7月19日(金)

 彼女がいなくなってから十四日目、日常に戻ってから八日目。あの日からもう半月が経っている。時間の流れが速くて驚いた。

 久しぶりに登校することにした。ずっと休むわけにもいかないし、今日行けば明日は土曜日だ。そうやって重たい腰を上げて制服に着替えた。

 そんな自分が嫌だった。ミライさんのいない日々を受け入れつつあるのが嫌だった。時間が経てば、こんな不思議なことがあったなと思い出のようになり、次第に夢だったのかもと思い、そして最後には忘れるのだろうか。

「行ってきます」

 彼女と過ごした梅雨もすっかり明けていて、快晴だった。

 もし僕も魔法が使えたら。

 彼女を助けることができたのだろうか。彼女の横に立つことができたのだろうか。彼女の見ている世界を、見ることができたのだろうか。

 彼女が見る世界を見たかった。

 僕の現実を見たくなかった。

 どこまでいっても傍観することしかできない自分に反吐がでる。忘れる以外に、僕の心が回復することはないのかもしれないと思った。


  *


 まだ、彼女のいない世界に目を向けるのが辛かった。彼女が本当にいたのかが分からなくなるから。

「おはよう、悠紀!」

「お、橘。体調大丈夫か?」

「おはよう。うん、大丈夫、ありがとう」

 席替えをして良かったのかもしれない。朝桐の席が真ん中の一番前になったことで、ミライさんの席があったところに目が行かなくなった。久しぶりに会った友人たちを目の前にして、笑顔を貼り付ける。

 なんだ、ちゃんと笑えるじゃないか。

 思ったよりもいつも通りにいられる自分に安心しつつも、その安堵が、彼女がいなくても何も変わらないのだと言っているようで少し悲しくなった。

 こうやって受け入れていくんだ。

「おはよう」

 朝桐の席にいる僕たち三人に声をかけたのは阿水さんだった。

「阿水おはよう」

「おはよう、阿水。あれ、お前足どうした?」

 朝桐の言葉に阿水さんの足に目を落とす。彼女の膝にはガーゼが貼られていた。

「大丈夫?」

「あー、だいじょぶだいじょぶ! 部活で転んじゃって、擦りむいただけだから!」

 僕がいない間にも、色々な人に色々なことが起きている。知らないところで。

「くじいたりしなくて良かったな」という菊永に、「ほんとにね~」と阿水さんは緩く返した。夏の大会が始まる前だ。陸上部で活躍する彼女が今の時期に怪我で練習できなくなったら大変である。

 僕はもう、阿水さんとは隣同士ではなくなった。わざわざ彼女が話しかけてきたということは、誰かに用事があったのではないだろうか。

「橘くんやっほー。久しぶり、体調大丈夫?」

 席が離れても変わらずにそんな挨拶をしてくれたのが嬉しくて、僕も「やっほー」と返す。

「うん、だいぶね。ありがとう」

「ちょっと橘くん貸してくれない?」

「僕?」

「どうぞ~」

 朝桐が勝手に許可を出した。

 貸してくれ、とは言ったが教室の後ろの方に少し移動しただけだった。

 あのさ、と彼女は言いにくそうに話し出す。

「先週、“みらい”って人のこと言ってたよね」

「あ……」

 諦めていた頃に、その名前を出される。

「思い、出したの?」

「ううん。知らない」

 ささやかな期待が芽を出し、すぐに摘み取られた。

 でもね、と彼女は続ける。

「“みらい”って別の意味がなかったっけ。そう思ってなんとなく調べたら、どこかの国で『月のように輝く』っていう意味の、人の名前なんだって」

 目を見開く。

 阿水さんと彼女が初めて話したときの記憶。

 彼女はそれを聞き、目を輝かせ、綺麗だと、彼女に伝えていた。僕にも同意を求めてきた。

 それが阿水さんの何かに引っかかったのだろうか。

 何も言えない僕を気にせず、彼女は斜め上を見ながら、

「これ誰に聞いたんだっけな。素敵だなぁってそのときに思った気がするんだよね」

 思い出そうとして、思い出せない。

 ジャスパーさんは思い出しにくくするだけでなく、催眠魔法もかけたのではないかと言っていた。〈境界〉を作り出した犯人であり、雫さんの記憶からも短期間で自分の姿をぼかした人物だ。かなり強力な魔法をかけたのだろう。

