7月25日(木)
目を覚まし、上半身を起こした。
変化はすぐに訪れた。
最後の〈境界〉から二日後の月曜日。学校に行くと、彼は転校していた。「急だよな〜」と菊永は寂しそうに笑っていた。
そんな気はしていた。もう会えないのだと、思っていたから。
そして僕だけが気付いた。
彼は魔法をかけていったのだ。
記憶の中の彼の姿がぼやけていた。日に日に思い出せなくなっていく、彼の顔。
(忘れたくないのに……っ)
忘れたくない。彼との思い出を、取り零したくない。
そう思うのに、ピントが合わない。
彼はどんな髪色をしていたっけ?
確か染めていた。
どんな目元だった?
確かツリ目気味の大きな目で、左目の下にはほくろがあった。
背丈はどうだった?
確か身長が低くて、よくいじられていた。
声は?
しぐさは?
表情は?
どんなに言葉を並べてみても、頭の中で思い描けない。
幸いにも写真にはまだ彼の姿があった。それもいつか、彼の手によって消されてしまうのだろうか。
(……朝の水色の空が、よく似合うやつだった)
彼の笑顔を、もう思い起こせない。
僕はこのまま、彼を忘れていくのだと悟った。
ため息を吐いて、学校に行く準備をするために立ち上がった。
*
「こんにちは」
放課後、喫茶『街角』の扉を開けると、ミライさんとジャスパーさんが僕を迎えた。
「橘くん、こんにちは」
「やあ、悠紀くん」
ミライさんは向こうの制服を着ている。詰襟で袖にかけて広がっている白いYシャツに、早暁高校の東雲色のリボンではなく、緑色の大きなリボン。そしてグレーではなく夜のような紺色の細かいプリーツスカート。ブレザーは着ていない。こっちの世界は暑いからだろう。そんな彼女に対し、ジャスパーさんはエプロンを外しただけのいつもの恰好だ。ミライさんはこっちの世界では制服しか持っていないと言っていた。彼女の私服を最後まで見ることはなかったな。そしてきっと、これからもないのだろう。
今日は、ミライさんとジャスパーさんが向こうの世界に帰る日だった。
記憶の中では見たが、実際に初めて見るミライさんの姿に、もう同級生ではないのかという寂しさと、別の世界に生きているという実感が沸いて。
ジャスパーさんはこの店も畳んでしまうらしく、片付けのためにまた来ることもあると言うが、それでもしばらくはこっちの世界に来ないようだ。
「それじゃあ、元気でね、悠紀くん」
「はい、ありがとうございました」
「こちらこそありがとう、本当に」
ジャスパーさんはミライさんに「先に行ってるね」と言い、彼女は「ん、分かった」と返した。
「あの!」
歩き出した背に、思わず呼びかけた。
「どうしたんんだい?」
「いえ、あの、ジャスパーさんとミライさん、やっぱり似てるなって思って」
何故、今その話をしようと思ったのか。
「ん」と短く返すところを見たからなのか、家族でありお互いを大切に想っているのになんとなく距離を置いてしまっていることを知っているからなのか。
本当の親子ではなくても、僕から見たら家族だった。そう伝えたかったのかもしれない。
「外見は確かにそうかもね。髪色とか、目とか」
そう言って自身の跳ねた前髪に触れたのはミライさんだ。
「見た目もだけど、中身が」
「そうかな」と考える彼女はジャスパーさんを見つめた。彼はふふっと笑う。
「僕も似てないと思うな。君にそう言ってもらえるのは嬉しいけど」
「うーん、僕は似てると思うんですけどね」
勉強熱心で部屋の片付けができないところも共通している気がする。
ジャスパーさんは目を細めて、僕に手招きする。
「悠紀くん、少しいいかい」
「私は仲間外れ?」
「そう、秘密の話」
僕は大人しくジャスパーさんに近づくと、彼は身をかがめて顔を寄せ、ミライさんに聞こえないように小声で話し出す。
「調査が終了したら、君に記憶消去の魔法をかける予定だったね?」
「あ、はい。でも彼が、――朝桐自身とミライさんに関わった人間全員に記憶消去魔法をかけたから、僕に重ねて魔法をかける必要がなくなったんですよね」
