7月20日(土)‐02
「お母さん、おめでとう!」
エメラルド・ステラのもとに手紙が届いたのは、ミライが八歳のときだった。
それは後継に選ばれたという知らせ。幼いミライでも何のことかはもちろん知っていた。
世界を守る〈要〉。それをを守る存在。
その十二人の一人に、母が選ばれた。引き受ければ母がもう戻ってこれないことを意味していた。
しかし、名誉なことだ。ミライは寂しい気持ちを抑えながらも称賛し、応援し、見送ったのだった。
「ミライ、よろしくね」
「……うん、よろしく、叔父さん」
魔法省で働いていた優秀で尊敬する母がいなくなり、母の弟であるジャスパーが代わりにミライの保護者を務めることになった。
魔法具や魔法付与を専門としている叔父は、本人の趣味もあって世界各国に赴くことが多い。そんな叔父には幼い頃に色々な場所連れて行ってもらった思い出がある。特に妖怪がいる和の国は興味深かった。
仕事柄、遠出が多いことは仕方ない。ミライは学校の寮で生活をすることになった。叔父とは定期的に連絡を取り合っているし、長期休みの際はなるべく帰ってきてくれるので彼の家に下宿している。叔父は忙しいから常に一緒にいれるわけではなかったが、気にかけてくれているのは分かっている。
それに、叔父は昔の母親の話をたくさんしてくれるのだ。
「姉さんは天文学が一番好きでね。よく天文台に入り浸って先生を困らせていたよ」
「成績はいつも一位で、後輩から羨望の眼差しを受けていたよ」
「昔から何も変わっていないよ。すごく優しかった」
自分の話をたくさん聞いてくれる。
「ミライは最近どうだい?」
それに対してこう返すのだ。
「……特に、何もないよ」
叔父にはたくさん感謝をしている。
ミライ・ステラには才能があった。
故に、ミライは学校で浮いていた。中等部、高等部に上がっても変わらなかった。
彼女のクールな性格に加えて、魔法という分かりやすいステータス、そして母親が有名だ。学生の中で近寄りがたい存在だった。
叔父から聞いた母のようにはきっと、なれていないだろう。
母のように成績トップを維持しても、魔法の技術を磨いても、きっとなれていない。
実際に母親の学校生活を見たことはないが、そう思った。
魔法省から声をかけられている。母親が働いていた場所だ。優秀な人を引き入れたいという思惑が見えた。それでもいい、と推薦状を出してもらうことになっていた。
同級生からは陰口を言われている。嫉妬によるものなのは明白だった。親の七光だと言われた。母親が優秀だから、優遇されているのだと。
でも気にならなかった。
(……くだらない)
母のようになりたい。
そんな明確な目標。それがあるから、気にしない。
確かに自分の魔力は母から受け継がれたものだ。でもどう使うかは自分で決めている。努力している。自分が何になりたいかは周りの声なんて関係ない。
これは紛れもなく自分の意思で決めたこと。だから、これでいい。
ミライのクラスで、魔法が使えなくなったという生徒が出た。座学、実技共にミライと一、二を争うほどの優秀な成績を収めている女子生徒だった。
魔力があっても、魔力を魔法に変換することが困難になる症状。ごくまれにだが、その事例がある。原因は分かってはいない。精神的なものだろうというのが一番考えられている説で、故に明確な治療法はない。
ミライはその生徒に対して何かを思ったことはない。話したことすらなかった。
しかし成績が並んでいたことや、周りがミライを意識していたこともあり、矛先が彼女に向いた。
「ミライ・ステラのせいだ」
誰かが言った。
「ミライ・ステラが、魔法を吸い取ったに違いない」
音の葉もない噂が立ち始めた。
「ミライ・ステラは、他人のことを考えないやつだから」
学生たちは彼女を恐れ、軽蔑し、糾弾した。
「ミライ・ステラに近づくと魔法を消されるぞ」
彼女の周りにはあらゆる感情が渦巻いていた。
(まただ)
自分の鞄を廃棄上から見つけた。手が汚くなるのをいとわずに拾い上げる。魔法を使うと、瞬時に綺麗になった。
人は、他人とは違うものを腫物のように扱ったり、怖がったりするものだ。何もしていなくても嫉妬されたり、悲しませたりする。自分にそんな意識はなくても、そうなってしまう。ただ自分の思うように過ごしているだけなのに。
