7月4日(木)‐03

(え?)

 意識が戻された。

 見た記憶が確かなら、目の前の彼女は?

 伸ばした手が、手首が、掴まれた。

 彼女だ。

 女性とは思えないほど強い力。生きている人の手だとは思えないほど冷たい。

 顔が見えた。

 ひどく、穏やかな微笑みと、冷たい目。

 彼女の口がゆっくりと開かれる。

「つかまえた」

 強引に手を引かれる。

「うわ!」

 ぶわりと夜空が広がる。

 視界が暗くなり、意識が飛ばされた。


  *


 横たわる身体を、一ミリでも動かすことができない。

 朦朧とする意識。霞む視界。

 冷えた夜の風が頬を撫でる。

 痛い。

 冷たい。

 アスファルトに倒れているから?

 刺されたから?

 血が流れているから?

 それとも。


(……虚しい、から?)


  *


 意識が戻る。

 彼女に少しずつ近づいていく。

 彼女の目の前まで腕を引かれていくこの時間が、スローモーションに感じる。

「こやな」

 言い切る前に、再び夜に連れ去られた。


  *


 いたい。

 さむい。

 さむい。

 さむい。

 こころが、さむい。

 涙が、静かに頬を伝った。


  *


 意識が戻る。

(やめてくれ!)

 もう見せないでくれ。

 この映像を、この記憶を、この感情を。

 目の前にある彼女の顔が、夜の隙間に一瞬だけ見えた。

 僕の思考を無視して、彼女はまた僕を呑み込む。


  *


 さむい。


  *


 戻される。


  *


 さむい。


  *


 戻される。


  *


 さむい。


  *


 戻される。


  *


 しんでしまえ。


  *


 ころされる。


「やめろっ!!」

 合間になんとか叫んだ。

 頭が痛い。

 このままでは殺される。

 彼女に、心が殺される。

「小柳さん……!」

 こんな形で知ってしまった彼女の名前。彼女は僕を呑み込むのを止めたが、ぎりぎりと掴む手は放さない。

 うなだれた彼女の瞳は、僕に水を渡したときのような優しいものではなかった。冷たく、鈍い色。まるで別人だ。

 僕と目が合っているはず。こんなに近くにいる。それなのに、彼女は僕を見ていない。

 黒い靄が、彼女を中心に渦巻く。彼女は靄に呑まれそうになっていない。彼女が、この靄を従えている。

 ゆらりと、彼女が動き、

「……っが!」

 小柳さんの手が素早く僕の首に伸びた。

 片手で絞められる。

 彼女の背後から、ぬらりとした黒い靄が大きく存在感を放つ。


 もう、やめてくれ。

 もう何も見せないでくれ。


 彼女はぶつぶつと何かを言っている。

 息ができない。

 酸素が回らない。

 意識が遠のく。


 朦朧とする意識の中、黒雲が、夜空が広がる。

 ――うらやましい。

 そんな声が、聞こえた気がした。


  *


 誰かの足元が見える。とばりを刺した人物ではない。茶色の靴を履いている。

「随分と大きな感情を持て余しているじゃないか」

 口元に、何かが触れる。

「次の満月に」

 視界がぼやけていてよく見えないが、青白く光っていることは分かった。

「――」

 何を、言ったのだろうか。

 口に何かを入れられる。

 もう、なんでもいい。

 どうでもいい。

 口に含んだそれを、飲み込む。

 そこで、途絶えた。


  *


 苦しくて、じたばたともがく。

 僕を掴んでいる腕を掴もうとする。掴めない。透き通る。

 彼女は掴めているのに、僕は触れることができない。

 緑色の光が視界に映る。ミライさんの魔法だ。彼女の流星が、小柳さんの身体を通過する。当たっていない。

「……っ!」

 何か言いたくても、何も言えない。

 僕の仕草で感じ取ったのだろう。ぎり、と首を掴む力を強める。

 拒絶しているようだ。

 何も聞きたくないと言うように、彼女は顔を歪める。

 生理的な涙が出る。

(もう、だめだ……)