「橘くんもいなかったっけ?」

 と話す阿水さんはどこか悲しげで。涙が出そうになって、阿水さんに彼女のことを言いたくなって。

「……僕も、聞いた気がするよ」

 阿水さんは、「だよねぇ、誰だったっけ……」と切なく笑う。

 彼女は、ミライさんは、ちゃんといたんだ。ミライさんの言葉が、ミライさんから与えられた感動が、目の前の彼女の心の中で生きているのだ。

「ごめんね、変な話して。でも気になっちゃって」

「ううん。ありがとう」

 ――受けた影響の結果は本人の中に残り続ける。

 ジャスパーさんの言葉を思い出す。こういうことなのだと分かった。


  *


 放課後、彼女と行った〈境界〉の場所を回った。

 須々木さんに声を届けた商店街。『すすきの手作り弁当屋』に入ると、カウンターに奥さんがいた。

「いらっしゃいませ。……あ」

「こんにちは」

「ちょっと待っててね、主人呼んでくるから」

 そう言って彼女は奥へと行った。ミライさんのことが消えているだけで、僕の行動は残っているようだった。

 待っているとすぐに須々木さんが出てきて、僕を見て元気よく話し出す。

「待ってた時! 心配かけたみたいで悪かったな~」

 須々木さんがいないときに店に行ったことを、奥さんから聞かされたのだろう。

「こんにちは。元気そうで安心しました」

 彼はミライさんに会ったことがない。奥さんや美雲ちゃんも覚えていないだろう。しかし、彼がここにいることに意味がある。ミライさんが誰かを救った事実がここにあるのだから。

 須々木さんは「お陰様で元気だよ!」と豪快に笑う。

 僕はあのとき、彼の物語を見た。「楽しくない時間もある」と彼が言っていた通り、僕に見せていないだけで悩んでいたり、嫌なことがあったりする。それは〈境界〉から帰ってきてもなお、なくなることはないしこれからも起こりうることだ。

 僕に元気を見せてくれた須々木さんは、僕を見て眉を下げる。

「……君は元気がなさそうだけど、どうした?」

「あ……」

 最初に須々木さんに会ったときも、こうやって気付かれた。

「……元気がないので、元気になりに来ました」

 彼の優しさに涙が出そうになり弱々しく微笑む。「そうか」と彼も悲しそうに笑った。彼はこうやって、ただのお客さん一人に寄り添える人なのだ。

「アジフライ弁当一つください」

「あいよ!」

 僕はお金を払い、店内の椅子に座る。〈境界〉にいるとき、この椅子の角に頭をぶつけたっけ。

 数分後、須々木さんに呼ばれた。僕はあのときとは違い慣れた手つきでカップに味噌汁を注ぎ、蓋をする。カウンターに置かれた弁当の入ったビニール袋に味噌汁を入れようとして。

 弁当と一緒に、淡い黄色の袋が入っていることに気付いた。この店の色である、すすきのような薄い黄褐色。

「美味いもん食べて、元気になれよ」

 須々木さんを見ると、彼は歯を見せて笑い、僕の手から取った味噌汁のカップを袋に入れてきゅっと縛った。

「っ……ありがとうございます」

 その袋を受け取った僕は、彼に顔を見られないように深くお辞儀をした。

 今ここにいる彼を救ったのは、紛れもなくミライさんだ。


  *


 雫さんを見つけた公園。

 今日は雨が降っておらず、紫陽花もとっくに枯れていたので、あのときとは景色が少し違っていた。

 ベンチに座っていると、公園の入り口から誰かが走ってきているのが見えた。ブルーグレーと白色のセーラー服を着て、長い黒髪を耳の下で二つ結びにした少女。髪を結っている梅色の紐を揺らしながら、僕の目の前までやってくる。

「雫さん、久しぶ」

「た、橘さん! やっと見つけた……!」

「え?」

 どうやら彼女は僕を探していたようだ。彼女はこの距離を全力疾走しただけで大分息を上げていた。彼女は僕を改めて見ると、あれ、と僕の周りを確認した。

「今日はあの人いないんですか……!?」

 あの人。僕は目をぱちくりさせる。

「なんか、変なんです……! あの人の顔と名前が思い出せなくて……、まるで、私に魔法のローブをくれた人みたいに……!」

 彼女の言うあの人。僕と一緒に行動していた人は、あの人しかいない。

「……ミライさんのこと?」

「っ! そ、そうですっ! ミライさん!」

 自分以外の口からミライさんの名前が出たことに驚く。

 そうだ、彼女は魔法を知っているし目撃した。ミライさんの正体を知り、自分でも魔法具を使用したこともある。〈境界〉や魔法のローブを巡った一件は彼女の中で大きなものだったはずだ。