目に見える嫌がらせをしてくる人が出た。
わざわざ鞄の形を残しているのは、きっと慌てて汚いところを探している姿を見たいからだろう。こうしている間にも、自分の姿をどこかで観察して楽しんでいる人たちがいるのだ。
だが、ミライとしてはありがたい。物が戻って来るのなら、叔父に言わなくても済むのだから。
助けは求めない。
考えない。
何もない。
少し、魔法が弱くなった気がした。
ミライの調子が悪いのは、一目瞭然だった。
「魔法が使えないなんて、人間と同じだな」
教師の目を盗んでは言葉のナイフを突きつける。全て無視した。
(私がスランプに陥る前は、反撃が怖くて大人しくしてたくせに)
愚かだと思う。
調子が悪いと分かるとこれだ。ここぞとばかりに嫌がらせや悪口がエスカレートする。弱いものを下に見て、高いところから突き落としてのし上がりたいだけの、実力主義の思想。魔法が全てだと思う人たち。
(でも、魔法以外何も持っていない私も同じなのか)
また少し、魔法が弱くなった。
「ミライ。一番星はどれだと思う?」
窓際に小さな望遠鏡を置き、身を乗り出して空を眺める。
母とのささやかな天体観測だ。
「えっと……」
母に言われて“一番星”を探す。一番最初に目についた、一際輝いている緑色の星に指をさした。
「あれ!」
ふふ、と笑う母に、「合ってる……?」と心配そうに尋ねる。すると母は笑って頷いたので、ミライもほっと笑顔を見せた。
母も自分と一緒に窓の外に目をやり、空を指でさす。
「お母さんが見つけた一番星は、あれ」
「一番星は、一つではないの? 一番なのに?」
素直な疑問を投げかける娘の頭を撫でる。
「一番星はね、夕方の空に最初に輝く星のことを言うから、これっていう星はないのよ。だからお母さんは、その人が一番最初に見つけた星を“一番星”って言っているの」
「そうなんだ……!」
「正解はないの。あなただけの一番星」
ミライは再び自分の一番星を見上げる。交差する緑の光が瞬く。
綺麗な色だと思った。どこかで見たことがある色だとも思った。
そうか、あの光は。
(お母さんの、魔法の光)
あんな光になりたい。
綺麗で、誰かに一番に見つけてもらえて、導けるような。
これは、まだ母がいたときの幸せな記憶だ。
目が覚めるとここは保健室だった。
白い壁に白いベッド。校内の喧騒は遠く、静かだ。薬品の匂いが鼻をかすめる。
上半身を起こし、ぼんやりと何があったかを思い出す。
そうだ、授業後に実技課題の補修があったんだ。
数か月前まではできていたこともできない。何度やっても上手く魔法をコントロールできなくて、及第点までいかない。否、コントロールするどころか、そもそも魔法が出せていない。
(……)
まさか。
拳に力が入り、掴んでいたベッドのシーツに皺を作る。
頭を振って、一瞬浮かんだ可能性を吹き飛ばす。
……寝不足だったんだ。座学だけでも成績を落とすわけにはいかないと、夜の勉強量を増やしていたんだっけ。
ベッドから足を下ろす。サイドテーブルに置かれた、畳まれたブレザーを手に取り袖を通す。
起きたミライに気付いた養護教諭に、保健室を出る前に言う。
「大丈夫なので叔父には何も言わないでください」
そう振舞ってしまえばいい。見えなくなってしまえばいい。
そうしないと心が壊れてしまいそうだから。
見つけなければ、一番星なんて存在しないと同義。
透明にしても、抱えているこの重みは変わらないというのに。
呼び出しがあった。
魔法省から人が来たのだ。
校内にある来客用の部屋に向かう。
何を言われるか、心当たりしかない。足が重い。
部屋に入るとソファには男が二人座っていた。
重たい空気の中、男が話し出す。
「ステラさん。最近成績が著しく落ちているのは知っている」
「……はい」
魔法実技で、今までのように魔法が使えなくなったこと。ときには不発で終わることもある。失敗する度に周りが反応する。最近は行方不明事件が巷を騒がせてピリピリしているから、ストレスの吐き出し場所になっているのかもしれない。同級生の笑いと落胆の声、教師の心配する眼差し。
何故? どうして?
