジャスパーさんは、トランクの中に横たえて入れられていたランプを手に取り、テーブルにことりと置いた。電球をはめるところも燃料を入れるところもないランプ。ミライさんはもともとこういうものだと言っていた。
「君たちが、取り戻してくれたものだよ。さて、悠紀くん。ミライの魔法石は持って来ているかな?」
僕はポケットからお守りを取り出す。袋から緑色の魔法石を取り出し、彼の手のひらに乗せた。
「何をするんですか?」
「見ててごらん」
彼はランプの上部を外し、中に魔法石を入れる。
魔法石はランプの底に辿り着くまでに落ちる速度が遅くなっていき、中でふわりと浮いてランプの真ん中で固定された。
光が灯り、揺れる。ぼんやりとした緑色の光が、石を中心に辺りを照らす。
温度はない。でも暖かい光だと思った。
「これは魔力を原料にするランプだ。この魔法石はカケラと同じ創り方。ミライの魔力に反応する。この灯りがミライのもとへと導いてくれる。……行ってくれるんだろう? ミライのところに」
「……はい!」
一緒に行こう。そう言って出る支度をし始めた。
*
「君は、〈境界〉に入れるんだね」
学校に向かう道中。彼は僕に聞いた。
何を聞かれているか、詳しく言われる前に分かったので僕から言う。
「高校生なんて、悩みばかりですよ」
「……僕も覚えがあるな。君と同じ年のときなら、〈境界〉に入れるかもしれないな」
ジャスパーさんに何があったかは分からないが、きっと彼にもそういうときがあった。今でこそ、僕たちの話を聞いて導いてくれるが。彼にもそれが必要な時期があった。彼にはどんな出会いがあって、今の彼になっているのかは僕は知らない。
僕たちは学校の校門前に着いた。
「ここだね」
「はい」
早暁高等学校と書かれた校門。ミライさんが消えた、僕たちの高校だ。
僕は門に手をかけ、乗り越えようとする。
「ねえ、悠紀くん」
すると、後ろにいるジャスパーさんが僕を呼んだ。
そのままの体勢で振り返る。
「人間と魔法使いは、何が違うんだろうね」
そんなの、彼が一番よく知っているはずだ。
「そんなの、」
「なんて」
ジャスパーさんは笑いを含んだ声色で僕の言葉を遮る。目を細めて、穏やかに、切なそうに笑った。
「そんなことは分かりきっているし、共存なんてできない。それでも、君たちを見ていると疑問に思わずにはいられないよ」
両方の世界のことをよく知っている彼に、そんなことを言われるなんて。
そんな世界になったらいいな、という微かな希望を抱いて。
「ジャスパーさんにそう言われると、嬉しいです」
僕は地面を蹴って、校門を上り、学校の敷地内に飛び降りた。
*
とん、と地面に足が着く。顔を上げるといつもと変わらない校舎があった。
振り返ると校門の向こうにいたはずのジャスパーさんがいなかった。元から夜だったため分かりにくいが、どうやらもう〈境界〉に入ったらしい。範囲が広くなっているのは満月が近いからか。
持っていたランプの蓋を外し、ミライさんの魔法石を入れる。先ほどよりも強い光を放った。やはりこの〈境界〉に彼女はいるのだ。
黒い靄以外に、何かの気配がある。もしかしたら霊なのかもしれない。学校なのだし、たくさんいそうだ。しかし、ランプの光があるからなのか何も近づいてこなかった。
どこを示しているのか分からないが、とりあえずランプが強くなるところに向かうことにした。校門から真っすぐ校舎に進み、下駄箱を通る。僕のクラスが割り当てられている下駄箱まで来た。上履きに履き替えようかと思ったが、ここは〈境界〉だ。土足でいいだろう。
校舎に足を踏み入れ、階段を上る。一階から二階へ。そして二階から三階に差し掛かる階段で一旦足を止める。
ここは〈境界〉が発生しミライさんが連れ去られた場所だ。この階段を下り切ったときに、上の踊り場から声が聞こえた。〈境界〉に連れ込まれ、彼女は自身が持っていたカケラから靄が吹き出し、彼女を連れ去った。
