7月20日(土)‐03
僕は目を覚ました。
靄で周りが見えない。靄というより暗くて何も見えないという表現の方が正しい。光は僕の持つランプの灯りと、頭上に月のように佇むカケラの淡い明かりだけ。
「ミライさん……!」
うつむいたミライさんが数歩先にいることに気付いた。背中を向けていない。手を伸ばしても届かない距離。近づこうと足を前に出し、
「来ないで」
僕はびくりと肩を震わせ、足を止めた。話し出した彼女の声には拒絶の色が含まれていた。
「それを、こっちに持ってこないで」
“それ”とは、一つしかない。僕が持っている、彼女の魔法石が入ったランプのことだ。
「でも、これはミライさんの、」
「私の魔法は、いいものじゃないの」
彼女は自身の魔法を卑下する。僕が今まで頼っていた彼女の魔法を。
「私の魔法は、人を殺した」
「違う! 殺してなんか」
「殺したの!」
声を荒げて遮る。激しく首を振って、うつむいていた顔を上げた。「わたしは、わたしは、」と息を詰まらせながら言う彼女は、泣き出してしまいそうで。ゆっくりと左手を見つめる。その手は震えていた。
「もう、何も傷つけたくない……。私のせいで、みんな傷ついていくの……」
「傷ついてなんか……。ミライさんの魔法に、あんなに助けられたんだ」
「……あなたが、私の魔法を……私の魔法なら助けてくれるって言うから、忘れていた……」
何を忘れていたのか、彼女の記憶を見た僕は分かる。
自分の立場だ。
こっちの世界で生きることに心地良さを感じた彼女は、向こうの世界での自分の立場を忘れたんだ。ようやく見つけた、生きやすい環境。しかしここに身を置くことは、今後できない。〈境界〉の調査に失敗しカケラに呑み込まれるか、成功して向こうの世界に帰るか。彼女にはその二択しかない。良くて後者だ。
「私の魔法は、消えてしまいそうだった」
――私がずっと魔法を使えるとも限らない。
彼女とのすれ違いを解消したあの日に『街角』で言っていたことだ。言葉通りの意味だったんだ。魔法が使えなくなるという原因不明の症状に、彼女は実際にかかっていた。
「私の魔法は、私は、人を傷つけたの。人を救うなんてできない。向こうでも、こっちでも、それは変わらなかった。橘くんのことも傷つけた」
彼女に関わって〈境界〉に入るようになってから、怪我をした。人から殺意を向けられた。死に直面した。
それでも、僕は。
「僕は、ミライさんのせいで傷ついてなんかない」
「あなたがそう言っても、私はそう思えない……」
「むしろ、あなたが、」と続けた彼女は、その先を言わなかった。
「……なに?」
彼女はいつもそうだ。大事なことを言おうとして、言わずに隠す。
「……」
彼女は素直だ。嘘を吐けない。だから、言わないという選択を取る。
「言わないと、僕だって分からないよ……」
記憶を見て抱えてきたものを知っても、今の彼女の思考は分からない。
「……言いたくないの。いえ、橘くんに知ってほしくなかったの……」
僕の言葉に彼女はそう返す。彼女は僕を無視をすることはない。いつもそうだった。
彼女はじりじりと後ろに下がる。僕とランプから距離をとろうとする。そんな彼女を、僕は追いかけることができるはずがなかった。
――彼女は怖いんだ。
〈境界〉を作り出している彼は、そう言っていた。
(何が、怖いんだ……?)
彼女の記憶を見て、初めて知ったことがたくさんある。その中の何が、人に知られたくなかったことなのだろうか。
「何を、知られたくなかったの?」
魔法が使えなくなったこと? 母の死の真相? 魔法が暴走したこと? ネックレスのカケラは彼女が持ち帰ったものだったこと? 彼女に与えられた使命の背景? 人が呑み込まれるのを阻止できなかったときのこと? 小柳さんの体内にあるカケラを壊したこと? そうすることで彼女が息を引き取ってしまったこと?
ミライさんは、もう暗闇に溶け込みそうなところまで遠のいてしまっていた。こちらから目をそらさずに、ゆっくりと首を振りながら口を開く。
「……綺麗なものじゃないの。あなたが思っているようなものじゃ、ない」
彼女の返答に、僕からの質問が止まる。空気だけが口から出た。
彼女の反応。彼女はずっと、無意識に答えを言っていた。
――真っすぐ自分を見てくれているお前に、自分のことを知られるのが。
彼の声が、頭の中でこだまする。
知られたくなかったことはたくさんあった。今頭に浮かんだもの、全てが彼女の秘密で、僕が知らなかったこと。
“何を”、ではない。“誰に”、の方が重要だったことに気付く。
「……僕?」
彼女の息を飲む音が聞こえた。
(合っている……)
何故、僕に知られたくなかったのか。
彼女から、僕はどう見えていた? 僕は彼女に何を言った?