 彼女は僕を責め立てるように言う。

「一体、何が起きているんですか!? 橘さんのことは覚えているのに、ミライさんのことだけ忘れてるんです。恩人のこと、忘れるわけないのに……! この感覚、記憶操作の魔法ですよね……!?」

 そう、彼女はこの違和感を知っている。以前同じ魔法をかけられたことがあるから。

 彼女は聞きたいことがたくさんあるとばかりに口を止めない。

「それに、なんでここに来てくれないんですか……! 私お二人の連絡先知らないから、ここで待ってるしかなかったんですよ。今週『街角』にも行ったんですけどずっと閉店してるし……!」

「そ、そうだったの?」

「お忙しいのは分かってはいるんですけど、お礼も言えてないのに!」

 公園での〈境界〉から彼女を救った次の日から、僕たちは次の〈境界〉に足を運んでいた。かなり難航していたのと、テスト期間だった。雫さんのことを忘れていなかったといったら嘘になるが、テストが終わったら雫さんに会いに行こうと、ミライさんと話していた。

 ……それは叶わなかったけれど。

「……ミライさん、いつ会えます?」

 雫さんはずっと僕とミライさんを探してくれていたのか。

 僕と連絡先を交換しながら彼女は聞いた。彼女は、向こうの世界の存在を知らない。

「……ミライさんは、帰ったよ」

 僕は嘘を吐いた。

「……じゃあ、伝えておいてください。ありがとうございましたって。またこっちに来たら私にも知らせてください」

「……分かった」

 雫さんは塾があるからと、すぐにこの場を去った。手を振って彼女を見送り、少しして僕も立ち上がった。

 ミライさんがここにいることを、望んでくれていることがとても嬉しかった。


  *


 彼女と出会った山にも行こうとも思ったが、時間がなかったので今日はやめた。もう一箇所、行くところがあった。暗くなった空を見上げ、僕はある場所に向かう。

 駅前の花屋で花を買った。

 コンビニの前を通り、街灯の少ない道を歩く。相変わらず人と車が通らない、静かな道だった。

 小柳さんの憎悪に満ちた〈境界〉。

〈境界〉ではないこの道を、日が落ちた暗い時間に歩くのは初めてだった。マンションが見える前に、道を曲がる。もちろんだが、そこには誰の死体もない。

 小柳さんが亡くなった場所の、道の端に花を添える。近くの電信柱についた小型街路灯が花びらを照らした。両手を合わせて目を閉じる。

 この世の理不尽に身も心もボロボロにされてしまった彼女を想った。

 ……律儀だねぇ。

 そんな声が聞こえた気がした。

 僕は閉じていた目を開き立ち上がる。今日やりたかったことは全て果たした。

 帰ろうとしたときに、街灯の下に誰かがいることに気付く。彼女は電信柱に寄りかかり、空を見上げて煙草を吸っている。

 思わず凝視していると、彼女はゆっくりと視線をこちらに向けた。

 目が合った。

「え!?」

「ええ!?」

 僕と彼女――小柳とばりは同時に声を上げた。

 無意識に喉を抑え、一歩後ろに下がる。

「あー! ごめん、本当にごめん! 何もしないから!」

 慌てたように言う彼女は、言葉通り何もする気はないらしい。〈境界〉で真実を伝えた後のような恐ろしさはない。

「えっと、小柳とばりさん……?」

「そうだよ」

「ゆ、幽霊?」

「あんな最悪な死に方して成仏できるほど潔くないわ」

 そんな言葉を吐きながらも、彼女は穏やかに笑った。

 彼女の指には煙草が挟まっている。僕の目の前で気にせずに吸っているが臭いはしない。

「名前、聞いていい?」

 小柳さんが尋ねる。

「橘です。橘悠紀」

「みかんが食べたくなるわね」

「はあ……」

 相変わらず掴みどころがなく、幽霊を相手にしているというのに拍子抜けしてしまう。

「橘くん、ごめんね。あの女の子にも謝っておいてくれない?」

 彼女は〈境界〉の件を謝った。ミライさんのことも、当然のように覚えていた。

「お、覚えてるんですか……!? ミライさんのこと……!」

「覚えてるわよ。……あの子、ミライって言うんだ。賢そうで未来があるあの子にぴったりね」

「なのに、悪いことしちゃったわ」と笑う彼女は悲しそうだ。否、悲しいというより、罪悪感があるような苦しい表情だ。

 そうか、幽霊だから記憶は消えていないんだ。

「……羨ましかったのよ。生きていて、一人じゃない君が。体調が悪くなったらああやって気にかけてくれるような人がいて。若くて、これからがある君が。君たちが。妬ましいほどにね。……でも、なんか変だったの。自分のしたことは覚えているし、あれは間違いなく自分の意思だった、うん。私の意思で橘くんを殺そうとした。怖かったわよね、ごめん」

「怖かったし、苦しかったです」

「ごめーん!」

「いいですよ、もう終わったことですし」

 彼女は煙を吸って、吐き出した。僕は空に上がっていく煙を目で追いながら「味するんですか?」と聞くが、彼女に「全然」と返された。

「通り魔に刺された後、誰かが来たのよ」

 彼女の言葉に、あ、と思い出した。倒れて意識が途切れる前に、彼女の側にカケラを置いた人物。

「何を言われたか思い出せますか!?」

 その人が何を言ったのか、彼女なら覚えているのかもしれない。

 彼女は頷く。

「変なことを言っていたのは覚えているわ。『その感情を貰う』って」

 感情。僕はその言葉を口の中で転がした。どういうことなのだろう。

 確か、その人は『随分と大きな感情を持て余しているじゃないか』とも言っていた。

「あの空間で、私はあの日――六月一日の出来事を繰り返してた。帰宅して、家から女が出てくるところを目撃して、マンションを飛び出して、通り魔に刺されて死ぬまでを。あの空間で最後に刺されて、思い出すの。するとそこには自分の死体があって。自分の、本当の身体。私は死んだんだって。その現実を突きつけられるの。この一連のどす黒い感情のことを言っていたのね。私の記憶を消して、毎日絶望させて」

