6月12日(水)‐02
「美味いもん食べて、元気になれよ」
それが父親の口癖だった。
実際、美味しいものを食べると元気になった。父親の作る唐揚げが、一番好きだった。
須々木
(みんな、そうなんだ)
と思った。自分と同じような気持ちになっている様子を、小学生の頃は毎日のように見ていた。そして父親もとても嬉しそうで。
小学校の卒業文集、将来の夢の欄に、『弁当屋』と書いた。高校を卒業してすぐに家の仕事を手伝うようになったので、あの文集に書いていた同級生の誰よりも早く夢が叶ったのではないか。
十数年経ち、出雲は結婚し、子を授かった。その間に父親は他界し、母親も病気で入院することになる。
店と、父親の意思は出雲が継いだ。
――映像が切り替わる。
何を見ているのだろうかと、ここではない遠い遠い場所でなんとなく思った。
『すすきの手作り弁当屋』の店内。
見たことある場所だが、見たことのない光景だ。
自分の意識がはっきりしない。身体が動かない。無重力空間に投げ出されたような浮遊感。目の前で起こっていることを見ているだけで、自分としての脳の思考が上手く機能していない。
カウンターに出雲の妻がいる。髪を後ろの低いところで一まとめにし、店の看板と同じ色である淡い黄色の三角巾とエプロンをつけている。彼女は目の前にいる五十代後半の女性にビニール袋を渡す。おそらく弁当が入っている。客はそれを受け取りながら話しかけた。
「昨日も美味しかったよ、ご馳走様! 旦那さんにも伝えといて~」
「ふふ、いつもありがとうございます!」
常連客のようで、おそらく買いに来るたびにこのように感想を言い残しているのだろう。それを聞いて妻は嬉しそうに微笑む。
すると、客のよく通る声が聞こえてきたのか店の奥から出雲が出てくる。
「山本さん今日もありがとうございます!」
「あ、須々木さん、今日もいただきますね~」
胸の奥に温かなものが広がる。その言葉で今日も頑張ろうと思えた。
忙しいながらも客とのコミュニケーションを大事にする穏やかな空間。客を見送って、出雲は晴れやかな気持ちで仕事に戻っていった。
――俯瞰した視点だが、これは彼だ。自分の声は出せない、感じない。が、彼の声が、彼の気持ちがよく分かる。
これは一体なんだ?
昼間のピークを過ぎた頃、妻に代って店番をする。いい天気だ。気温はまだ肌寒いが春の日差しが外の道を照らしていて、外が暖かそうだ。
外を通った人影が、店の前で止まった。しかし中には入ってこない。どうやら外のメニュー表を見ているようだ。いつでも迎えられるように背筋を伸ばす。
ガラス越しに外にいるのは男の子だ。近所の高校の制服を着ている。ちらりと見えた表情がなんだか暗いことが気になった。
少しするとドアが開いた。
「いらっしゃい!」
「こ、こんにちは」
少年は控えめに返す。どうやらまだ注文は決まっていないらしい。カウンター下に並んでいる弁当のレプリカを眺め始める。若い子が真剣に弁当を選んでいてとても微笑ましい。初めて来る人だから、種類が多くて決められないのかもしれない。
「悩んでるのか?」
急に声をかけられて少年はハッと固まる。少年は「えっと……、」と口ごもって、
「どれも美味しそうで。あの、おすすめとかありますか?」
と言った。店員に話しかけられるのをあまり好まない客もいるが、どうやら大丈夫なようだ。
「そうだなぁ。うちは唐揚げがおすすめだな。あと魚が好きなら今日のおすすめ弁当。今日はアジフライだ」
「どっちも美味しそうですね。悩むなぁ」
少年は唐揚げとアジフライの弁当を見比べる。困ったように笑っているが、幸せな悩みだ。
――見覚えがあった。
カウンターから話かける須々木さんと、膝に手をつき少し屈んだ体勢で悩む少年。
これは僕だ。
でも、僕の記憶ではない。
「もしかして新入生か?」
出雲はカウンターに両腕を置き、身を少し乗り出しながら話を続けた。
「はい、昨日入学式でした」
「お、入学おめでとう! ……にしては暗い顔してるが」
友達ならこれからできるから心配するなよと付け加える。
「いえ、友達なら中学一緒だったやつもいるんで。クラスは別れましたけど」
「ならどうした?」
あー、と少年が目を斜め下に向けてから、また笑う。
「高校生活、他の人と同じように僕は楽しめるのかなって、考えてしまって」
「まだ若いのに、そんなこと考えるんだなあ」
そうだな~、と須々木は考える。
「学校生活ずっと楽しいと思えるのはなかなか難しい思うぞ? 部活とか、友達と話す十分休憩とか、俺はそのために学校行ってたな。好きな時間、一つ見つけるといい」
ずっと楽しいとは思うことは難しい。こうやって好きな仕事をしていても、そう思うこともあるのだから。
少年は目から鱗といった表情になる。
「僕の想像する高校生はいつも楽しそうだったので。そういうものなんですかね」