過去の自分の言動を思い出そうとする。
「……」
僕は、ミライさんとミライさんの魔法をどう思っていた?
(信頼していた)
どんなことがあっても必ず助けてくれる彼女を。彼女の優しさを。
(僕は知っていた)
彼女にはそれができることを。彼女の勇気と、魔法の強さを、知っていた。
(……綺麗だと思った)
彼女の放つ魔法が。僕には使えない力が。できないことを可能にする、希望に溢れた、彼女の魔法を。
ランプを持つ手に力がこもる。
(彼女の魔法が、羨ましかった)
憧憬。嫉妬。劣等感。無力さ。
知っていた。本当は、知っていたんだ。
この感情は、彼女に出会う前から僕の中にあったもの。
感情が沸き上がり、胸が掴まれたように苦しくなる。
きゅっと目を瞑る。
インクでできた彼らも、同じ教室で過ごす彼らも、僕には持っていないものを持っていた。そして彼らにこの感情を抱くんだ。でもこの苦しみから逃れたくて考えないようにして、見ないようにした。この気持ちに名前を付けないで、蓋をした。だって、考えてもどうしようもないものだから。
少し分かってしまうんだ。向こうの世界で彼女に向けられた感情たちを。彼女に向ける眼差しを。嫌がらせをすることは良くないが、彼らの抱えた気持ちを理解してしまう。
ふぅ、と息を吐き渦巻く心が鎮まるのを待つ。
(……大丈夫だ)
静かに目を開ける。
彼女と話をしている途中だ。思考を戻さなければ。頭の中で、過去の僕の言動を巡る。
蘇る。
――えっと、ありがとう。朝桐を助けてくれて。
――あ、危なかったんだね。本当にありがとう。
――ミライさん、ありがとう。
――傘、ありがとう。差しててくれて。
僕は彼女に感謝していた。
――へえ、すごいね。
――水晶で占いとかは?
魔法に興味を示した。
――優しいなって思って。
――ミライさんは、逃げることある?
――ミライさんでも、そうなんだ。
――カケラ、壊してくれたんだよね……?
――ミライさんが助けてくれたから。
彼女が助けてくれると信じていた。
強いと、思っていた。
そして、彼女の記憶。
「あ……」
もしかして、と気付く。だとしたら、なんてことを。
彼女に問う。
「僕のせい……?」
僕の些細な言葉が。
自分の魔法は綺麗ではないと、彼女は言った。自分はそんな人ではないと。
――僕は彼女の魔法を綺麗だと言った。
「僕が、あんなことを言ったから」
否、それ一つではない。きっと、彼女に向けた全ての言葉が。
魔法なんてない方がいい。消えてしまった方が良かった。自分の魔法は良いものではない。そう言った彼女がどんな気持ちになっていたか。彼女の魔法に羨望の眼差しを向ける僕に、どんな気持ちになっていたか。
(僕の言葉が、彼女を苦しめていた)
僕は魔法を使えない。人を救う特別な力なんてない。しかし、
(僕が、彼女に呪いをかけていた)
僕の無責任な言葉が、彼女を蝕んだ。彼女の過去を知らずに彼女の苦しみを掘り起こした。
(僕は、なんてことを)
「ごめん」
なんと声をかければいいか分からない。
「ごめん、ミライさん」
「……謝らないで」
彼女がそう言ったことで、ああ、その通りだったのだと分かってしまった。
「……知らなかったんだ」
僕が呟く。
でも、知らなかったなんて言い訳にならない。彼女を傷つけてしまったことには変わりないのだ。
「……褒めてくれてるのに、無下になんてできない」
と、彼女は言う。
他人のことを考えられないやつだと、記憶の中の誰かが言っていた。そんなことない、と大きな声で言いたい。僕の気持ちを考えて、何も言わないような人なのに。
――あなたは人の機微に聡いから。私よりね。
そう言ってくれた彼女に、何故発揮できなかった?