 一か月も抜け出せなかった彼女の感情は計り知れないだろう。

 小柳さんは全てを話し終えて、すっきりしたように表情を和らげた。

「久しぶりに人と話せて楽しかったわ、ありがとう」

「小柳さんはこれからどうするんですか?」

「せっかくだし、楽しいことしたいわ」

 まずは写真に写り込むことを目標にしようかな~と、生前よりもなんだか楽しそうだ。生前の彼女に会ったことはないが。

「他の人には見えないんですか? 僕、別に霊感とかないんですけど」

「あそこにいたときは変な石の力があったし、わけ分かんない空間だったから実体を保ってたのよ」

「じゃあなんで急に」

「んー。あ、それじゃない?」

 彼女は僕に指をさす。顔ではなく、腰辺りを。

「鞄、何か入ってない?」

 僕は鞄を開き、中に手を突っ込んだ。何かあったっけ。

 こつん、と何かが触れた。教科書の下に埋もれていた小さなそれを、僕は取り出す。

 空色の布。紐に橙色のビーズが付いた小さな巾着だ。

 紐が切れている。そうだ、〈境界〉から帰ってきたとき、足元に落ちたこれをちゃんと拾ったんだ。そして鞄に入れた。あの後の曖昧だった記憶がよみがえる。

 僕は固く結ばれた紐を解いて、中身を手のひらに出す。

 中から出てきたものは、緑色の石だった。

「あ……」

 声がもれた。

「綺麗な石ね」

 小柳さんは惚れ惚れするように言う。彼女の言う通り、一センチにも満たないほどの小さな石は確かな存在感を放っていた。

 この色を、僕は知っている。

 あの瞬間、交わった瞳。

 ――エメラルドグリーンだ。

 この色に何度も助けられた。これをくれた人に何度も助けられた。

 彼女の魔法が、ここにある。彼女はちゃんといたのだと、自分に大切なものを与えたのだと実感して。

 静かに涙が溢れた。この非日常に飛び込んでから流した、二度目の涙だった。しかし前回とは違う涙だ。

「残念だけど、この身体だからお姉さんが涙を拭ってあげることはできないのよね」

 小柳さんはこんなときにまた、笑えない冗談を言う。

 でも僕は、

「ありがとうございます」

 と笑った。


  *


 その足で喫茶『街角』に向かう。

 ジャスパーさんは今、こっちの世界にいるのだろうか。向こうの世界とこっちの世界を繋いでくれているのは彼だ。僕一人では何もできない。それは今でも変わらない。

 しかしその考えは杞憂だったようで、『街角』の二階は灯りがついていた。

「悠紀くんか、こんばんは」

「こんばんは」

 遅い時間に急に来たにも関わらず、ジャスパーさんは店に入れてくれた。

『街角』の店内。オレンジ色の照明が僕たちを静かに照らす。ジャスパーさんの顔色は相変わらず、いや、前に会ったときよりも悪い。

 今更なんの用だと思われているかもしれないが、ここに来る理由は一つしかない。僕たちは座りもせず、立ったまま話し出した。

「ミライについて、犯人について何か思い出したことがあったのかい? それならスマホからでも、」

「違います」

 思い出したこともある。小柳さんから新しく聞いたこともある。しかしそれ以上に。

「犯人が、なんでカケラで人を呑み込んでいるのか、理由が分かったんです」

 ジャスパーさんは少し目を見開く。しかしその動揺はすぐに収まった。

「……何故?」