今まで通りの力が出せずに、自分の左手の眺めるのだ。
自分は、一体どうしてしまったのか。
「このままだと推薦状を出すことができなくなる」
はっと、左手から目線を戻す。
「そんな……!」
「魔法省は魔法を取り扱う機関。ただの事務作業でも、魔法への理解や知識が必要です。……分かっていますね?」
もう一人の男がそう言う。
座学だけなく、実践もできる者でなければ。
「……はい」
分かっている。分かってはいるが。
母の背中が遠のいていく。これまでの努力が、全て水の泡になる。
「こちらとしても心配しているんだ。君の魔力の低下が激しい。魔力自体がなくなることはないが、魔法が使えなくなることはある。君も知っているね?」
魔法が使えなくなり療養している同級生のことを言っているのだろう。学生の間で広まっている噂も、この人たちは知っているのだろうか。
「……はい」
話が終わり、部屋を後にする。
このままではだめだ。どうにかして調子を取り戻さなければ。
考えながら早足で校内を歩く。とりあえず図書館に向かうことにした。この症状について調べて改善策を上げなければ。
必死だった。手当たり次第に本を棚から取り出して、机に積み上げる。積み上げられた本を少しずつ崩していく。幸いにも勉強は得意だ。文字を読んで理解しようとすることは苦ではない。それよりも、自分の現状に目を向けることの方が苦しい。原因が明確に分かっていないということは、回復も難しいということだから。
それでも今できることをしなければ。
しばらくすると、司書に声をかけられた。図書館が閉まる時間だ。窓の外はすっかり夜が更けている。
夜は魔法の調子が良かったはずなのに今ではどうだ。ペンを握る手に力が入る。
寮の部屋に戻っても勉強ができるように、読みかけの本と、あと数冊。借りてから図書館を出た。
外に出て本校舎の横を通り、学生寮を目指す。
そのとき、本校舎から二人の人物が出てきた。数時間前、ミライと話していた魔法省の人物だ。
さっきあんな話をした手前、彼らに会いたくない。
別の道から行こう。
遠回りするために来た道を引き返そうとする。
しかし自分の耳に彼らの会話が届いた。耳が良いのを、このときは呪った。
「自分の母校にある〈要〉になるなんて、すごい偶然だな」
「その話は外でしてはいけませんよ」
(〈要〉の話……?)
〈要〉の場所は一般に知らされていないはずだ。場所どころか、どんなものなのかさえも伏せられている。自分の母校とは、誰のことを言っているのか。
『お母さん、どこに行くの?』
母が後継に選ばれ遠い所へ行ってしまうと決まった後、こんなことを聞いた。
『お母さんの大好きな星の近くに行くのよ』
足が自然とある場所に向かった。
あそこには何度か行ったことがある。学校で一番高い場所。母が、学生時代の頃に入り浸っていた場所。
そこに母がいるなんて、あるのか。
螺旋階段を上り切り、扉を前にする。鍵がかかっているはずだ。
(……ここまで来るなんて、馬鹿だ。そんなことあるはずないのに)
自分の行動に呆れる。こんなことしている暇があるなら、借りた本を読んだ方がいい。
帰ろう、と背を向ける。
……ギィ。
軋む音。
振り返る。
扉が、かすかに開いている。
誘われるように引き返す。扉に手を置くと、開いた。
恐る恐る部屋に入り辺りを見渡す。授業や自習で来たときと変わらない。天井がガラス張りになっていて開く構造。星明かりが室内を照らす。壁際には大きな本棚がいくつかあり、天文に関する本や模型で敷き詰められている。その近くには机があり、デスク照明の下には整えられた書類と羽ペン、インクがある。天文学の教授がここで仕事をしていることが多いのだ。
〈要〉が何なのか、何も知らない。世界を守るため、世界を保つための〈要〉。それを守るのが後継の役目だ。そんな大事なものが、たくさんの人が集まる学校にあるなんて誰が思うのだろう。
大きな望遠鏡に目が止まった。それを見上げ、
「おかあさん……?」
何故、そう思ったのか。
でも、そう思った。
口にしてから、後からじわりじわりと理解が追いついていく。
察してしまった。
母は生きていない。
後継として選ばれ、〈要〉に全ての力を捧げたのだ。生きて守っているわけではない。
世界を保つための〈要〉。〈要〉のための、犠牲。
生きていると思っていた。
世界から嘘を吐かれていた。
母がいるから。母のようになりたくて。
『その人が一番最初に見つけた星を“一番星”って言っているの』
いないと、見つけられないじゃないか。
(そうだ、私は)
母を目指した理由に、ようやく気付いた。
母のような強くて優しい魔法使いになりたい。それも一つの理由だ。
しかし、母と同じような魔法使いになれれば、母に近づくことができれば、もう一度会えるのではないか。そう思って。
「……おかあさんに、あいたい」
もう一度会って、伝えたいのだ。
大好きだと。
でももう遅い。
激しい何かが胸の内にうずまく。
自然と呻き声が漏れた。
息がつまる。
呼吸がうまくできない。
手から力が抜ける。持っていた本がバサバサと床に散らばる。
(私は、何のために)
ふらつく。倒れないように、足を前に出した。
望遠鏡に近づき、そっと触れる。
(何のために頑張ってきた?)
