7月4日(木)‐01
今日は〈境界〉に入る前の時間で、女性の帰宅ルートを調べることにした。コンビニ前から、まだ明るい道を真っすぐ行くと、マンションが見えた。途中、女性が最後に入る道もある程度のところまで進んでみたが、何も見つからなかった。
「あの部屋、行ってみる。彼女、同棲しているって言っていたから」
「ドアが開いたところ? あの人の部屋じゃないかもしれないよ?」
「それでもあの人が反応したんだからその可能性が高い。そうでなくても関係はあるはず」
四階の一番奥の部屋。四○六の部屋のインターホンをミライさんは鳴らす。
まだ夕方なので、誰かが住んでいるとしても仕事で留守にしているのではないかと思った。しかしそれは杞憂だったようで、すぐに男性の声で『はい』と応答があった。
そういえば、あの女性の名前を僕たちは知らない。僕がなんて言おうか悩んでいる間にミライさんは単刀直入に聞く。
「ここに女の人住んでません?」
さすがミライさんだ、ありがとう。
『……どちら様でしょうか?』
「知り合いです」
ミライさんは堂々と言葉を続ける。
「行方不明になったって聞いて来たんですけど」
『……そんな人いません。帰っていただいていいですか?』
「あ、待ってください」と言う前に男性はマイクを切ってしまった。
「うーん、住んでるのあの部屋じゃないのかな」
エレベーターに向かいながら話す。いっそのこと全ての部屋のインターホンを鳴らして聞いた方が早いのではないかと思った。
しかしミライさんは言う。
「インターホンに出た男の人、やっぱりあの人と住んでる人だよ」
僕はエレベーターの下のボタンを押す。
「なんで分かるの?」
エレベーターが四階に着き、乗り込んで僕は一階のボタンを押す。ドアが閉まり、下へと降りていく。
「本当に何も知らない人なら、『ここに女性は住んでいない』って否定するじゃない」
「あ、確かに、まず出てきた言葉が『どちら様でしょうか?』だったな。その時点で『いない』って言えばいいのに」
一階に着く。エレベーターを待つ女性がいて、僕たちが降りて入れ替わりにエレベーターに乗る。
すれ違うとき、いい香りが鼻をくすぐった。香水の匂いだろう。
「……」
「それに一緒に住んでいる人が行方不明になったのに勝手に引っ越しするとも思えない。まだ二ヶ月経ってないのだし」
ミライさんが何か話しながら、マンションを出ようとドアに手をかける。しかしその話を僕は聞いていなかった。僕は振り返り、エレベーターを見る。
「橘くん?」
ミライさんは僕を呼ぶ。
「待って」
エレベーター右横についているディスプレイに表示された数字を見つめる。
二階、三階、四階。
やっぱり、そうだ。
「どうしたの?」
「今の女の人、多分四○六に行った。〈境界〉でマンションから出てきた靄と、香水の匂いが一緒だ」
すれ違った女性を思い出す。茶色の長い髪を緩く巻き、綺麗に化粧をした可愛らしい人だった。
「今の人が、〈境界〉でもあの部屋から出てきた……」
ミライさんが呟く。僕より先に推測を言った。
「……浮気」
嫌な現場を見た。はあ、とため息を吐いて僕たちは今度こそそのマンションを後にする。暗くなったらまたコンビニの道まで戻り〈境界〉に入らなければならない。
「……あの人、〈境界〉に入った日に浮気相手とすれ違ったのね……」
いつにも増して声のトーンが低い。
行方不明になった日、あの人はマンションの廊下で自宅から出てくる女性を見た。浮気だと直感した。その場から動けなくなり、少ししてからマンションを後にした。取り乱し、おぼつかない足取りで。
そして〈境界〉に迷い込み、その日を繰り返している。
目撃したという決定的な場面の記憶を消されて、ずっと。
「〈境界〉から出れたとしても、……」
その後の言葉が出なかった。
ミライさんは僕の言葉が続かないと分かり、口を開く。
「あの人が気付くことが、あの〈境界〉の区切りなのかもしれない。だから私たちは戻される」
最後、彼女が走り去った後に何かがあるのだ。彼女が〈境界〉にいるという事実、現実ではないという違和感。繰り返している世界に気付くのだ。〈境界〉は彼女に気付かせないようにしている。靄を使って人間に見えるようにしたり、記憶を操作して彼女の時間を戻したりと、そうなるように動いている。雲に覆われた夜空から、抜け出せないように閉じ込めている。
やはりあの人が〈境界〉と紐づいている。
「じゃあ、カケラはどこに?」
「それは分からないけど……。彼女を追いかけた最後、戻される直前に一番気配が強くなった。あの人が、気付くタイミングをずらしたら〈境界〉に変化があるかもしれない」
これから会うあの女性はきっと知らない。帰ったら何があるのか。何が起こるのか。自分の身に何が起きているのか。
何も知らず、自分の家に帰ろうとする。
ただ、帰ろうとしているだけなのに。
「……僕が言う」
「いいの?」
僕は頷く。
どちらにしても伝える必要があるのだ。〈境界〉から出た後の、あの人のためにも。
*
「こんばんは。今日も会ったね」
「こんばんは」
「箒、四本目? よっぽどの掃除好きみたいね、君の叔父さん」