 僕は話を続ける。

「犯人の目的は、世界の境目を壊して一つにすることですよね? そのために〈要〉を壊し、〈境界〉を作り出し、空間を歪めている。それは今までの推測通りです」

「……それをやるには魔力が必要」

 それを成し遂げるための膨大な力がいることは、想像にたやすい。

 ジャスパーさんも分かっているということは、向こうの世界でもそこまで話が進んでいるということだ。

 魔法についての知識があまりない僕の考えなんて、本物の魔法使いからしたら馬鹿らしいと思うかもしれない。それでも僕の考えを話していく。

「向こうの世界の言い伝え。ミライさんから聞きました。全てを創り出した魔法使いは一人。その後の〈要〉の維持は十二人がかりで行っている。それも選ばれた魔法使いです。それに、ミライさんの魔力は夜の時間帯が調子良いと言っていました。魔力の質や量には個人差があるんじゃないですか?」

「……ああ、その通りだ」

 ゆっくりと頷く。しかし、と彼は続けた。

「例の魔法使いが全てを創り出した。そのくらいの力を持つ魔法使いが生まれてきてもおかしくないということだ。魔法省でも魔力の多い魔法使いをリストアップして捜査や研究を行っている」

 それでも犯人に辿り着くことはできていない。

「その前提が間違っていたとしたら?」

「どういうことだ?」

「犯人の魔力はもともと普通だった、ということです」

「……まさか。多少の波や、一時的に魔法が使えなくなることはあれど、魔力自体が急激に増加するなんて聞いたことがない」

「小柳さんの〈境界〉に入ったとき、彼女の記憶を見たんです。……犯人がいました」

「犯人が分かったのかい」と聞くジャスパーさんに、僕は「それは分かりませんでした」と首を振る。

「記憶の中の彼はこう言いました。『随分と大きな感情を持て余しているじゃないか』と。そして、『その感情を貰う』と」

 彼は「感情……」と初めて聞いた言葉のように復唱する。

「犯人は、人の感情を集めているんです」

 向こうでも記録がないのか、ジャスパーさんは「そんなことが、」と呟いた。

 他人の感情を貯蓄し、魔法のエネルギーにできたら。

〈境界〉を作り出している目的は一つではなかった。世界を繋げるだけではない。迷い込んだ人を呑み込むことで、その人の感情をカケラに溜めている。

「ミライさんも、きっと」

「……犯人の目的が分かっても、ミライがいなくなったあの日からもう何日も経っているんだ」

 無事であるという確証がないからか、かすかな希望に縋れない。

 そんな彼に僕は話し続ける。

「小柳さんは、あの空間に一か月いました」

「小柳とばりは亡くなっていたんだ」

「でも、彼女のときのように繰り返しているかもしれない。繰り返して、感情を引き出させているかもしれない」

 それに、犯人は小柳さんの記憶の中で感情以外のことも言っていた。

「『次の満月』まで」

「……どういうことだ?」

「犯人が、小柳さんの記憶で言っていたんです。『次の満月まで』って。小柳さんは六月一日に〈境界〉に入り、次の満月の日に呑み込まれる予定だった。きっと満月じゃないといけなかった。例えば、ミライさんの魔力が夜と相性がいいように、犯人は月と相性が良かった。増幅させた小柳さんの感情を呑み込むには満月の日じゃないといけなかった」

