6月12日(水)‐01
「あのお店はよく行くの?」
珍しくミライさんから話題を出した。
放課後、喫茶『街角』で彼女と合流して商店街に向かっている最中のことだった。
「たまに行くんだ。昨日もたまたま、あそこで夜ご飯を買おうとして。なんで?」
「いなくなった人のこと、よく知っているみたいだったから」
「よく知ってるわけではないけど……。まあ、うん。顔は覚えられてる」
「いつもありがとうな~」とか、「もう夏休み入った?」とか。注文時や弁当を渡されるときに一言二言、言葉を交わす程度で、別に彼のことをよく知っているとは言えない。現に昨日、奥さんの話を聞いて須々木さんも落ち込むのかと思った。同じ人間なのだからそれはそうなのだが、彼は細かいことは笑って吹き飛ばすくらいの気構えなのだ。
彼との初対面、つまり僕が初めて『すすきの手作り弁当屋』で弁当を買ったときのことを思い出す。
「入学式の次の日にあそこで初めて弁当を買ったんだ」
真新しい制服に身を包んで、注文した弁当が出来上がるの待っていたあの時間を覚えている。
「唐揚げ弁当が自慢の店なんだよ」
「それは知ってる。旗に書いてあった」
店前に設置されているのぼり旗のことだろう。
「すごく美味しいんだ。アジフライも好き。おすすめだよ」
「ちゃんと常連じゃない」
たまにと言った割りにメニューについて詳しい僕に、彼女はそう返した。確かに、と笑う。もう気付けば一年以上が経っているのか。一カ月に一度行くか行かないかくらいの頻度なので常連という意識がなかったが、少しずつでも確実に増えていく回数と時間の流れが、僕を常連たらしめていた。
家族にしか共有したことがなかったあの店の良さを、話し始めたら誰かに伝えたくなった。
「ミライさんも食べてみるといいよ」
言ってから気付く。彼が作った弁当をもう食べれないかもしれない。
「あー……、」
それを言おうか迷って、うつむいた。
弁当の味を思い出して、少し寂しくなった。まだ彼が無事ではないと、決まったわけではない。それなのに嫌な想像をした。
僕の心情を知らないミライさんは、相変わらず表情を変えずに「ふーん」と返す。
「じゃあ、助けないとね」
ぱちくりと目を瞬かせる。
僕の歩みが止まる。
ミライさんがそんなことを言うなんて。当の彼女は何も気にせず進んでいく。
それが当然であるかのように迷うことなく出た彼女のその言葉に、僕はふはっと笑った。
「……助けたい」
絶対に助けると言い切れる力も自信も僕にはない。口から出たのはただの願望だ。それでも音になった決意は、これから〈境界〉に入る僕の弱気な心を吹き飛ばすには十分だった。
*
『すすきの手作り弁当屋』の看板が見えてきた頃、世界が夜になった。
〈境界〉だ。
弁当屋の中でないと〈境界〉に入れないのではないかと懸念していたが、範囲が広いようだ。
頭の上では月と星が瞬き、僕たちがいる地上では街頭や店の電気が辺りを照らしている。シャッターは閉まっていない。深夜のような空と静けさなのに、開店している状態なのが違和感だった。それでいて中に人が一人もいない。
景色が元の商店街とは違う。ただ、ひたすらに真っすぐ一本道だ。横に反れる道路がない。この先の終わりが見えないくらいに店が立ち並んでいる。後ろを振り返っても来た道は覚えのないものになっていて、商店街出入り口のゲートが見えない。前方と同じようにずっと商店街が続いている。道の隅にはところどころに黒い靄がうごめいていた。
「あれ、弁当屋がない」
弁当屋の看板が見えているところまで来ていたはずだった。この世界に入った途端見えなくなったことに気付く。
驚く僕に、ミライさんは、
「もっと奥なのかもしれない」
と言って歩き始める。
僕も身を引き締めて彼女の後に続いた。普段は栄えている商店街の真ん中を、僕たちは歩く。二人分の足音だけが響いていた。
僕がミライさんやジャスパーさんの協力者になって初めての〈境界〉だ。今までは巻き込まれる側だったが、今回は違う。ミライさんと一緒にカケラを探して壊さなければならない。
「元の世界とは違う地形になるんだね」
「そうじゃないときもある。でも共通しているのは夜ということと、人がいないということ」
僕が〈境界〉に迷い込んだときは人もいなかったし、街や家の灯りが一つも点いていなかった。それに、何故か山から下りることができなかった。世界と世界の間にできた歪み。それが〈境界〉だ。それならば地形が変わることもあるだろう。