霞む視界の中、足元に黒い靄が見えた。
膝をつき、身体を両腕で抑える。
この気持ちをどうしたらいいのだろう。
見て見ぬしてきた感情が。
顔を出す。
駄目だ。
引っ込め。
出てしまったら、潰れてしまう。
こんな、こんな。
(こんな思いするくらいなら、)
抑えられない。
魔法が漏れていく。母と同じ緑色の魔法が、自身の身体から。
この激情をどうすることもできない。
青白い光が顔を照らし出す。
何の光だろう。と、顔を上げる。
眼前に、石があった。星のように激しい光ではない。氷のような石が月のように柔らかい光を放ちながら、そこに佇んでいる。黒い靄はそこから出ていた。
酷く安心する光。目が離せない。
そうしている間にも黒い靄は自分を中心に渦巻き、身体を包んでいく。よく見ると石と同じ色をした細かな粒子が黒い靄に混ざってキラキラとしている。自分の身体から溢れ出る緑色の魔法と混ざり合う。
(私は、何故、ここにいるの?)
掴み取れる位置にそれはある。手を伸ばす。惹かれるように、無意識に。
それを掴んだら、答えを教えてくれるような気がして。
――正解はないの。あなただけの一番星。
寸前のところで、止まる。
何故、止めた?
そんなの自分でも分からない。母の声が聞こえた気がして。
増えていく靄。抑えられない自分の魔法。部屋に充満し、辺りが見えない。まるで宇宙に投げ出されてしまったような視界の中。思考が侵食される。
嫌でも母を思い出す。その度、もういないことに絶望する。魔法が流れていく。それを繰り返す。
私だけの一番星は、もう死んでしまったのだ。
こんな思いするくらいなら、
(――なんていらない……!)
その言葉が、すとんと胸に落ちてくる。音がなくなる。
それなのに、魔法は止まらない。
呻き声をあげながら自分の肩を強く抱いた。
目を覚ました。
美しい星空が見えた。展望台の天井だ。ガラス越しに、無数の星が望遠鏡を照らす。
これが、母の守りたい世界か。
ゆっくりと顔を横に向ける。
部屋が荒れていることに気付く。本や紙が床に散らばり、模型は壊れて散乱している。
これは自分がやったのか。それよりも。
(石……)
青白く光る石が側に転がっている。
(夢じゃない)
それだけ見て、また意識を失った。
「ミライ・ステラです」
こっちの世界に来てからの話だ。
あの後、ミライは病院のベッドで目を覚ました。ジャスパーと魔法省の人が部屋に入ってきて――別の世界に行くことを命じられた。ある事件の調査をしてほしいと。成果を上げることができれば帰って来ることができるし、魔法省も私を受け入れるか検討すると、条件を付けられた。
ミライは悟った。魔法省はもう自分を入れないと決定したのだと。だからこういう言い方をした。
彼らは、気付いているのだ。自分が真実を知ってしまったことを。
これは知ってしまった自分の処分だ。しかしほっとしている自分もいた。あのままだったら本当に魔法が使えなくなっていたかもしれない。
成果を上げても帰れない可能性が高いことは分かっている。それでも調査を承諾したのは、この使命が義務だったとしても世界が危険であることは変わりなく、人が消えていく現実は存在していたから。母が世界を守っているのに、世界が壊れていくことを見過ごせるわけがなかった。母のようになりたいという目標は、そうすることで達成できるかもしれないと思った。
(……もう、会えないけれど)
目的をすり替えてでも指標を立てなければ、自分を保てない。
教室の一番後ろの席に座った。ここには魔法が使えない人間しかいない。そんな人を馬鹿にする人は向こうの世界にはたくさんいた。自分も魔法が消えかかった時期があったのだ。もし魔法が使えなくなっても、ここにいる人は皆使えない。