もっと、魔法や向こうの世界以外の話を、彼女自身のことを聞いていたら。こうなる前に、彼女の心が救われる未来があったのだろうか。
また、たらればのことばかり考える。取らなかった選択のことを考えても意味がないというのに。そんな妄想ばかりして反省した気になって。この先をどうすればいいのかを、僕はいつも考えない。
(結局、想像するしかないんだ)
人の気持ちも、自分の行動のその先も。
「ごめんなさい」
謝ったのは彼女だった。
悪いことをした子供が親に謝る姿のようだった。おびえたように声を震わせている。何に対しての謝罪なのか分からなかったが、きっと全てのことに対して言っている。
彼女の記憶を見ても、彼女の全てを知ったわけではない。一部しか見れていない。彼女の今と、これからのことは知らない。
どんなに切望しても、彼女にはなれないし、彼女と同じ目で世界を見ることができない。彼女の選択肢は彼女次第だし、僕の選択肢は僕次第だ。それでも、彼女を目標にしたいと思っていた。それも確かに僕の選択だった。
だから、僕は彼女のことが知りたい。
僕は再び決心して彼女に向き直る。
「ねえ、ミライさん」
「もういいの、もう、私は……。もう、何も考えたくないの……」
彼女が諦めたら、今度こそカケラに呑み込まれるだろう。今こうやって話している間にも、僕たちを中心に靄が渦巻いている。
「ミライさん」
彼女は僕の呼びかけに応答してくれない。
僕たちはいつもそうだった。言葉が足りない。きっとこれから先もずっと、足りることはない。
でも、だから、人は話すのだ。思っていることを伝えようとする。聞こうとする。
彼女を知らなければいけない。彼女が僕に知られたくないと思っていても。
(彼女が僕に知られたくなかった理由……)
知られること自体に意味はない。知られることで、どのように変化するのか。どうなってしまうのが怖かったのか。理由があるはずだ。彼女は、僕が彼女に対する感情がどう変わると思っていたのか。
ミライさんをすごいと褒め、魔法の話に目を輝かせ、彼女に絶対的信用を置いてきた。
今度は、彼女のことを巡る。
彼女の言動を思い出せ。
彼女がこぼしたヒントを拾え。
何が辻褄が合うか考える。
想像する。
そして、
(彼女に、答え合わせをしてもらおう)
いつものように、彼女に僕の推測を聞いてもらおう。
それが間違っているのなら、彼女は『違う』と言ってくれるはずだ。訂正してくれるはずだ。だって彼女は素直だから。
こうやって同じものを見ようとしなければいけない。
「ミライさん!」
僕は再び呼びかける。
「僕に知られて幻滅されるのが嫌だったんだよね」
ぶわりと、靄が舞う。ミライさんが見えなくなっていく。靄は、彼女を隠そうとしているようだった。
彼女は僕に、後ろめたさを感じていたんだ。自分の魔法は僕が思っているようなものではない。真実を伝えたら僕を裏切ることになるのではないかと、そう思ったのだろう。
彼女は魔法があるから僕が頼ってくれている、と思っていた。その期待を裏切ったら、幻滅して離れてしまうのではないか、と。
「……僕も同じだ」
関係が変わることが。知られる前と後では決定的に何かが違うから。
独りになりたくない。だから、知られるのが怖い。
しかし、それでも変わらないものもある。
彼女に伝えるべき言葉を明確に決める。
「ミライさんの過去を知っても何も変わらないよ。僕がミライさんの魔法が好きなのは変わらない。君の魔法に僕は助けられた。人を救った事実がある。僕は綺麗だなと思った」
「綺麗じゃない!」
大きい声が響いた。
「見たんでしょう!? 私の記憶を! ここで、魔法が暴走した! 抑えられなくなった!」
それだけじゃない! と彼女は続ける。
「私が、人の魔法を消したの……! みんなが、私のせいだって……!」
「ミライさんのせいじゃない。君の魔法も消えてしまいそうだった」
「…………そう、消えそうだったの……。消えたら、助けられなくなる……」
信じてくれているのに。
僕の期待が、彼女を苦しめた。また消えてしまったらどうしよう。使えなくなったら幻滅される。そう思って、言えなかった。
魔法が使えなくなる自分は自分ではないように感じたことだろう。普段は理性的な彼女だからこそ、そうなったときの対処法が分からない。ジャスパーさんの魔法具が見つからなかったときも、焦って、どうしたらいいか分からなくなって、悩んでいた。
「ミライさんの魔法が消えても、僕がそう思ったことは変わらないよ。これからも」
「私の魔法は、人を殺した……」