延々に続く商店街をそのまま道なりに進んでいく。カケラを探すも何も、進む先がこの道しかない。靄の濃度が増し、視界も一層暗くなる。
「靄が濃くなってきた。危なくなったらすぐに走って戻って」
ミライさんはこちらを見ずに言った。あれに対抗する手段を持っていない僕は迷いなく頷く。
「これ、襲ってこないの?」
僕は彼女と初めて会ったときと、何故靄の様子と違うのか。商店街の〈境界〉に入ってから思っていたことを口に出した。
「襲ってくるときと襲ってこないときがあるの。中心部――カケラがあるところね、そこだと大体襲ってくる。多分、カケラが壊されないように守ってるんだと思う。だから敵対視されると攻撃される。そういうものなのか、知能があるのかは分からない」
もう道の全体が靄に覆われている。コンクリートが靄に透けて見えるか見えないか。靄はこの先、進行方向から流れて来ているようだ。彼女は「もう近いから、気をつけて」と僕に念押しする。
すると、目的のものが前方に見えた。僕は指でさす。
「あれ、弁当屋……!」
右側に『すすきの手作り弁当屋』と書かれた看板が見えた。店の前にはのぼり旗も置いてある。風一つ吹いておらず静かに佇んでいた。弁当屋の自動ドアが開けっぱなしになっている。足元に流れる靄は、明らかに弁当屋の中から絶え間なく溢れ出ていた。
「ゆっくり近づくよ」
声を潜めてミライさんは言う。道の右側に寄って、音を出さないようにそろりそろりと近づいていく。
一つ手前の店まで着き、彼女が壁を背にゆっくりと身体を出して中の様子を窺う。
「……誰かいる」
「……須々木さん?」
「分からないけど、多分。男性」
彼女は顔を引っ込める。
そうだ、彼女は須々木さんの顔を知らないんだ。しかしこの世界でこの弁当屋にいるのは彼しかいないだろう。彼が無事であることが分かり、ひとまず安心した。
これからどうするの?
僕が聞く前に、彼女が言った。
「行ってくるから、ここで待ってて」
「……え? いいの?」
彼女は僕の発言に眉をひそめる。
「あなたが行ってもどうにもならないでしょう。それにあれを刺激したらどうなるか分からないんだから」
「それもそうか……」
「あなたは〈境界〉に入れるから連れてきただけ。外で何か異変があったらすぐに私を呼んで。襲われたら何も言わなくていいから逃げて。私がカケラを壊したらあなたも元の世界に戻ってこられるから」
いい? とこちらに有無を言わせないような言い方だ。その圧に僕は頷くことしかできない。実際この世界で彼女だけが頼りである。
「わ、分かった」
「じゃあ、行ってくる」
彼女は恐れなどないような様子で、髪をなびかせて弁当屋に入っていった。
瞬間、店の中が緑色に光った。
僕は隣の店の壁際から動いていないので、ここからだと中の様子がほとんど見えない。眩しくて目を細める。
その光は三秒ほど光り続けて、少しずつ消えた。
カケラを見つけ出すことはできたのだろうか。前と同じなら今の魔法で靄を散らせただろう。しばらくすればミライさんがカケラを破壊し、世界が昼間に戻るはずだ。
待っていると。
ガシャアアアアン。
大きな音が聞こえた。店の中からだ。
「なんだ!? ……うわ!」
弁当屋の出入り口から、大量の靄が溢れ出した。靄は左右に流れていく。その勢いにバランスを崩しそうになり、腰を低くして耐える。空気中の霞みも濃くなった。
中で何が起きている? 僕は顔を出して中を見ようとする。
するともう一度、靄が噴出した。何かが吹き飛ぶ。
ミライさんだ。
「ミライさん!」
静かにしていろと言われていたが僕は思わず叫んでしまった。
彼女は身体を少し浮かせ、向かいの八百屋まで吹き飛んだ。体勢はそのままだったので片膝をついて着地する。今の衝撃で彼女の周りや通った場所の靄が左右に散り、跡をつくった。靄はすぐにその隙間を埋めるように広がり、元の状態に戻る。
僕は駆け寄ろうと一歩前出たが、彼女にキッと睨まれ固まった。
「逃げて」
聞き取りづらかったが彼女は僕を見て、確かにそう言った。
そして彼女はすばやく立ち上がり、再び店の中に走っていく。入口付近で止まった彼女が少し見えている。今度は緑色の光が一回、二回、三回と、弱く細かく刻むように放たれた。
彼女の前から強い風が巻き起こっており、髪とスカートが後ろになびいている。ビュオオオと風の音がし、風に乗って靄も流れていく。
逃げる? この状況で?