そう考えると、少し気が楽になった。もう失うものがないからか、向こうの世界にいたときよりも焦る気持ちがない。
青白い石――カケラの入ったネックレスに触れる。向こうの世界が、こっちに行く自分に唯一渡したもの。
向こうが言うには、ミライは天文台で〈境界〉に入ったのだと言う。現にカケラが見つかった。〈境界〉に入れる人材だったということがこの調査の任命を決定づけたのだろう。
しかし〈境界〉からカケラを持ち帰ることは異例だったらしい。あのときに自分が何をしたのかは覚えていないが、カケラを精密に調べることができるようになった。
渡されたカケラは、あのカケラの一部だ。自分が入り込んだ〈境界〉で見つけたカケラ。
渡されたこれは〈境界〉を見つけるための便利アイテムではない。ミライはネックレスを首につけ、歩く。これは餌だ。それほどまでに、向こうは自分を消したいらしい。
そして、この世界で初めて〈境界〉に入った。
失敗した。
目の前で、人がカケラに呑み込まれた。
ミライの前には、カケラだけ残った。
しかし靄は止まらない。次の人間を呑み込むためにミライに襲いかかる。
(犠牲者を出さないためにも、カケラを壊さないと……!)
そうしなければ〈境界〉は消えない。自分も元の世界に帰ることができないのだ。
靄を躱しながら、素早くカケラに近づく。魔法を放ち濃い靄の中心からカケラを弾き飛ばした。
道にカケラが転がる。相変わらず靄を放出しているが、周りの靄はだいたい消えた。
一旦無力化したそれを拾い上げる。
これに、自分の魔力を流し込めば。
「……っ」
できない。
前に入った〈境界〉では迷いなくできたはずなのに。
手が震える。
前回と今回の違い。
それは。
(この中に、人が……っ)
カケラに呑み込まれた人は、もう助けることができない。それは分かっている。分かっているが。
自分のときは、どうした? どうやってカケラを元の世界に持ち帰った?
希望を捨てられないが、分からない。
迷っている間に、〈境界〉内の靄が集まり出し、カケラからも靄が出る。時間がない。
「……、……ごめん、なさい……っ」
震える手を右手で抑え、目を瞑り、力を込める。
パリィン、と高い音が鳴る。
(私は人を――)
頭上に青空が広がった。
協力者ができた。橘悠紀という人間だ。
ただの人間がこの件に関わるのは反対だ。しかし、叔父が了承した。
「えっと、ミライさん。よろしく?」
「……橘くん、だっけ。よろしく」
彼を、遠ざけなければ。手遅れになる前に。
もう目の前で人が消えるところは見たくないのだ。そのカケラを、この手で壊したくはないのに。
「みうがあんなこと言ったから、お父さんいなくなっちゃったんだ……!」
私があんなことを言ったから、母は行ってしまったのだろうか。「おめでとう」なんて応援したから。
「行かないで」と言えていたら、母は今でも生きていたのだろうか。
「美雲ちゃん。君のせいじゃないから大丈夫だよ。お父さん、きっと帰ってくるから。また美味しいお弁当作ってもらおうね」
幼い彼女を慰める悠紀を、一歩後ろで眺める。
父親が戻ってこなければ、この子は言いたいことを言えないままだ。
謝罪も、想いも。
彼が自分より前に出て、カケラに突っ込んだ。彼は友人を助けるときもこうだった。自分も呑まれてしまったらどうするのだ。
しかし彼が店主を引き留めたお陰で時間稼ぎはできている。彼がいなければ、この弁当屋の店主はとっくに呑まれてしまっただろうから。
「橘くん!? 何をしているの!?」
彼にまとわりつく靄を魔法ではらう。様子がおかしい。店主の手を掴んでから、動きが止まったのだ。目は開いている。しかし、彼の意識はここにはないように見えて。
(一体、何を見ているの……?)