「殺してないよ。カケラに呑み込まれたらもう助けることができない。呑み込まれた時点で、その人は亡くなったんだ」
「呑み込まれる前に、カケラを壊せていれば……」
「そもそも原因は〈境界〉を作り出している彼だ。君のせいじゃない。それに、呑み込まれる前に須々木さんを助けたのは君だ」
「生きていたあの人の身体に、魔法を流してカケラを……」
「あの人、小柳とばりさんって言うんだ。小柳さんは君に『ありがとう』って言っていた」
「私、叔父さんの仕事の邪魔になっているんじゃないかって、ずっと……」
「ジャスパーさんは、君のことをずっと待ってる。『街角』で。君がいなくなってから、ずっと探していた。雫さんも、公園で僕たちをずっと待っていた」
彼女は何も分かっていない。周りの人がどれだけ彼女に感謝しているのか。彼女を愛しているのか。
「ミライさんの魔法だから好きなんだ」
きっと、他の人が使っている魔法を見てもこの感情は湧かない。
「ミライさんが使っているから」
でも、魔法だけじゃない。
「ミライさんを尊敬してるんだ」
「やめて……!」
「僕は、ミライさんに憧れてて、羨ましくて、嫉妬している。魔法でも、魔法を持っているミライさんにでもなくて。例え魔法を持っていなくても、使えなくなっても、きっと同じように思う。幻滅なんてしない」
「魔法を使える私しか知らないから、そう言えるんでしょう……!」
「そうかもしれない。 でも、今ここにいる僕はそう思うんだ」
「何を根拠に、」
「だって!」
僕は右手を前に出した。
「君が今まで頑張ってきたのを知っているから……」
彼女が作り出した魔法石が暗闇に負けないように光り輝いていた。持ち主を目の前にして激しく燃料を燃やす。この眩しい光を彼女に返すためにここに来たのだ。
「魔法がすごいんじゃない。お母さんがすごいんじゃない。将来が決まってるからすごいんじゃない。ミライさんの苦悩が、努力した結果が、ここにあるから」
これはミライさんの努力の結晶だ。文字通り、彼女のこれまで培ってきた力があるからできた魔法石だ。
「なんであのとき、君が最初に入った〈境界〉でカケラに手を伸ばすのを止めたの?」
靄にかかって見えなくなったカケラを見上げる。淡い光が透けていてどこにあるかは把握できた。
彼女が全てに絶望したとき、手を伸ばした。でも寸前で止めた。
「……お母さんの、声を、思い出して……」
「お母さんの言葉が、君を止めたんでしょ?」
――だから、正解はないの。あなただけの一番星。
「正解は、ないんだよ。君がここにいる理由に。綺麗でも、綺麗じゃなくても、“君”がここにいる」
彼女は自己肯定感が低い。素敵なものを持っているのに、それを自覚していない。
「君が、この光を認めてあげないと」
ランプの灯りが揺らめく。
「……ミライさんが報われないじゃないか」
僕は絞り出すように、そう言った。
この世界には努力に見合わない結果が付きまとう。
須々木さんも、雫さんも、小柳さんも、みんな精一杯生きているのに〈境界〉に迷い込む。
「僕は世界が憎い。こういうことばかりだ。神なんていない。でも信じていないとやってられない。こういうものなんだ。それは変わらないんだ」
吐き捨てるように言う。
少しの沈黙。
静かだった彼女が、小さな声を出す。
「……私、報われていいと思う?」
今度は彼女からの問いだ。
「……僕はそう思うよ」
「……これから、どうしたらいいか分からないの」
「僕もずっと分からないんだ。でも、ミライさんなら大丈夫だと思うよ」
「私は、大丈夫だと思えない……」
「大丈夫だよ。ほら」
僕は今度こそ彼女に一歩、また一歩と近づく。彼女は逃げなかった。
ランプを彼女の目の前まで持って行く。緑色の灯りが、彼女の顔を照らした。
「ミライさんのカケラが保証してくれる。自信持ってよ」
そう言って笑いかけるとミライさんはおずおずと僕の手からランプを受け取った。
手にした瞬間、ミライさんのカケラは揺らめいた。自分の主人を目の前に喜んでいるように見えた。
それを見た彼女の瞳も揺れ、
「き、れい」
呟いた。
「うん、すごく綺麗な魔法だよ。だからミライさんに返すね」
「……ありがとう」
「こちらこそ、貸してくれてありがとう。ずっと守ってくれてありがとう」
ミライさんは大事に大事に、「……あぁ」と声を漏らしながらランプを両腕で抱えた。
部屋に充満していた靄が晴れていく。上を見上げるとガラス越しに星空が見えた。
すると、頭上から何かが落ちてきた。すぐ横に落ちたそれを僕が拾い上げる。
青白く光る、彼のカケラだ。
ランプを抱えたミライさんに向き直る。