 ぎゅっと目を瞑る。

 突然、ふっと、首にかかる圧が消えた。

 僕を立たせていたものがなくなり、膝をついて倒れる。

 酸素を取り込む。

「げほっ、げほっ」

 アスファルトに身体を預ける。……冷たい。

 回らない頭。喉を抑えながら咳き込む。

 しばらくして、ふらふらと、何とか立ち上がった。

 小柳さんが消えた。

 ここに溜まっていた靄も、最初からなかったかのように綺麗に消え去った。

 足が震えていることに気付いた。

 今まで危険なことはあった。〈境界〉に入って震えたこともあった。

 しかし、

(――怖かった)

 明確な悪意と殺意を向けられたのは初めてだった。人間の黒い感情を目の当たりにした。

 周りを見渡す。靄は一切見当たらない。空も雲一つなく、限りなく新月に近い三日月が姿を現していた。〈境界〉は消えたようだ。

 ミライさんがなんとかしてくれたのだろう。

(……ミライさんは?)

 彼女の姿が見えない。元の世界に戻ったということは、カケラを破壊したということだ。

 小柳さんの最後の記憶を思い出す。

 彼女が飲み込んだものは、きっとカケラだ。彼氏の浮気現場を目撃した彼女はマンションを飛び出し、通り魔によって殺された。意識が途絶える直前、何者かによってカケラを与えられ、〈境界〉を作り出した。

 ゆっくりとミライさんのもとへ向かう。小柳さんの記憶の、最後の場所へ。

 道を左に曲がる。電柱についた街灯の灯りが、薄暗くあたりを照らしている。

 その側に、ミライさんはいた。

 しかし彼女だけでない。

 どくり、と大きく心臓が鼓動する。

 道の真ん中に、血を流して倒れているスーツを着た女性。うつ伏せで横たわり、黒い髪は乱れている。背中から血を流しているのだろう、黒くなっている。周りには仕事用の鞄と、コンビニの袋、ペットボトルや煙草の箱が転がっていた。

 口元を抑える。

 初めて、人の死を見た。

 顔を見ることは、僕にはできなかった。

 ミライさんは倒れた小柳さんの前で屈みこんでいた。

「……ミライさん?」

 名前を呼ぶ。彼女の肩が大きく跳ねた。

「……」

 こちらを向かない。

「……カケラ、壊してくれたんだよね……?」

「……」

 何も言わない。

「……ミライさん?」

 彼女は立ち上がる。遠くまで転がった箒を拾い、僕の方へ。そのまま止まることなく、通り過ぎようとして。

 ぴたりと止まる。

「……それ」

「……え?」

「……首」

「……ああ、」

 首を絞めあげられているとき魔法が見えた。助けようとしてくれた。

「……跡になってる?」

 そう聞くと、首に手を伸ばされる。

 小柳さんに絞められたときのことがフラッシュバックし、身を固くしてしまう。ミライさんはそれを見て顔を歪めた。

「……っ」

 ミライさんは首に手をかけることはせず、指先を僕の喉元に当てた。

(震えている……?)

 彼女は下を向き、目を瞑る。眉間に皺を寄せる。思いつめたような顔をする。

(……ミライさんが、そんな顔しなくていいのに)

 彼女は、

「…………だいじょうぶ、だいじょうぶ……」

 と小さく呟く。

 そのままじっとしていると、首に当てられたミライさんの手が緑色の光を出した。ささやかで、柔らかい光だ。攻撃している魔法しか見たことがなかったので、こんなに優しい光を見たのは初めてだ。

 次第に光が弱まり、手が離れていく。

「……なに、したの?」

 顔に影をつくっていて、表情が見えない。先へ行ってしまった彼女を追いかける。

「治した」

「……魔法、使っていいの?」

「私のせいだから」

 無事に〈境界〉を、カケラを壊すことに成功したというのに。向こうから命じられたことをこなしたというのに。

 どうにもやりきれない。

「……ミライさんのせいじゃ、ないのに」

 僕たちは何とも言えない虚無感を抱えながら、解散した。

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