僕は彼女の忠告を聞かずに、店の中を確認するため近づく。店の外観、右半分は弁当のメニュー表が貼られている。ポスターとポスターの間、弁当のメニューの隙間から、中の窺う。
さっきは咄嗟に頷いたが、いざこうなるとすぐに飲み込める話ではなかった。彼女を信じていないというわけではない。しかし、ここから離れてしまったら、世界が元に戻るまでは彼らが無事なのか分からない。それに一度も中の様子を見ていない。今の状況が分からないままなのが何より怖い。
ミライさんが優勢なら、それでいい。そう思いながら、僕はチカチカと散らす火花に目を細めながらも中を確認する。
靄が発生している源は、広くない店内のカウンターの前にあった。出入り口が左側にあるので、入って前方右側だ。ミライさんの身長よりも高いところまで、その靄の塊は地面から伸びていた。
球体ではなく、カケラから噴き出した靄が、カケラを中心にして滝のように地面に流れる。曖昧な形をしている。
ミライさんは二メートル程先にあるそれに向かって両手を掲げ、魔法を放つ。
何故、一発目のように強力な魔法を使わないのか。
その理由はすぐに分かった。
カウンターの手前側にいる須々木さんが、塊のすぐ左横に立っているのだ。彼よりも高い靄を正面にして。彼の身体に靄がまとわりついている。一歩も動かない。もう、彼の目と鼻の先に暗闇があるというのに。
朝桐は意識を失って倒れていたがそうではない場合もあるのか? 起きているのに、なんで逃げないんだ?
ミライさんはそんな彼に、攻撃が当たらないようにしていた。靄の中心部に魔法をぶつけながら、須々木さんに伸びる靄に向かって繊細に魔法を放ち削っていく。
目の前で起きている状況に汗が伝った。
すると、
(……あっ)
須々木さんが半歩、前に出た。
出した左足が、左半身が、靄に埋もれた。身体がこちらに向く。
彼の顔が見えた。
伏し目がちだが、目は開いている。その瞳に光はない。
黒い靄を映しているように思えた。
「くっ……!」
ミライさんが食いしばる。彼女は懸命に靄を削っていくが、須々木さんが自分から靄に入って行ってしまえば為す術はない。
須々木さんの右足が動く。前へ出た左足に追いつくように、地面から数センチ浮かせて前へ運ぼうとしている。
それより先に、僕が前に出た。
「須々木さん!」
開いている自動ドア。その前に敷かれたカーペット。靄で見えていなかったが、足の裏で踏みしめ、蹴った感触があった。斜めの角度から店に入る。
入ってすぐの場所にミライさんがいる。ぶつからないように、その狭い隙間を通る。走った勢いのまま壁に当たりそうになる。左壁際にある、注文待ちの客が座る椅子のある壁。そこに左手をついて勢いを殺し、逆に反動をつけて靄の方向に身体を切り替える。右手を伸ばす。
須々木さんの身体は半分以上見えていなかった。彼は体の重心を前に出して、右足を前に出していて――。
掴んだ!
須々木さんの右手首を、全身が暗闇に沈む寸前のところで捕らえた。僕の右腕にも靄が伸びる。
彼の腕に触れた瞬間、ぶわりと、眼前に夜空が広がった。砂埃のように、紙にインクがにじむように。触れた瞬間、化学反応が起きたように、急激に。闇の奥に星々が瞬いているのが見え、目を見開く。
「――!」
後ろで彼女が何かを叫んでいる。しかし僕には何を言っているのか分からなかった。
この感覚を、僕は知っている。デジャヴだろうか。
声が聞こえてくる。誰の声だろう。
そう、これは、須々木さんの声だ。
僕の意識がどこかに飛んだ。
映像が、観えた。
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