「これ、壊せる?」
「……ん、待ってて」
彼女はランプの蓋を開け、小さな緑色の石を取り出す。魔法具から出されると光が大人しくなった。
しかし金平糖のように小さいその緑色の石の光は依然として眩しい。チカチカとできる光の筋は交差し、まるで星のようだった。
(ミライさんから生まれた、星)
黒板に書いてあった天文学者の言葉を思い出す。確かミライさんと〈境界〉で出逢った日だった。
彼女はその星屑を口に含み、ゆっくりと飲み込んだ。
「何をしたの?」
ミライさんに問う。
「魔力が少ないから、回復するために戻した」
確かに僕がここに来たときよりも顔色が幾分か良くなっている気がする。彼女が左手を差し出したので、僕はその手のひらに青白いカケラを置いた。
パキィン。
高い音と共にカケラは砕け散る。周囲に残っていた靄が一気に全てなくなった。
〈境界〉が消えたのだ。靄がなくなったことによって視界が開かれる。特にかわったところはない変わったところがない天文台だ。
ほっとしたのも束の間、ミライさんは膝から崩れ落ちた。
「ミ、ミライさん……!」
床に膝をつき、そのまま横にぱたりと倒れてしまう。
身体に異常があるのではないか。そう心配して駆け寄り、再び呼びかけると、「だいじょうぶ……」と微かな声が聞こえた。
「ほ、ほんとう? 本当に、大丈夫?」
僕は声をかける。目を瞑ってしまった彼女が、このまま起きなかったらどうしようかと不安になる。しかしその心配は杞憂だったようで、彼女は再び小さく口を動かした。
「……疲れた……」
眠たそうな彼女の声色に、ほっと息を吐く。
半月も〈境界〉にいて、精神を刷り切らせているはずだ。魔力を増やしたとしても肉体的にもかなりの疲労がたまっているだろう。回復には時間がかかりそうだ。
「……こうなったか」
背後から声がした。ハッと声がした方を振り返る。男はいつの間にか僕が入ってきた扉の前にいた。
彼はこの状況に驚きながらも楽しんでいるように微かに笑う。彼は扉に手をかけ、部屋を出ていった。
追いかけなきゃ。そう思ってミライさんの側から立ち上がり、
「だめ」
僕を引き留める声が聞こえた。
彼女に目を戻すと、地面に手を付きながら身体を起こしていた。
「一人で行かないで」
彼女は懸命に立ち上がろうとする。どうしても一人で行かせたくないようで、首を横に振る。しかし上手く力が入らず、上半身を起こすので精いっぱいな様子だ。
いつもと逆だな、と笑う。いつもはミライさんが行こうとして、僕が止めるのだ。
「立てる?」
僕は彼女に手を貸す。掴んだ彼女の手を引き上げるが、足に力が入らない。
「少し話してくるだけだからさ」
「……後から行く」
「うん、よろしく」
彼女にそう言い残し、部屋を後にした。
彼はどこに行ったのか分からず出てきてしまったが、上の方からバタンと音がした。この螺旋階段には先がある。少し上がったところにもう一つ、扉があった。
開けると強い風が入る。外だ。この棟の外側に、屋上があった。いや、屋上というよりバルコニーと言った方がいいかもしれない。円形の棟の形に沿って一周するような、広めのバルコニーだ。
扉のすぐ近くには天体観測するための椅子が数脚と望遠鏡が置かれていた。それ以外は人が落ちないように柵で囲われているくらいだった。彼はバルコニーを少し回り込んだ先の、柵の手前のところまで進んでいた。
涼しい風が吹く。僕の世界と季節が違うのかもしれない。
彼は僕が来たことに気付き、こちらを向かずに話し出した。
「今回の、あの〈要〉を壊すという計画は崩れた。ミライが力を戻したからな」
「……なんで、こんなことを」
彼はやっと振り向いた。
思い通りにはいかなかったはずなのに、口角を上げて余裕そうな顔をしている。
「教えてやろうか」
「……何を?」
「全てだ」
全てって、なんだ。何を聞かせようとしているのか。果たして僕が聞いていいものなのか。
(分からない……)
冷汗が背中を伝う。
「……どうして、話してくれるんだ? 僕は帰ったらミライさんやジャスパーさんに話すよ」
彼は声を出して笑った。
「なんで笑う?」
「お前は律儀だな。そんなこと、許可を取らなくても勝手に話せばいい。話したところで俺は捕まらない。それとも“相談”だと思っているのか? 俺が相談者で、お前が相談役。お前は性格上、相談の内容を絶対に他人に話さない。だろ?」
「……」
「これは相談ではない。お前が誰にこの話をしても問題ない。何故ならこれは全魔法使いが、否、全人類が知るべきことだからだ」
「……知るべきこと?」