人の記憶に干渉する強力な魔法であるため、重複してかけることはあまり良くないとされているらしい。もうかかっているなら、改めてかける必要ないだろうということになった。僕としては魔法をかけられた自覚があまりないため、どうせなら魔法陣とか魔術とかを使っている現場を見たかったものだけど。例え忘れるとしても。
「僕はね、気付いたことを何でも正直に口にするタイプではないんだ」
「え」
彼は口に手を当てて笑う。
「僕は真面目じゃないから。ミライと違ってね」
さて、そろそろ行こうかなとジャスパーさんは姿勢を正した。
「君はいつかこのことに気付くかもしれない。でも、人間だからいつか忘れる。忘れてしまうまで、大事にとっておきなさい」
「は、はい……?」
「じゃあね」
「は、はい! ありがとうございました!」
僕にだけ話した割にはよく分からないことを言っていたジャスパーさんは、笑顔でそう言い残して店の奥へと消えていった。
バタンと扉が閉まる。
店内に僕とミライさんだけが残された。
「……何を言われたの?」
「……よく分からなかった」
「何それ」
二人して首を傾げてしまい、ははっと笑った。
「ミライさん、向こうに帰ったら何するの?」
「まだ決めてない。これから見つける」
「魔法省には入らないの?」
「頼まれても願い下げ」
「はは、最高だね」
なんて、これからの話をしながらゆっくりと彼女に向き直る。
「……寂しくなるね」
「そうね」
「ミライさんにいろんなものをもらったよ」
明るい感情も、暗い感情も、僕になかったミライさんの価値観も。
いいことだけではなかったこの一か月半だけれど、それでも僕にとって大きい出来事だった。
「私も」
ミライさんが言う。彼女も僕と同じように思って同意してくれていたらいいなと思った。
本当に、色々なことがあった。
これから先、ミライさんのことも忘れてしまうかもしれない。けれどこれはずっと僕の中に残り続けるだろうと悟った。
「ねえ、橘くん」
「何?」
「あの日、なんで〈境界〉にいたの?」
「ジャスパーさんに〈境界〉の条件を聞いたんだね」
「うん」
彼女の秘密を知った日。
六月三日。
「あの日、僕の誕生日だったんだ」
彼女の口から「え……」と声が漏れる。
「誕生日が嫌いなんだ。祝われるのとか、あと何年生きられるのかを数えることとか。祝ってくれる家族が嫌ってわけではないんだけどね」
早く“今日”が過ぎてほしいと思うのは、誕生日のときだけだ。
「だから家に帰るのが嫌で、あそこに行った。時間を潰そうとして。早く今日が終わらないかなって、思って、――」
そこまで一気に話して、でも言い淀んで、ちゃんと言えた。
今まで誰にも言わなかった、僕の秘密を。
「僕、病気なんだ。二十歳まで生きられない」
ミライさんは僕の言葉に目を見開く。
大学に進学しても卒業できないかもしれない。今一生懸命勉強したところで、役立てることができないかもしれない。そもそも、自分が何になりたいのか、何に興味があるのかが分からない。
就職したところで自分の生活費と医療費、親孝行にしかお金の使い道が思い浮かばない。それも大事であることは理解しているが、僕自身にとってこの人生は何になるのだろうと考えてしまう。
僕は大人になれない。コーヒーの苦味を美味しいと感じる日が来ないかもしれない。
なら、今この瞬間が一生続けばいいのにと思う。
朝起きたら学校に行って、人と挨拶を交わして、なんとなく授業を過ごして、友達と話して、昼食を食べて、部活に行く友達を見送って、家に帰って、家族と夕食を食べる。
そして夜が怖くなるんだ。“明日”を考えなければならなくなる夜が嫌いだ。だからさっさと夜を過ぎ去るために早く寝る。朝早く起きて、始まる“今日”のことを考える。そうやって、将来のことは見ないようにして。
諦めていたことだ。
もうこれはどうにもならないことだから。
僕が頑張ったところで変えることのできない現実だ。