 はっとしたようにジャスパーさんはカウンター内に入り、壁に掛けられたカレンダーを見る。前と次の月も小さく表記されているタイプのカレンダーだ。月の満ち欠けのマークが日付の下に描かれている。

「六月の満月は二十二日。君たちが小柳とばりの〈境界〉に初めて入ったのは二十九日だ。一週間も遅れている」

「はい。雫さんの〈境界〉で見た記憶で、ローブを雫さんに渡した犯人は『予想外のことが起きた』と言っていました」

「……ミライか?」

「そうです。五月七日にミライさんがこの街にやってきました。そしてカケラを壊し、人が呑み込まれるのを阻止してきました。その分の魔力が手に入らなくなり、六月の満月の日、二十二日に小柳さんを呑み込む力がなかった。それに、他の魔法使いも小柳さんの〈境界〉に入って調査していましたね。この街にはミライさんもいるし、大きな動きができなくなってしまった」

 一つずつ、時系列を整理し謎を解きほぐしていく。

「雫さんがローブを手に入れたのは六月十日。その頃にはすでにミライさんがいくつかの〈境界〉を消していましたね。五月に二件。六月に入ってからは僕と朝桐」

 これまでのことが、繋がっていく。

「今思えば、ジャスパーさんの魔法具を盗んだのも狙ってやったことだったんじゃないでしょうか。それに、人間に直接カケラを渡してしまえばミライさんは攻撃できない。ミライさんを動揺させ、手出しできないようにしたんです」

 ジャスパーさんは何かに気付いたように、カレンダーの前で呟く。

「……梅咲雫を説得している時期に、小柳とばりのカケラは魔法使いを呑み込んだ……」

 雫さんを隠れ蓑にしたのだ。あわよくば、雫さんも呑み込めればいい。そうすれば力も手に入るし、雫さんと仲良くなった僕たちの戦意もそがれる。

「……ミライさんは、まだ生きているかもしれません」

 可能性の話だ。そうであってほしいのだ。

 さっきは否定していたジャスパーさんは、カレンダーの一点を見つめる。

「……七月の、次の満月は二十一日」

「……明後日です」

 僕は諦めたくない。だって、『やらなきゃいけない』って、彼女と言ったから。

「みんなの記憶からミライさんがいなくなっても、いつか僕も忘れてしまっても、今は。……覚えている今、この瞬間は、助けたいって、強く思ってます」

 胸に手を当て、一歩前に出る。

 ――助けないとね。

 彼女の声を思い出す。彼女に、助けられた。

 ジャスパーさんは振り向く。

「何故、人間の君が……」

 彼の顔は歪んでいた。ここまで感情を表情に出す彼は初めてだ。

 何故。どうして。

 僕は、口を開いた。

「……僕、彼女に憧れてるんです」

 彼が息を飲む。目を見開く。唇を引き締める。瞳が揺れる。

 感情が、揺れている。

 きっと、彼にもこの気持ちが分かるのだ。

 彼の顔を見て、僕も彼の感情が移りそうで、泣き出してしまいそうになる。

 震える声で続ける。

「……同時に、劣等感や嫉妬もあります。ミライさんは、僕にできないことができて、持っていないものを持ってる。『僕も魔法が使えたら』、『魔法があったら何か変えられるのかな』って思うこともあります」

 口に出さずとも雫さんと共有したこの気持ち。小柳さんの〈境界〉で味わった自分の無力さ。

「でもきっと、魔法を持っているから憧れているわけではないんです。彼女が、頑張っているのを知っているから。やるべきことをこなして、目標に向かって真っすぐで。それって、簡単そうで難しいことなのを、よく知ってる。言葉は少ないけど、すごく頼りになって、」