案外、他の人も自分と同じで楽しくないと思っている時間も多いのかもしれない。見えていないだけで。
「もちろん、ずっと楽しい人もいるだろうしそれに越したことはないんだけどな。おじさんは勉強が嫌いだったから……」
苦笑いして自分の高校生活の思い出を振り返る。それでも楽し気な笑いが顔ににじみ出てしまうのは、自分の言う“楽しい時間”がそうさせているのかもしれない。
少年は弁当を選ぶために屈めていた身を起こした。
「ありがとうございます。僕も学校で好きな時間見つけてみます」
少年は今日のおすすめのアジフライ弁当を買った。五分ほど店内の椅子で待っていてもらう。少年の弁当を用意している間に、予約していた客が何人か来店したので弁当を渡す。
しばらくして少年の弁当が出来上がった。
「アジフライ弁当のお客さん、お待たせしました~!」
無料の味噌汁を案内する。初めて使うようで、少年は味噌汁サーバーのボタンを恐る恐る一押し。カップに味噌汁が注がれるのを眺めていた。味噌汁のカップに蓋をして、カウンターに置かれた自分の弁当のビニール袋に入れようとすると、弁当と一緒に薄黄色の紙袋が入っていることに気付いた。
「おまけの唐揚げ。入学祝いに」
思わず顔を上げ、出雲の顔を見る。
「おっと、家内には内緒だぞ? 怒られちまうからな」
でも唐揚げの一個や二個でこの少年が少しでも嬉しい気持ちになるのなら安いものだと思った。
「え、あ、ありがとう、ございます」
思いがけないプレゼントに驚く少年の手から味噌汁が入ったカップを取った。一緒に袋に入れ、横にならないように袋を縛る。「忙しいときはこんなことできないけどな、今は空いてるから」と言いながら。新しい環境に身を置く少年を応援したいと思ったのだ。
「あの、また来ていいですか?」
「もちろん。日曜祝日が定休日だ。ぜひまた」
弁当を手渡す。そして、いつものように笑顔を向けた。
「はいよ、ありがとうございました!」
――ああ、この時間が、彼の好きな時間なのかもしれない。
そのときの僕はそう思った記憶がある。
「ありがとうございます、いただきます」
少年はそれを控えめな笑顔で受け取り、店を出ていった。出雲は手を振りながら、少年の高校生活が良いものでありますようにと願った。
――これは僕の記憶じゃなくて、須々木さんの記憶だ。これは僕のではなく、彼の感情だ。
場面が変わる。
「おい、ふざけんな!!」
怒号が店内に響き渡った。居合わせた客がビクッと硬直し、こちらの様子を窺う。五十代の男性が声を荒げていた。
「くそ不味いもの食わせやがって!!」
「た、大変申し訳ございません」
「店長呼べ、店長!!」
妻が懸命に謝るが、勢いは収まらない。その男性の迫力に客たちは萎縮していた。
ただならぬ事態に出雲が顔を出す。
「どうした?」
「あなた、こちらのお客さんが」
困惑した表情を浮かべる彼女の声に被せて、ダンッとカウンターが叩かれる。大柄な男性だ。出雲より背が高い。
「ここで買った弁当がよぉ、くそ不味かったんだ。金返せよ」
威圧してくる客に、これはまずいと思い、なだめるためにカウンターから出て客の横まで行く。
腐っていた、火が通っていなかった、異物混入していた。そういうことは起きないように細心の注意を払って調理している。だが万が一、そういうことが起こってしまったなら申し訳ないし、相応の対応をさせてもらう。
しかし彼の口から出てくるものはあまりにも具体性がなかった。不味かった。だから金を返せ。
正直、いつの弁当かなんて検討は全くつかない。不味い弁当なんて作った覚えはない。常連はいつも美味しいと言ってくれている。もし、弁当に何か異常があったなら、何があったのかを教えてもらえれば良いのだが。ただ、この人の口に合わなかっただけ。彼の言い方だとその可能性もあった。
しかしこちらが悪くなくても店側の対応としてまずは謝らなければ。と、思って。
出雲は頭を深く深く下げる。
「大変、申し訳ございませんでした」
分かっている。
何度も経験したことがある。よくあることだ。
どんなにこちらに非がないと思っていても、心を無にして、この場を収めるのだ。
「そのお弁当やレシートはお持ちですか?」
一旦、向こうと話ができる状態にしなければと思い、できるだけ角が立たないように問いかける。
出雲の考えの通り、先ほどまでは大声で怒鳴っていた男性の声色が一瞬落ち着いた。
「んなもん捨てたよ」
心がスッと冷める。
吐き捨てるように言ったそれに、出雲は顔に出そうだったがグッと堪えた。更に質問をするが、
「いつ購入したものでしょうか? 日にちや時間などは、」
「そんなん覚えてるわけねえだろ!」
言い切る前に、また声を荒げられる。
目の前の男は吹っ切れたように、こちらに唾を飛ばしながら暴言を吐き続ける。
会話ができない。おかしい。
