7月4日(木)‐02

 ベランダで煙草を咥える。カチッとライターに火をつけて煙草を吸った。

(……疲れた)

 仕事が忙しい。残業し、いいように使い倒され、夜にくたびれて家に帰ってくる日々。

(……なんで辞めないんだろ)

 何度も自分に問いかけている。

 慣れてしまったのだ。この環境に。

 新しい環境に身を置こうとする余力が、余裕が、ない。それに、お金がないと生活できないから。仕事に行かないと、稼げないから。こうして変化を望まずに、ずるずると現状を維持し続けている。

 ふとした瞬間に、子供の頃を思い出す。

 自分は何になりたかったのだろうか。あの頃の自分に申し訳なくなるほどに、自分は何者にもなれていない。

 小柳こやなぎとばりは、煙を吸って、ゆっくり吐いた。

 胸の中に、ずっと何かがあるのだ。

 若い頃には感じていなかった苛立ちや、不安、焦りが、ずっと胸に籠っている。どこにも行けなかった掃き溜めが。気持ち悪くて、何とかしたい。

 また、吸って、吐いて。

(何に、憧れてたっけ)

 煙を吸う。

 この毒が、消してくれるのではないかと、上書きしてくれるのではないかと思ってしまう。でもそんなのは錯覚だ。むしろ身体を悪くしている。

(さっさと消えてしまえ)

 吐き出した煙が空を登っていく。息を吐く、という行為を実感できる安心感。

 この気怠い感情も煙と一緒に出て行ってくれ。そして消えてくれればいいのに。そう思いながら夜の空に向かって吐き出す。

 そろそろ戻ろうか。

 ベランダから部屋に戻る。室内に匂いを付けたくないのもそうだが、同棲中の彼が煙草嫌いなのだ。それでもやめられないものはやめられない。やめられなくても愛してほしいという気持ちがあるのかもしれない。


 今日はいつもより早く退社できた。

 会社から出るときにスマホを確認すると彼から連絡が入っていた。何か晩ご飯を買ってきてくれ、というメッセージ。返信しないまま、帰路にあるコンビニに入る。駐車場には車が二台停まっていた。

 ため息が一つ。

(在宅勤務なのだから、自分で買えばいいのに)

 買い物とか、晩ご飯を作るとか、自分が家に着くまでに済ますことができるはずだ。全く家事をやってくれない、というわけではないがこういうことが多い。

(いやいや、彼も仕事があるのだから、勤務時間や場所が違うだけで条件は同じだ。それに、彼の方が疲れているのかもしれない)

 頭を振り、鬱憤を晴らす。

 彼を援護する自分が出てくる。納得する理由を無理矢理探しただけなのかもしれない。自分もご飯を食べるためには、買いに行かなければならないのだから。

 適当に弁当を二つとペットボトルの水を手に取りレジに向かう。レジで番号を言って、店員の後ろの棚から小さな箱を取ってもらう。

 袋もお願いします。温めますか? 大丈夫です。割りばしは付けますか? 二膳お願いします。

 短いやり取りを店員と交わす。帰路にあるこのコンビニは頻繁に使っているため、店員に顔を覚えられている気がする。

 ビニール袋を引っ提げて暗い道を歩く。大通りから外れた、街灯の明かりだけの。

 家々の窓から光が漏れている。どこからか煮物のような匂いがした。お腹が鳴る。自然と歩みが早くなる。

(早く帰って、食べよう)