彼女はいつもと同じ格好でコンビニから出てきた。僕たちに笑いかける。同じ時間、同じ場所で毎日のように僕たちに出会うことを不自然に思っていない。それすらも〈境界〉によって介入され、彼女の中では違和感がないようにされているというのか。
三人で歩き出す。相変わらず車や人の通らない道だ。形を模した靄ですら通らない。現実でも通っていなかったのだろう。どこかの家の晩ご飯の匂いが鼻をかすめた。煮物、だろうか。そういえばこの匂いがする場所も同じだ。一回目は鼻が詰まっていて気付かなかったが、それ以降はこの匂いがした。
女性は仕事の愚痴を漏らしている。マンションに着いてしまう前に、言わなければ。
「あの、」
「ん?」
「お姉さん、あのマンションの四○六に住んでます?」
「そうだけど、言ったっけ?」
見ず知らずの僕に、彼女は声をかけてくれた。具合が悪そうだからと、心配して。水までくれた。
「……」
こんなにいい人に、残酷な真実を伝える。なかなか言い出せない。でも彼女が直接見て気付く前に、僕たちから伝えた方が傷つかないかもしれない。
「お姉さんと付き合ってる人、」
「……うん?」
彼女は言葉が詰まる僕を、優しい顔で待ってくれる。
僕は意を決して口を開く。
「……浮気。してるかも、しれません」
「…………え?」
彼女は言葉を失う。すかさずミライさんが語りかける。
「若い女の人があの部屋から出てくるの、私見たの」
ミライさんが見たものは正確には靄だが、間違いではないだろう。
「多分今日もその女の人、行きましたよ。エレベーター四階で降りたのを僕見たので……」
正直これだけの情報で、彼女が信じるとも思えない。
しかし、彼女は見たはずなのだ。〈境界〉に入る直前に、あの出来事が起こったはずなのだ。
思い出すきっかけになれば、それでいい。
女性は目を見開いて、「そんな、」と呟く。
じわりじわりと、足元に靄が現れる。
来た。
〈境界〉の中心に、彼女がいる。
「……ああ、……」
彼女が唸る。
手に持っていたバッグとビニール袋を落とす。袋の中から二人分のコンビニ弁当と割りばしが二膳、ペットボトル、そして煙草一箱がアスファルトの上に散らばった。
両手で頭を抱えた彼女は「……ああ、ああ」と呻く。
「……ああ、ああ、そうか……」
うつむく。目にかかってしまうほど伸びっぱなしになっている前髪のせいで、彼女の瞳がよく見えない。しかし、口だけが小さく動き何かを言っているのは分かる。
「……そうだ、そうなんだ……」
僕とミライさんは後ろにじりじりと下がり、彼女から距離を取る。
本来彼女が知るタイミングではないときに僕たちが気付かせた。それがこの〈境界〉にどのような変化をもたらすのかは分からない。また強制的に戻される可能性もある。
「……、……はは、そうだったね……」
ぶつぶつと何かを言っていた彼女が、急に乾いた笑いを零し、ぴたっと止まる。
「……思い出した」
今まで大人しかった靄が、どこからか大量に吹き出す。
「うわ!!」
前から強風が吹き、両腕で顔を覆う。
ああああああああああああああああああああ!!
叫び声と風の音がこだまする。
「ミライさん!」
彼女の声と風に負けないように大声で叫ぶ。
「大丈夫!」
ミライさんはすぐ横にいた。
飛ばされてしまいそうな勢いの靄に、前に進むのがはばかられる。前が見えなくて靄がどこから噴き出しているのかが分からない。
「橘くん! 一瞬、前消すから!」
ミライさんはそう叫ぶと同時に魔法を放ったらしい。緑色の眩しい光と共に、目の前の靄が一瞬晴れた。目を薄めてその瞬間に何とか前を見る。
靄は彼女の周りに渦巻いている。
すぐに新たな靄が視界を塗り潰した。
「ミライさん! あの人が呑み込まれる!」
僕は風に逆らって、足の裏を地面に付けながら前に進む。
ミライさんも声を張り上げて返す。
「何かおかしいの! 靄は彼女の方から出ているのに、カケラの気配はない!」
「でも、彼女が!」
「……っ!」
悲痛な叫びだけが聞こえる。姿は見えない。黒い靄が彼女の感情のようだ。激しさは止まない。彼女の声は泣いているようでとても苦しそうで。僕は顔を歪めた。
女性に近づいていく。靄が冷たく鋭い。真冬のように寒い風は僕の身を切り裂くように吹き抜ける。鞄についたお守りが、緑色の光を放つ。ミライさん本人も僕を襲う靄を払ってくれる。
彼女の姿が見えた。靄の中心に立つ彼女は頭を抱えてふらふらとしている。
「お姉さん!」
手を伸ばす。
早くその場所から引っ張り上げないと。
そう思って。
彼女に僕の声が届いたようで、ぴくりと反応する。
動きが止まった。
彼女が顔を上げ、僕を見――。
「!」
青白い顔だ。
大きく見開かれた目。
虚ろな瞳。
〈境界〉にいるときの須々木さんや雫さんも、同じ目をしていた。
彼女は、僕に手を伸ばす。
すると、目の前に夜空が広がった。いつものだ。沢山の星が目に入る。夜空が見えないこの〈境界〉で初めて目にする星だった。
暗闇が僕を覆う。
浮遊感に包まれ、僕の意識はどこかに行った。
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