交わされる言葉が噛み合わない。丁寧に慎重に選んだ言葉がいともたやすく、平然に薙ぎ払われる。
そもそもここで買った弁当なのかも怪しくなってきていた。
出雲は負けじと、相手の台詞の間を縫って声を出す。
「でしたら返金するわけにはいきません。お口に合わなかったのなら、もうご利用していただかなくて結構ですので」
更に、怒鳴り声が店に響いた。男は顔の赤みは怒りだけではないのかもしれない。アルコールの匂いが鼻をかすめる。酔っているのか。常連客が心配そうに見ているのが男の肩の向こう側に見えた。
「ですから、返金は無理です。もしお身体に異常が出るようでしたら、」
「ふざけんじゃねえよ!」
ああ、埒が明かない。ここで返金すれば場を収めれることができるかもしれない。しかし一度その対応をすれば味を占めてまた同じ手口で来店される可能性がある。ここだけは譲ってはいけない。懸命に頭を下げ、お引き取り願う。下手に出ているのがいけないのか、男は高圧的な態度をやめない。
すると、
「……っ」
バシンッ、と叩く音が店内に響く。先ほどカウンターを叩いていた音とは違う。自分の背中に衝撃と痛みがあった。すぐに、頭を下げた自分の背を男が殴ったのだと分かった。
妻の悲鳴と、いつの間にか来ていたのか山本さんの「ちょっと……!」という声が聞こえた。
「これ以上は他のお客様に迷惑です」
出雲は声を張り上げる。
「警察に連絡させていただきますので、そこで話しませんか?」
そう言うと、文句を言いながらも帰っていった。
やましいことがなければ警察が来てから話し合えばいいのに、分が悪いという自覚はあったのだろうか。手を出してしまったという自覚があるのか。
店内は時間が止まったように静まり返っていた。
「……いや~、困っちゃいますね。はっはっはっ」
少し大げさに笑うとピンと張り詰めていた糸がようやく緩んだ。何事もなかったように客は動き出す。それでも空気はいつもより重い。念のため、警察にも連絡した。
こういう人間もいるものだ。しかし分かってはいても、こちらも人間だ。店員でも、同じ人間だ。意思がある。嫌な気持ちになるし、落ち込むこともある。会話ができない相手には精神がすり減らされる。
「……みんなが元気になる弁当を目指してるんだけどなあ」
今日は災難だった。それで片付けてもいいくらいのものだった。しかし、最近の売り上げのこともあり引きずった。あんな客の言ったことでも、「美味しくない」は堪えるものがあった。
自分は父親がいた頃の店を維持することができているのだろうか。親父が目指した店にできているのだろうか。
その日の晩、妻は出雲に言う。
「追い払ってくれてありがとうね。怖かったから」
彼女は分かっている。出雲が傷ついていたことを。気にしていたことを。
彼女の気遣いがじーんと心に響く。
しかし、ちょうど自分の部屋から出てきていた娘の美雲は二人のその会話を聞いて不思議そうな顔をした。寝る直前のようだ。
「お父さん悪くないじゃん。なんで謝ったの?」
その声には棘が含まれている。
美雲に反抗期はまだ来ておらず、むしろ出雲と仲が良い。そんな彼女が出雲に対してこの態度をとるのは珍しかった。
それに、どうして今日のことを知っているのか。疑問に思ったが、確かあの客が来ていたのはちょうど学校が終わった時間だ。美雲が帰宅したときに目撃したようだった。
子どもにあんなものを見せてしまって申し訳なかった。怖かっただろう。
だから安心させるように、
「仕方ないよ。お父さんは大丈夫だから」
そう言うと、
「そうじゃない」
眉間に皺を作りながら、
「だっておかしいよ」
あの客のことを言ったと思った。しかしそれに続いた台詞は。
「お父さんらしくないじゃん。あんなのに頭下げて、情けない」
一瞬、呼吸を忘れた。
美雲は早足に「おやすみ」と自分の部屋へと戻っていった。
静かになる部屋。洗い物の水と食器の音だけが鳴る。
美雲は、おかしいのは出雲だと言った。悪くないのに謝る姿を見て、何故謝るのか、と。
「美雲にはまだわからないわよ」と、洗い物を済ませた妻が困ったように微笑みながら出雲に言う。出雲も同感だ。しかし、子どもから見たら不思議でたまらないだろう。大人になってしまった自分は、その違和感に気付かなかった。あのときの最適解が今となっては分からない。あれ以上のものが思いつかなかったのだ。
(……なんて、情けない)
自分の父親のあんな姿、見たくなかっただろうに。
――美味しいものを食べて元気になれよ。
父親の言葉を思い出した。
美味しい晩ご飯を食べた後のはずなのに、今はそんな明るい気分にもならなかった。沈んでいく気持ちを晴らすことができないまま、出雲は眠りについた。
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