彼が何故こんなことをしているのか。知る機会どころか、これを逃したらもう一生彼と話すことはできないだろうと、なんとなく分かった。僕は大人しく聞くことにした。
彼は頷く。こちらに背を向けて手すりに手をかける。彼らの住む世界の街の灯りが見える。一つに結ばれた彼の長い襟足と黒いローブが風に揺れた。
「お前はこの世界のことを何と聞いている?」
「僕の住む世界と、ミライさんの住む世界の二つがあるって」
「世界はもともと一つだけしか存在していない」
「……どういうこと?」
こちらに身体を向ける。先ほどまでの楽しげな表情を消し、青白い目を細めながら言う。
「お前の住む世界が本物なんだ。俺たちの住む、この世界は偽物。もともとは存在するはずのない世界だ」
「っ……じゃあ、なんで」
彼女たちはいるんだ。僕はここに立っているんだ。
その答えも、すぐに彼が教えてくれた。
「ある魔法使いが創ったんだ」
「言い伝えの?」
「そうだ。……悠紀、お前は世界史が得意だったな?」
「そ、そうだけど」
特にミライさんに出会ってからは彼女の勉強を見るためにも復習していた。それに、魔法使いや魔女について調べているとどうしても歴史に目を通さなくてはいけなくなる。僕がいる世界の歴史にも、魔女が登場するから。
調べたことを思い出し、ある単語を口にする。
「……魔女狩りか」
魔法使いがいたとされていた時代。人間の世界でそんな歴史がある。
中世ヨーロッパで流行った魔女狩り。原因はいくつかある。
一つはキリスト教の異端を排除する運動。神と敵対する悪魔と契約した魔女はその対象となった。一つは性差別。男性の魔女も存在していたが、圧倒的に女性が多い。男性よりも欲望に忠実であるという女性軽視と、外に出て仕事をしない女性が家に不幸をもたらしているという疑い。一つは流行り病や天候不順。病気や天候など、大きな力で操っているのではいう疑念。その他、村の中で起きたこと、個人に降り注いだ不幸。
あの人の幸運は、自分から吸い取ったに違いない。それらを誰かのせいにし、排除することで不幸を取り除くことができるという安心を欲する。
「魔女狩りが目立つ時代もあるが、魔法使いや魔術師はどの時代でも存在した。紀元前、それこそ最初からいた。人間と同じように。大きな力はときに崇拝され、ときに恐れられた」
「昔から消される対象だったってことか……」
「いつの時代も人間と魔法使いの間に争いは生まれた。遥か昔、人間から逃げるためにある魔法使いが生み出した世界。その世界に魔法使いたちは逃げてきた」
――彼は全てを創り出した者だった。
それは比喩でもなんでもない。そのままの意味だった。
「十二の〈要〉。これはミライが気付いた通り。選ばれた後継者は、生きて守ってなどいない。……魔力を全て〈要〉に補充して死ぬ運命」
――しかし魔力は有限だ。
――〈要〉を守るため、十二の魔法使いを選ぶようにと。
――〈要〉が機能を失う前に。
――世界が壊れる前に。
ミライさんが教えてくれた世界の言い伝え。全て言葉通りの意味で、その真相は思うよりも残酷なもの。
「もともとは同じ世界に生きていたのだ。人間も、魔法使いも。その二つの種族に違いなんて最初はなかった。魔法使いは、所詮人間だ」
「人間も魔法使いも、違いがない? 違いなんて、明白じゃないか」
魔法が使えるか、否か。この一か月半、彼女との違いを痛感してきた。
「では、魔法はどのようにして生まれた? 最初からあったのか? 違う」
ぎろり、と鋭い眼差しで僕を射貫く。
「魔法とは、魔法使いとは、人間の“感情”によって生まれた力だ」
風が吹く。一瞬の静寂。
彼が何を魔法に還元しているのか。それは僕が気付いたことだ。そのために〈境界〉で人を呼び込み吞み込んでいたのだと、推測していた。
しかし、まさか。魔法の根源自体が、“感情”だなんて。
「う、嘘だ」
思わず呟く。
そんな、誰でも持っているような。僕でも持っている、簡単な――。
呆然とする僕に、彼は淡々と続ける。
「もう一つ、お前が解き明かしていない謎が残っている。何故ミライが最初の〈境界〉から生還できたか、だ」
彼女はカケラを壊していないのに〈境界〉から出てくることができた。それもカケラと一緒に。イレギュラーな事例だった。
「感情に反応し、感情ごと人を呑み込む〈境界〉で、彼女は何を思った? 記憶を見たお前なら分かるはずだ」
彼の言葉で、彼女の記憶を思い起こす。
何を感じた? 何を思った?
真実を知った彼女は自分の魔法を、感情を抑えられなくなった。そして。
――こんな思いするくらいなら、感情なんていらない……!