だがそんなことを考えている余裕はない。もう一度彼の名前を呼んだ。
「人を助けるのは目的じゃないってこと?」
〈境界〉から出た後、彼が言う。
違う。
私だってそうしたい。
でも、現実は甘くない。
(助けたいなら、……)
彼に問われて、拳に力が入る。
本当に助けたいなら、手を伸ばせば良かったのだ。友人と店主を掴んだ、彼のように。掴んでしまえば、呑み込まれる前にカケラを壊すことができるかもしれないのに。
そんなに簡単なことだったのに。何故、気付かなかったのだろうか。
「ミライさんも綺麗な魔法だと思うよ」
彼の書く字が綺麗で、それを言ったらこう返された。
「そう、かな」と曖昧に返すが「うん」とはっきりと返されてしまう。
「……そんなにいいものでもない」
私の魔法が綺麗なはずがない。
自分の魔法がどれだけの人を不幸にしたのか、彼は知らないからそう言えるのだ。
「そうなの? あんなに綺麗なのに」
見た目の美しさなんて、なんの意味もなさない。
彼は魔法を使えない。自分以外の魔法を見たことがないから、そう思っているだけだ。
言ってしまえばいいのに。人の魔法を消したのだと。自分の魔法も消えそうだったのだと。人を救えなかったのだと。人が呑み込まれた後のカケラを破壊したのだと。
いっそ魔法がなくなってしまった方が良かったのかもしれない。これがあるからいけないのだ。魔法を使えなくても前に出て、人に手を伸ばせる彼の方が眩しくて仕方がない。
「……」
言いだそうとして、止めた。
胸の中にもやもやとした感情があるのだ。
言ってどうなる? 彼はどう思う? 私を、どう思う?
そんなことばかり考えて、やはり彼に真実を告げることはできなかった。
後から合流するという悠紀を、ミライと雫はベンチに座り雨を眺めながら待つ。
最初こそ会話はなかったが、雫の「お二人ってなんで一緒にいるんですか?」という質問からぽつりぽつりと話し出していた。
「お二人は同級生なんですよね? もともと友達だったんですよね?」
「いいえ、他人だった」
「そうなんですか?」
「そう。話したことなかった」
意外、とでも言いたそうな雫に、「それに」と続ける。
「……彼には友達って言われたんだけど、よく分からないの」
雫は驚いた声をあげている。
友達がいたことがないから、よく分からないのだ。何をもってして友達と呼べるのか、友達とどう過ごすものなのか。
彼女が何にそんなに驚いているのかは分からなかったが、そう伝えると納得した。
ふと、こんな自分と友達になりたいと言ってきた同じクラスの女子の顔を思い浮かべ、「……クラスの女子にも友達になろうって言われたんだけど」と口に出す。雫は相槌を打ちながら耳を傾けている。
「下の名前で呼んでほしいって言われて」
「はい」
「……」
「……」
「……どうしたらいいか分からないの……」
「よ、呼んであげたらいいんじゃないですか……?」
簡単に言うが、自分にとっては簡単ではない。人との距離感が分からない。特に阿水は人懐っこく、自分がどんなにそっけない態度をとってしまってもニコニコとくっついてくるのだ。
ふふ、と雫の笑い声が聞こえ、隣を見る。何故笑うのかと問うと、「なんだか普通の人みたいな悩みで」と返される。
「人間関係に悩んでる、普通の高校生なんですね」
これが果たして普通なのかも分からない。それに、自分は魔女だ。人間の彼女に普通と言われても実感がない。
雫は、「あ、じゃあ」と思いついたように話し出す。
「私のこと下の名前で呼んでみません? 年下相手ですし、練習で」
その提案に「うーん……」と曖昧な返答をする。下の名前で呼ぶこと自体が慣れていないのだからできる気がしない。だからこその練習なのだが。
「私も名前で呼びます。ミライさん!」
「……分かったから。……あ、橘くん来たみたい」
公園の入り口に彼の姿が見え、二人の会話は終了した。
「梅咲さん!」
咄嗟に出た彼女を呼ぶ名前は、やはり苗字だった。やはり今の自分には下の名前で呼ぶことはは難しかったようだ。
しかしこんな自分のためにその提案をしてくれた。それだけで十分嬉しいのだ。
彼女と、彼女の胸に輝くカケラに手を伸ばす。
やればできるじゃないか。魔法と同時に手を伸ばしてしまえばいい。この手で、彼女が吞み込まれる前にカケラを――。
ぶわりと目の前に夜が広がり、意識がとんだ。
将来なりたいもの。
〈境界〉の中で女性は自分たちに問う。
(将来、ね……)
自分には将来があるのだろうか。
魔法や座学の成績は常にトップだった。魔法省に行くことがほぼ決まっていた。
その両方がなくなり向こうに帰れない今、自分には将来なんてものがあるのか。最近は〈境界〉のことばかりで、そのことを考える余地がなかった。
しかし不思議なことに、こっちに来てから魔法が回復しているのだ。元の調子に戻ったわけではないものの少しずつだが力が戻っている。最近は人が呑み込まれる前にカケラを壊すことができているし、精神的にも悪くはない。
向こうに帰っても何もないなら、ずっとこっちでいいのではないか。
〈境界〉の件が解決したら向こうに帰れるとは言われている。でも、戻って何がある? 学校に通って、同級生に白い目で見られて、魔法省にも行けない。
それに向こうに戻ってまた魔法が使えなくなってしまったら?