 いつだって前に出てくれる彼女の背中。

 頼もしくて、眩しい。

「かっこいいなって、思ったんです」

 自然と出た言葉は、そんなに簡単なものだった。

「僕もそうなれたらいいなって。ミライさんみたいに、誰かにとってのそういう人になれたらなって」

 そんな理想を夢見ては、自分とのギャップに落胆した。

「でも、彼女みたいになるのは無理なのは分かってて。僕と彼女は、違う人だから」

 僕は握りしめていた手をほどき、お守りを見る。

 どうあがいても、彼女と同じ世界を見ることはできない。僕は僕の世界しか見ることができない。

「……それは?」

「……彼女が僕にくれたものです」

 僕は手に持っていた弁当の袋をテーブルの上に置き、お守りをひっくり返して小さな石を手のひらに出す。

 暖色の照明に照らされてキラキラと輝く、エメラルドグリーン。

 ジャスパーさんは、息を飲んだ。つかつかと僕の目の前まで歩み寄る。手のひらのそれを近くで眺めて。

「ああ、これは、そうか。ミライが、これを……」

 僕の肩に、優しく両手を置いた。小刻みに震えているのがシャツ越しに伝わる。

「ミライは、まだ無事だ」

「――え?」

 彼の言葉に、今度は僕が息を飲む。

「それは、ミライの魔法石だ。それも、石に魔力を流し込んで作ったものではない。ミライの魔力をそのまま結晶化させたもの」

「それが、なんでミライさんが無事だって」

「魔法石には二種類ある。一つは石に魔力や効果のある魔法を流し込み、貯蓄するもの。君たちが雨の中、拾ってくれた魔法具の中に透明な石があっただろう? あれは魔力を流し込むための石なんだ。そして、もう一つは魔力そのものを結晶化させたもの」

〈境界〉のカケラは後者だ。最初の説明で聞いた。

「魔力を結晶化したものは、石に流し込んだ魔法とは違い、持ち主が生きている限り消滅することはないんだ」

 つまり。

 その続きを僕が言う。

「これが消えていないから、ミライさんはまだ生きてる……?」

 ジャスパーさんは頷き、

「この魔法石を創るのはかなりの技量が必要なんだけどね……。そうか、ミライは創れたのか……。そしてこれを君に……」

 と言った。犯人が〈境界〉を作り出す際に使用している魔法石だ。相当難しいに違いない。

(これを、ミライさんが……)

 彼女の魔法石に目を落とす。ただの結晶ではない。彼女の努力の証だ。

 彼女が無事だという可能性から、確証へ。これまで僕の話していた推理が現実味を帯びてきた。ミライさんがまだ生かされているということは、明後日に呑み込むつもりだ。ほっとしたのもつかの間、逆に考えれば明後日までになんとかしなければならないということだ。

「ミライのことは、こっちでなんとか調べる。今日はもう遅いから悠紀くんは帰りなさい。ご両親が心配する」

 ただ、それでもジャスパーさんはやはり僕を日常へと帰したいようで、肩を優しく押して扉へと向かわせる。僕は彼の手を振り払い向き直る。

「僕も手伝います」

「だめだ」

「なんでですか」

「危ないからだ」

 ああ、彼女と同じだ。この家族は同じ理由で、僕を危険から遠ざけようとする。

「……ミライさんはまだ〈境界〉にいます」

「何故、断言できる? 移動したかもしれないだろう?」

「雫さんをカケラに取り込もうとしたとき、まず〈境界〉に引きずり込まれたんです。直接カケラに取り込めばいいのに、わざわざ。ミライさんも〈境界〉に入れてから靄で襲った。きっと、〈境界〉ではないといけないんです」

 断片的に見た、ミライさんの記憶を思い出す。彼女ほどの魔力を持つ魔法使いを取り込めたら。ミライさんの心を取り込めたら。あのときの感情を最大限に引き出してから、呑み込むつもりだ。だから、まだ彼女は生かされている。