僕は右手に持つランプの様子を窺った。輝いてはいるものの、この場には光の持ち主の彼女がいない。それに、犯人が目の前で力を使ったときの白いカケラは、今までに見たことがない程の主張をしていた。
〈境界〉に入る前に、一つ心配していたことがあった。
それは前に彼女が教えてくれたことだ。魔力は、保有している分には感知されない。魔法を使用した際に痕跡として残るだけだと、ミライさんは言っていた。この緑色の光が彼女のもとまで導いてくれるとは言っていたが、いくら魔法具の力があれど正確な彼女の位置まで分かるのか。
しかし、その考えは杞憂だったようで、三階に上がり切る頃には校門で〈境界〉に入ったときよりもかすかに光が強くなっていた。ミライさんが目印に魔力を残してくれていたのか、それとも犯人に抗った際に残ったものなのか。どちらにせよ、ランプの灯りに反応があるのはありがたい。
(この光は一体どこに反応しているんだろう)
この学校のどこに彼女がいるのか。階段にいないとなると――。
(彼女の、居場所……)
これまで発生した〈境界〉の場所。僕は夕暮れ時の住宅街の上。須々木さんは昼間の自分の店。雫さんは雨の公園。小柳さん夜の帰路。
きっとゆかりがある。自分の存在意義が分からなくなった僕たちが、あの時間、あの場所で〈境界〉に迷い込んだ。そこに意味はある。
学校でのミライさんの居場所。部活にも委員会にも所属していない彼女が一番過ごしていた場所は。
僕はもう一階分、階段を上がる。向かう場所は一つしかない。
四階に辿り着いた僕は廊下を進む。手前から教室を数えていく。進級してから三ヶ月以上、ほとんど毎日通った場所だ。一組、二組、そして三組。教室後方の扉を開けて中に入る。
そこには、なくなったはずの彼女の席があった。窓際の一番後ろの席。窓から見える外の風景が青空ではなく夜空なのが見慣れない。
ランプの灯りは強くなる。やはりここを差していたのだ。
そっと教室を歩いていく。黒板にはミライさんがいなくなった週の偉人の言葉が残っていた。
彼女がいない席の前で立ち止まり、ランプを持っていない左手で机に触れる。
「……え?」
すると、僕がいる場所が、変わった。
ここはおそらく教室だ。しかも日本の学校の校舎ではない。外国の建築だ。広い天井に教室前方に黒板。僕たちの教室では一人一人の机と椅子を割り当てられていたが、ここは長机に椅子が二つだ。
触れていた机から手を離す。ランプの光が増していた。合っているのか。
再び灯りを頼りに歩き出す。
建物の構造が分からない以上、ランプの反応だけで進むしかない。渡り廊下を歩き、僕が最初にいた大きな校舎の横に建っている別棟に入る。螺旋階段を上っていく。一番上の階に着き、大きな扉を前にする。ランプは一際輝き、眩しい。
ここにいるのか。
左手を扉に置き、押してみる。鍵は開いているようで、重厚な扉は開かれた。
まず目に入ったのは部屋の中央にそびえたつ巨大な望遠鏡。天井が高くドーム状になっており、開く仕組みになっているようだ。ドームはガラスでできており、頭上には満天の星空と大きな月が見える。
ここは天文台だ。部屋の中央にある高さ十メートル程もある望遠鏡は、星空を見上げて静かに佇む。
見覚えがあった。
(ミライさんの記憶で見た場所だ……)
円形になっている部屋の中央、巨大な望遠鏡の前に誰かが立っている。
背中の中ほどまで伸びた白い髪に、グレーのスカート。足元を見ると上履きだった。
ランプの光が、主人を見つけたと言っているように強く反応している。
「ミライさんっ!」
僕は彼女に駆け寄り、顔を覗き込む。
「――っ!」
ぞっとした。
表情が、ない。
彼女は基本的に無表情だ。見慣れている。だが今の彼女の顔はそんなものではなかった。
目が虚ろだ。いつもの凛とした瞳ではない。今まで〈境界〉で見た、誰よりも鈍い色をしている。
彼女のエメラルドグリーンが、枯れていた。
彼女はどこを見つめている? 何を思っている?