 彼もお腹を空かせているはずだ。

 ビニール袋に目をやる。二つ重ねて積まれた弁当の上に、煙草の箱が見える。

 嗚呼、本当に、

「……かったるい」

 何に向けられた言葉だったか、分からない。


 マンションに着く。エレベーターを使い、四階で降りた。

 向かう先で扉が開く。一番奥、四○六。自分の部屋だ。

 我慢できなくてコンビニに行こうとしているのだろうか。すぐに出てくるだろう彼を想像する。が、その思考はすぐに打ち砕かれる。

 女が、出てきた。

 可愛らしい子だ。玄関先にいるのか、彼の声が聞こえる。

 ――そろそろ帰ってくるから。

 ――気を付けて帰って。

 ――また後で連絡する。

 ばたんと、ドアが閉まる。

 女が、こちらに歩いてくる。

 歩けない。息が、できない。

 女と目が合う。彼女は、ふわりと、微笑んだ。鈴が転がったような綺麗な声で、

「こんばんは」

 と言った。

 とばりは開いた口から声が出なかった。喉が、乾いていた。

 すれ違う瞬間。

 花の香りがした。香水の匂いだ。強すぎない、いい匂い。

 煙草の匂いを纏う、自分とは大違いな、香り。

 女がエレベーターのある方に曲がった途端、胸を抑えてしゃがみ込む。理解が追いつかない。

 最悪だ。

(……うわき、だ)

 なんでこんなことに。

(何が、いけなかった? 彼との時間を取れなかったこと? でも、自分の、自分と彼との生活のために、頑張っているのに)

 ぐるぐると思考が巡る。

(彼の分のご飯まで買って。自分が馬鹿みたいじゃない)

 知ってしまった以上もう無理だ。自分の性格上、見て見ぬふりはできない。帰ったら言わなければ。

(家は? 引っ越しは? 家族にはなんて言う? ……それに、)

 ずるずると現状維持をしてしまう自分にとって、この後のことを考えるのが億劫だった。

(……明後日も、仕事があるのか)

 冷静に考え、

(理不尽だ)

 その言葉が浮かぶ。

 壁にもたれながら立ち上がり、よろよろと階段を下っていく。鞄とコンビニ袋をしっかり持って。

 マンションを出て帰ってきた道を駆けていく。とは言っても、スピードは出ていなかった。ふらふらと、もつれながらも、何とか足を前に出していく。

 しばらくは家に帰りたくない。

(私が帰ってこなくて、せいぜいお腹を空かせていればいい)

 ささやかな、幼稚な抵抗だ。

 本当に、最悪だ。

 彼の裏切りに、腹の底から黒い感情が湧く。自分のこれまでの時間が、彼のために費やした時間と、お金と、気持ちが、全て無駄になった気がして。もう三十歳が見えてきているというのに。

 どれだけ大きなものか、きっと理解されていない。これだけのことをしてきたのに、お前が裏切るのか。

 どれだけ私の心が苦しいのか、理解されない気がした。それが、たまらなく悔しい。

 この気持ちを分からせるにはどうしたらいいのだろう。

 この感情を、彼に対する殺意を、実行に移せば分かってくれるだろうか。

(――ああ、もう、最悪だ)

 自分がどこに向かっているのかは分からない。目的なんて決めていない。朝と夜に往復する駅までの道を、適当なところで左に曲がった。

 痛い。

 心が、痛い。

 刃物でずたずたにされている気分だ。

 やっと涙があふれた。声を上げたかった。いつものように煙にしてしまいたかった。

 しかし、頭の隅でこんな時間に大声を出してはいけない、路上喫煙はいけないと囁いている。こんなときでも理性だけは働いていることが嫌だ。

 少しずつスピードを緩めて、止まった。

 はあ、はあ、と浅い呼吸を繰り返す。

「………ふぅー…」

 少しだけ、大きく息を吐き出してみる。

 肺が縮む。肩が下りる。

 見上げると夜空を覆い隠す雲があった。半分になった月の形が、光が透けている。

 煙のようで、綺麗だった。

(……あれがなくても、息、吐けるじゃん、わたし)

 もう遅いけれど。

 ――どんっ。

 人がぶつかってきた。前からではない。後ろからだ。

 一瞬、彼かと思い胸が高鳴る。

 背中に痛みが走る。

 顔を後ろに向ける。

 そこにいたのは彼ではない。知らない男だ。黒いパーカーを着てフードを深く被っている。

 男が離れ、去っていく。

 膝をついて、前に倒れていく。

 アスファルトの地面が近づく。

 冷たい、固い、感触。

 視界が暗くなっていく。身体から血が流れ、大きな血だまりをつくった。

 どうせなら、通り魔ではなく行方不明事件が良かった。

 ここではないどこかへ、連れ去ってくれれば良かったのに。

 ただ、それだけでいいのに。

(最期まで、最悪だ)

 ……神様、私は何か、悪いことでもしたのでしょうか。

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