「君が無茶をする必要はないんだ。相手は魔法使いなんだよ」

「では、ジャスパーさんはどうするんですか? 向こうに報告して、他の魔法使いに頼むんですか?」

 彼は〈境界〉に入ることができない。できることは限られている。僕にも分かることだ。

「それしか、」

「ミライさんにこんなことをさせているのに、動いてくれると思います?」

 僕は畳みかける。

 ミライさんをこっちの世界に送り、危険な〈境界〉の調査をさせ、いざいなくなったら切り捨てる。そんな向こうの世界を信用できるはずがない。

 彼はため息を吐いた。

「……そうだね」

 ジャスパーさんは諦めたように上を向く。

「実は、今は僕個人で調べているんだ。ミライがいなくなって、僕もお役御免になった。魔法省から情報が入ってこなくなった」

 彼の目の下にできた大きな隈の理由が分かった。

 彼がミライさんを本当に大切にしていることは、今までの彼を見て十分に伝わっている。

「……後悔しているんだ。こんな危険なこと、本当はやらせたくなかった。たとえミライが納得していたとしても、自分の立場が危うくなってでも、反発すれば良かった。僕は、君みたいに〈境界〉に入ることができない。……君よりもできることは少ないんだ」

「……きっと誰でも〈境界〉に迷い込む可能性はあるんです。ただ、人によってタイミングや度合いがあるだけで」

「……分かったのかい? 何故、〈境界〉に入れるのか」

 はい、と目を閉じてゆっくりと頷く。

「マイナスの感情を持ったとき?」

「それもあるかも。でも、少し違います」

「……僕はそれを満たしていないのか」

「分かりません。明日入れるようになるかもしれません」

 それくらい曖昧で、きっとすぐに変動することだ。

「でも僕は、今のジャスパーさんは〈境界〉に入れないと思います。そうであってほしいんです」

「……一体、」

「自分の『存在意義』が分からなくなることです」

 ジャスパーさんの目が見開かれる。


 須々木出雲は、自分の目指している弁当と、娘から見た自分の情けなさに。

 梅咲雫は、周りが期待する自分像に応えられない恐怖、本当の自分が受け入れられない悲しみ。

 小柳とばりは、大人になったことによる責任と諦め、大切な人に裏切られ身動きがとれずに死んだ絶望。


「みんな、自分の居場所が、分からなくなっているんです。そして、そうさせたこの世界が嫌いになる。きっと、誰にでも可能性があるんです。そんなことでって思うことでも、本人からしたら重いことだったり、耐えられなかったりするんです」

 斜め下を見ながら言う。

 この世の理不尽に、僕たちは押し潰されてしまう。残念なことにそれはあまりにもいつも通りすぎる光景だ。世の中そんなことばかりで溢れている。

「……悠紀くんは何故、僕が〈境界〉に入れないと思う?」

 いつも僕に答えをくれる彼が、僕に答えを求めた。僕がこれから言うことは正解ではないかもしれない。僕が彼に向けている期待なのかもしれない。押し付けているものかもしれない。しかし、間違いなく僕から見えている彼の姿だ。

「あなたは、自分が必要であることを分かっているから。……ずっと、ミライさんの家族だから」

 自分の行動を後悔しても、それでも彼は、自分はミライさんにとっていなければならない存在だと自覚している。そういう強さを持つ大人だ。僕の身を案じて、非日常から遠ざけようとしてくれている。大人として、僕たちを守ろうとしている。ずっと、最初から。

「ああ……」

 彼は、僕の言葉に鼻をすすった。


「行ってくれるんだろう? ミライのところに」

 カウンター席に座ったジャスパーさんが、こちらを向かずに言う。

「はい」

「どこから〈境界〉に入るつもりだい?」

「学校に、この後行きます。きっと、夜なら入れます」

「〈境界〉に入って、ミライのもとまで辿り着ける保証は?」

「それは……」

 それを言われしまっては何も言えない。

 今まではミライさんが〈境界〉やカケラの魔力を察知していた。光って反応を示してくれる彼女のネックレスも、彼女と一緒に消えてしまった。

「人間の君だけで〈境界〉に行くのは自殺しに行くようなものだ」

「……」

 ジャスパーさんはまだ僕を引き留めると言うのか。

 彼は〈境界〉には入れない。一人でミライさんを探していたくらいだから、きっと〈境界〉に入れる他の魔法使いに協力してもらうこともできないだろう。それに、時間もない。明後日までに彼女を見つけなくては。

「……逆に考えれば、明後日までは無事だ」

「え?」

 ジャスパーさんが背中を向けて呟いたそれに思わず聞き返す。「悠紀くん」と名前を呼ばれて、「は、はい」と返事をする。

「〈境界〉には明日の夜に行きなさい」

「えっと、なんでですか?」

 彼は椅子をくるりと回転させてこちらに身体を向ける。

 いつもの優しい表情で、微笑んだ。

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