(……怖い)
積み上げたものがなくなることが。自分が惨めになる。
ああ、いっそのことこっちの世界にずっといらたらいいのに。
そう思うと、友達に囲まれて平和な日々を送っている、隣を歩く彼が少し羨ましく感じてしまう。彼は私にはないものを持っている。周りをよく見て他人のことを考えることができる優しさは、私にはない。彼のような生き方ができていれば、何か変わったのだろうか。
結局、彼女の質問に何も答えられなかった。
悠紀が女性に首を絞められる。
「橘くん!!」
彼の名前を叫びながら魔法で女性を攻撃するが効いていない。実体がないようで、全てすり抜けていく。
彼が苦しそうにもがくのをただ見ていた。
(カケラをなんとかしないと……!)
彼女からカケラの気配はない。しかしこの〈境界〉のどこかにあるはずなのだ。
考えろ考えろ。彼女の記憶を見ていない自分が見つけ出さなければ。早くしないと彼が死んでしまう。
ミライは箒に乗って地面を蹴る。
(〈境界〉内の時間の区切り。あの人が最後に行く場所に、きっと何か……!)
身を低くしてスピードを上げていく。道を引き返し、途中の曲がり角を左に曲がる。ネックレスのカケラが強く反応した。
黒い靄の塊がある。ミライはスピードを殺さずに突っ込む勢いで向かう。左手を前に出し、魔法を放つ。光が靄を貫通し、散って消えた。靄ではない何かが、道に残された。ミライは止まる前の箒から飛び降り、勢いのまま走る。足がもつれたが立て直した。“それ”の前で止まる。
死体だ。
あの人は、死んでいたのか。だから魔法をすり抜けてしまったのか。
否、今はそんなことを考えている暇はない。急いでカケラを探して壊さなければ。ネックレスはここに反応しているし、ミライ自身カケラの魔力を強く感じている。
うつ伏せで倒れている女性の前に膝をついて探そうとするが。
「……い、生きてる?」
死んでいると思っていた彼女は、生きていた。血を流しているが、かすかに呼吸をしている。こんな状態で、行方不明から一か月が経っているというのに。不自然すぎる。
(ここで何があったの?)
彼女の肩に触れる。
「……まさか」
すぐに気付いた。
呼吸が速くなる。思考がぐるぐると、頭の中で混濁する。
カケラが、彼女の体内にある。
生きているのが不思議な彼女。カケラの力で、生かされている。
つまりどういうことか。
息が荒くなる。
時間はない。
左手で彼女の手を取る。
冷たい。しかし、かすかに脈がある。
生唾を飲み込む。
後は、魔力を流すだけ。
それだけで、彼を救える。
震える左手に、右手を添える。
止まれ。
止まれ止まれ。
今まで、やってきたじゃないか。それと同じだ。
「ごめんなさい……っ」
震える手を抑え、目を瞑り、力を込める。
パリィン。
今までとは違う、くぐもった音が横たわる彼女の体内から聞こえた。
そっと手を離す。
自分の左手を見つめる。
私は、人を殺した。
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