すぐそこにいるのに、それが分からなくて。
男の笑い声が聞こえた。
望遠鏡の向こう側に、その人はいた。望遠鏡の陰に隠れていて姿が良く見えない。彼はゆっくりと歩き出し、回り込む。
そして、見えた。
背の高い、黒髪の男だ。ジャスパーさんと同じくらいの身長か、それ以上かもしれない。長い襟足を後ろで結び、垂らしている。丸くて大きい片眼鏡が彼の左目を覆っていた。しかし露わになっている右目を見れば、〈境界〉のカケラの持ち主だとすぐに分かる。
青白い、美しい瞳だ。あのカケラの輝きを想起させるものだった。
「おはよう、悠紀」
知らない声で、その挨拶をした。
眼鏡の反射が消え、レンズの向こう側が見えた。
左目の下にほくろがあった。
(……は?)
――っな、なんで、あなたがそれを……。
ミライさんが消える直前、確かにそう言った。しかも校内だ。知らない人であればまずは何者なのかを問うはず。しかし彼女は『誰』ではなく『何故』をまず聞いた。彼女は、彼を知っていた。
あの感覚に陥ったのは須々木さんが初めてではなかった。一番最初は彼だった。あの〈境界〉で彼の手を引っ張ったとき。目の前で間違いなく夜が広がった。意識は飛んだはずだった。なのに、記憶と声が聞こえなかった。他の人は例外なく聞こえたはずなのに。
席が前後だったのに、一言も話しているところを見たことがなかった。僕がミライさんと話しているときに一度も話しかけてこなかった。菊永がいても、だ。いつも彼の世界史の赤点を避けている僕の一問一答ノートを、僕が持っていたにも関わらず。ずっと、彼女を避けていたんだ。
みんなの記憶からミライさんがいなくなったとき。転校生のことを聞いたら『後ろの席はもともとなかった』と答えた。席がない話から、もう別の話題に移っていたのに。その席に転校生が座っていたという話は、していないはずなのに。
〈境界〉と迷い込む人間は大きな関わりがあった。それなのに、彼だけは彼特有の〈境界〉ではなかった。僕が迷い込んだあの日にミライさんがカケラを壊し、〈境界〉を消した。間違いなく。しかしその後に彼は行方不明になった。翌日、消したはずの場所にまた同じ〈境界〉ができて、そこから彼は見つかった。
思い返すと、至るところにヒントが転がっていた。
愕然とする僕に、彼は言い放つ。
「分かったか?」
その言葉で確信してしまった。
これは彼のミスではない。彼は、目の前にいる彼は、分かってやっていたのだ。わざと僕の記憶に引っ掛かりを持たせた。
「……あ、」
「この状況はあのときと同じだ。ミライが気付いた、あの日に」
彼は語る。
姿も、声も違う。話し方だって。
――だからそう見えていたならこの舞台は成功だ!
友人は僕にこう言った。
「感情がコントロールできなくなり、魔法が暴発したあの日に」
――人間は俳優で、人生を歩むという行為は芝居であるってな!
友人は演技が上手かった。
「再現すればあのときと同じようになるかと思ったが……。よっぽど応えたのか抑制している。こんなにも強い感情を持っているのに」
事態を飲み込めない僕を置いて、彼は淡々と説明していく。
「だから悠紀、いいところに来た。彼女は怖いんだ。真っすぐ自分を見ているお前に、自分のことを知られるのが。代わりに俺が教えてあげよう。何を知ったのか、何があったのか。――彼女が何を秘密にしているのか」
そういうと彼は右手をこちらに向ける。夜のように冷たくて暗い魔法がこちらに向かう。ランプの灯りは僕を守ろうとより一層輝く。
しかし、僕とミライさんは彼の魔法に呑み込まれた。
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