ただ、ミライさんの人生の一部に僕と過ごした日々があった。その事実を、彼女が覚えていてくれるのなら。それが消えなければいいなって。
そう、思って。
「ミ、ミライさん……?」
「あ……」
ミライさんの頬に、涙が流れた。
ミライさんが泣いているところを、初めて見た。彼女の記憶の中でも、〈境界〉でも、彼女は泣かなかった。
そんな、彼女が。
「っ、なんで、ミライさんが泣くのかなぁ……」
「だ、だって」
ミライさんは両手で涙を拭う。必死に拭っても、次から次へと溢れ出てくる。
「もう会えないかもって、思ってたけど、それは違うじゃない……っ」
彼女を見て、彼女の震える声を聞いて、胸が締め付けられた。
でもそれは苦しいものではなくて。むしろあたたかいもので、じんわりと広がっていく。
溢れ出した感情に、呼吸ができなくなる。きゅっと瞼を閉じ、収まるのを待つ。
何かが、こみあげてくる。
もう受け入れた現実のはずだったんだ。
もっと生きたかった。なんて、そんなのはずっと思っていたことで、今更だ。
これは違う。もっと、違うものだ。
涙が、出そうだ。
何だ、この感情は。
彼女の涙を見て、沸き上がった感情は、なんだ。
この感情を、僕は知ってるはずだ。
けれど、なんて表現したらいいのか分からない。
ただ一つ言えることは。
きっと、僕は。
(僕は、嬉しいんだ)
彼女が涙を流す理由が僕であることが。
彼女が僕のために涙を流してくれていることが。
彼女がそうなるほどに、僕のことを想ってくれていることが。
もうだめだった。
ぽろりと一粒。もう一粒。
ああ、この気持ちを、どう表現したらいいだろう。嬉しいの一言では、片付けられないほどのこの気持ちを。湧き出た泉のように、水面に反射している輝きのように。こんなに綺麗なのに、両手で救ってもその煌めきの粒は救い上げることができない。それがもどかしい。ここにあるのに。ここに、間違いなくあるのに。掴み取れずにこぼれ落ちていく。
ああ、悔しい。それを彼女に伝えることができないのが、唯一の心残りかもしれない。きっとこれは恋ではない。その僕の持つ語彙力では無理だ。僕が読んできたたくさんの本をかき集めても形にできないような気がした。
後悔しないように僕のことを打ち明けたというのに。
「――ありがとう」
ようやっと出てきたこの五文字に全て詰まっている気がした。
立ったまま、嗚咽を漏らしながら、僕たちは泣いた。
お互いに、お互いが泣いているところを見てまた涙を流した。
「はは、」
なんだかおかしくて、僕は笑った。
「ありがとう、悠紀くん」
名前を呼ばれた。
「……今更じゃない?」
彼女の方が、こういうのは気にしなさそうなのに。
「あなたの名前、忘れたくないから」
また、そうやって君らしくないことを言う。
「はは、やめてよ、また泣きそうになる」
彼女は笑った。
「ありがとう」
「僕も、ありがとう」
どちらかともなく、手を差し出そうとした。
右利きの僕。左利きのミライさん。
僕は右手ではなく、左手を出そうとして。
「あ」
「あ」
彼女は左手ではなく右手を差し出した。
僕たちはまた笑う。
ミライさん、変わったな。誰かに気を遣えるようになったのか。と、最初に会った頃の彼女を思い出してなんだか懐かしい気持ちになった。これを言うと彼女はまた「失礼ね」と拗ねてしまうのだろう。
僕は右手を出して彼女の小さな手を軽く握る。意外にも暖かかった。
そして手が離れる。名残惜しいとも思わなかった。
「またね、悠紀くん」
彼女は告げた。
もう会えないのに、なんて言わなかった。彼女はわざとその別れの言葉を選んだのだと分かったからだ。
「うん、またね、ミライさん」
放課後の教室で別れを告げるように、いつものように軽く手を振る。
彼女は前を向いた。
扉が閉まり、ミライさんの姿が見えなくなった。
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