拒絶した。
「それは自分自身の魔法をも拒絶したのと同義。それに感情があるから〈境界〉に入れるんだ。呑み込む対象が感情を否定してしまったら、カケラも意味をなさない」
「……魔法が使えなくなる症状は……」
「原因はいくつかある。感情のふり幅、乱れ、抑制。それと共に魔法のコントロールも難しくなる」
原因不明で、治し方も分からない。ミライさんでさえ必死に調べていたことを、彼はいとも簡単に述べた。
「……なんで知ってる?」
と思わず問う。
「この世界は、魔法や歴史についての正しい情報を明かさない。情報を統制している。言い伝えや〈要〉のこともだ。おかしいと思わないか? 偽であることがバレないようにと、知識を与えないように操作しているんだ。世界が一つであったこと、自分たちの起源はただの人間だったことが、バレないように」
「だから、〈境界〉に人を呼び込んでいた? 自分の目的を果たすために。魔力を蓄えるために……!」
「どんなに美しいと思っていても、この世界は偽物なんだ。人間のせいで逃げざるを得なくなった向こうの世界にも、嘘を吐き続けているこの世界にも、吐き気がする」
「だからって人を殺してもいいことにはならないだろ……! こんなの……!」
怒りがこみあげてくる。
ミライさんも、須々木さんも、雫さんも、小柳さんも。当人だけではない。
置いていかれた家族や友人たちの気持ちは。
どうでもいいと言うのか。
「『こんなの、理不尽だ』。そうだ、この世界は理不尽なんだよ、悠紀」
握り拳に力を入れる。
天文台に置いてきたミライさん。ミライさんと、彼女の母親との記憶は。
彼女たちが生きてきた世界が偽物? 例えそうだとしても、彼女たちがこの世界で生きてきた思い出は否定されてはいけない。彼一人の感情によって偽物になってはいけない。
「感じた想いは偽物じゃない! この世界で生きている人は、本物だ。存在している。似せた世界かもしれないけど、偽物じゃない……! お前に壊されてはいけない……!」
「お前は本当の世界の人間だからそう言えるんだ!!」
彼が、初めて声を荒げた。
「この世界のために!! 何故私たちが、大切な人が、犠牲にならなければならないんだ!!」
はっと息を飲む。
彼の一人称が“私”になったことに気付いた。
「あいつが……あいつがいない世界で、私が生きている意味があるのか?」
「大切な人って……」
感情を露わにする彼の瞳は僕を見ていない。彼の言うあいつが僕の知らない人だと察した。
この世界の仕組みによって殺されたミライさんの母親のように、彼にもそんな人がいたのだろうか。いなくなってほしくなかった誰かが、この世界のために死んだのか。
初めて、彼の本心が聞こえた気がした。
ああ、僕は彼のことを何も知らなかったのか。
「君にも、いたの? そんな人が……」
僕は彼の言葉が気になったが彼は僕の問いを無視する。右手で顔を半分覆いながら、怒りを含んだ声で言う。その右手の薬指には真珠の指輪がはめられていることに気付いた。
「俺はずっとお前が嫌いだった」
ずきりと胸が痛くなる。
「……僕は、君と友達になれて嬉しかった」
「お前はそうでも、俺はそうじゃない」
ずっと、嫌いだった。
彼はもう一度、突き付けるようにはっきりと言う。
親しいと思っていた人からのその言葉は、なかなか来るものがある。
そうか、もう駄目なのか。否、最初から駄目だったのか。そう考えると、彼を説得しようとすることは無駄のように思えた。
「……僕と仲良くなったのは、わざと?」
彼と急激に親しくなった時期を思い出す。タイミングはいつだったか。
「出会ったのは偶然だ。しかし仲を深めたのは、」
彼は顔を覆っていた右手を前に突き出し、ゆっくりと人差し指をこちらに向ける。
心が読まれたかのような感覚に陥り、目を見開いて固まる。
「お前の“それ”に気付いたからだ」
息を飲む。そんな僕を気にせずに彼は言う。
「お前が他人の物語を見たように、知らないうちにお前の物語を誰かが見ているかもしれないだろう?」
彼は僕のことを知っていたのだ。だから、僕に近づいた。いつか僕の感情を自分の糧にするために。
僕はうつむき、冷や汗をかきながら問いを続ける。
「……ねえ、いつから、君だった?」
「最初からだ。お前に出会った時から」
「君を〈境界〉で見つけ出した日じゃなくて? 本物と君が入れ替わってたのではなく?」
更に聞く。
彼がにたりと笑う。瞳が青く光る。
「最初から、俺だ」
黒い靄が視界に映り込む。
それを聞いて僕は、
「なら、良かった」
と笑った。
すっと彼の表情が消える。
「君とあいつが実は違う人で、本物を殺して入れ替わったんだったら僕は君を、」
「何だ? 赦せないか?」
彼は面白く無さそうに言う。
「いや、どっちにしてもこんなことをしている君は赦せないかな。……そうだなぁ。もし最初から君じゃなくて、成り代わっていたんだったら、僕も君が嫌いになった」
「……本当はお前も呑み込む予定だったが、今のお前は無理みたいだ」
言われて初めてこのバルコニーに靄が蔓延っていることに気付く。僕を〈境界〉に連れ込もうとしていたようだ。
「お前は諦めている節があった。自分だけではなく他人にも世界にも期待していない」
「……自分には期待してないけど、他のものには何かを期待するよ。勝手にしちゃうんだ」
期待をしたからミライさんを追い詰めたのだ。期待しないと決めていても期待はしてしまうし、勝手に想像し、推測し、感じてしまう。この事件に関わった短い期間でよく分かった。
「だからそうじゃないんだ。僕は君と友達になれて良かった」
「俺が近づいた理由がお前の“それ”だとしても? お前が〈境界〉に入れるのも“それ”のせいかもしれないのにか?」
「それでも、君と日々を過ごせて良かったと思っているんだ」
「綺麗ごとなんか聞きたくない」
「違う」
「何が違う? 今の自分に繋がっているから経験して良かった? あのときの自分がいるから今の自分がある? そう言いたいんだろう?」
「違う。違うんだ」
僕は首を振る。
「それを言えるのは成功した人だけだ」
「そうだ……、報われた奴だけがそう言える」
「そうやって正当化して自己解決することもできるよ。でも僕は苦しかったこと、傷ついたことを美化したくない。だって、未来の僕が過去を肯定しても、今の僕は苦しんでいる。本当は美しくもないものを、美しいものだと塗り替えたら今の僕が可哀そうだ。この苦しみは必要なものだと言われても、納得できない。できることならこんな思いしたくないのに。それこそ、感情なんていらないと思ってしまうくらい辛いこともある」
「……」
「それを経験して何を得たかとか、どう転機したとか、そんなことは僕にとってどうでもいい。そう捉えると、何にもならなかった出来事は全部無駄に思えてしまうから」
彼は黙って僕の話を聞く。だがきっと、僕の言葉は響いていない。僕たちはお互いを受け入れ合うことができないから。
「自分の存在意義とか、そんな難しいことは未だによく分からない。多分これからも一生分からない。でも答えもない気がする。楽しいことも、苦しいこともあった。それを経験した僕が今ここに存在してる。それ以上でもそれ以下でもない。それだけ」
「……」
「ただ、それだけなんだよ」
「……お前、本当に馬鹿だな」
「僕は君のやっていることを一生赦せない。でも当時の僕は君にたくさん助けられたから。菊永や、阿水さん、ミライさん、ジャスパーさん、家族、そして朝桐。演じていた君だったかもしれないけど、それでも確かに君だった。みんなと過ごした僕が今ここに立ってる」
あの日々が大好きだった。
何もない僕にとって、彼の日常が。僕の周りにいてくれる人たちの日常が、僕の全てだった。
彼らを見ることが大好きだった。
僕にないものを持っている彼らを、何かを追いかけている彼らを。彼らを見ることで僕の虚無を埋めようとした。
眩しくて時折目を瞑ってしまうこともあるけれど、僕の日常に彼らがいて、楽しくて、大切になって。傷つくことがあっても、もらったものや感じたことは本物だ。
――おはよう! 悠紀
――おお、サンキュー! まじ助かる!
――それじゃあこの俺、朝桐陽が! 悩める悠紀クンの話を聞いてあげようじゃないか!
――悠紀、お前大丈夫か? なんか最近、元気ないけど。
――また相談のるぜ?
あのとき、彼の言葉に救われたのは僕だ。それは事実だ。
――橘って、去年も同じクラスだったよな?
中学二年生のとき、久しぶりに学校に登校した僕に声をかけてくれた彼を、今でも鮮明に覚えている。
――勉強は教えてやれないけど、ノートくらいなら見せてやれるよ!
――悠紀ー、一緒にペア組もうぜー!
――え、誕生日もう過ぎてんの? あ、ちょっと待てよ、確か鞄に……。
「……今呑み込まれなかったのは、僕の日常に君もいたから。君が僕にとって悪者だったとしても、それは変わらない。今までありがとう」
「馬鹿だな」
後ろの扉の向こうから階段を駆け上がる音が聞こえてきた。おそらくミライさんだろう。
男は僕に背を向けた。もう行くのだ。
「ねえ、朝桐」
その名前で呼ぶと、彼は止まった。
「最後に名前、聞いてもいい?」
「…………――」
彼は消えた。
残された彼の名前を、口にする。その声は彼には届いていないだろう。
「……さよなら、ムーン」
月。
夜の象徴。
彼とは正反対の名前。だが、しっくり来た。綺麗な名前だ。
ミライさんが屋上の扉を開けた。
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