6月12日(水)‐03

「橘くん!!」

 ハッと意識が戻る。

 彼女はずっと叫んでいたらしい。こんなに張り上げた声を出す彼女は初めてだ。

 僕の手は須々木さんの手首を掴んでいた。彼の身体はもう半分以上が闇に沈んでいる。こうしている間に、靄も身体を覆いつくそうとしていた。僕の身体ごと。

 彼は重心を前に出しており、手を離したら一瞬でこの靄の中にすっぽりと入ってしまうだろう。僕は足腰に力を入れ、彼の腕を両手で掴んだ。そして、綱引きのように僕の重心を後ろに傾けていく。

 これは、まずい。

 僕の身体も闇に引っ張られていく。ずりずりと、ローファーの裏が摩れていく。須々木さんの身体は僕が掴んでいる腕しか見えない。

 再度体勢を整え須々木さんの腕を力いっぱい引っ張った。

「須々木さん、須々木さん!」

 暗闇に入ってしまった彼の耳に届くかは分からないが、届いてほしくて声を上げた。僕の声が暗闇に吸い込まれていく。

 店内が緑色の光に照らされている。店の中に突っ込んできてから一度も振り返っていないのでミライさんを見ていない。しかし背後から輝くそれによって彼女の位置が分かっていた。ミライさんの魔法によって僕に絡んでいる靄が相殺されていく。守ってくれている。

「須々木さん、しっかりして!」

 先ほど見たものが、感じたものが僕の中に残っている。

 辛そうだった。いつも元気をくれる須々木さんが、こんなに悲痛な思いをしている。

「須々木さんのお弁当、いつも美味しいです!」

 弁当だけじゃない。須々木さんの言葉で僕は。

 おそらく意識がない彼に話かけ続ける。伝えたいのだ。

 嫌な未来が脳裏に浮かぶ。このまま彼を引き出せないまま手が放れてしまう未来を。須々木さんがいなくなって誰よりも辛いはずなのに、子どもの僕たちに心配をかけないようにと、悲しみを隠して微笑んでくれた奥さんを。お父さんがいなくなったのは自分のせいなのではないかと、自分の発言に後悔し泣き続ける美雲ちゃんを。彼が消えてしまったら、美雲ちゃんは何も言えないままだ。残された二人のことを想像したくなかった。

 彼がいなくなった弁当屋に買いに来る僕を想像した。もしかしたら、店を畳んでしまうかもしれない。美味しいものを食べさせて、僕に元気をくれたこの人が、この人たちが、この店が。

 なくなってしまうのが嫌だ。

 そう思うと、僕のこの手にどれだけのものが懸かっているのかと、汗が噴き出た。手汗で滑る。

 駄目だ。

 放すな。

 絶対に。

 力を込める。

 息を大きく吸って、

「僕はあなたのおかげで好きな時間を見つけた!」

 須々木さんが言っていたことを僕も覚えている。

 楽しくない時間はある。

 学校で好きではないものは数学と生物だ。テストもだ。そもそも勉強に熱意を感じられない。得意不得意でムラはある。帰宅部で勉強する時間があるから致命的な点数を取らないだけで、飛びぬけて高得点を取るわけでもない。部活もしていない。何かに熱中するみんなを見ると、何とも言えない気持ちになる。

 しかし好きな時間ができた。朝の教室が好きになったのは高校生になってからだ。

 自転車ではなく徒歩で登校するのも、早朝の通学路をゆっくり歩くのが好きだからだ。明るくなったばかりの空の下、澄んだ朝の空気を吸い込み、爽やかな外気で肺の中をいっぱいにすることが好きだ。

 友達と話す、くだらない、中身のない、けれど充実したその時間が楽しい。

 嫌なことはたくさんある。理不尽に押し潰されそうになる。上手くいかないことばかりで、くじけそうになる。それでも小さな“楽しい”を見つけるようになったのは、誰のお陰だったか。

 まぎれもなく、須々木さんのお陰だ。それを知ってほしい。伝えたい。

「戻ってきて! 須々木さん!」

 叫んだ瞬間、ずるりと須々木さんの身体が勢いよく出てきた。

 僕は反動で後ろに傾いた。須々木さんは地面に倒れる。

 須々木さんが出た衝撃で塊の靄が散乱する。中央に青白い光。カケラが、見えた。

 ごちっ。記憶の中で僕が座っていた椅子に頭をぶつけた。

「~~~っ!」

 頭を抱えて声にならない声を上げた。痛すぎて涙がにじむ。

「っ、ミライさんっ!」

 カケラが見えたその瞬間を、ミライさんは見逃さなかった。僕が叫んだのと、彼女が魔法を打ったのは同時だった。その鋭い光は的確にカケラを捕らえ、弾き飛ばす。核を失った靄はその場にとどまり続けることができずにぶわりと散って、消えた。消えなかった靄は空中に漂い出す。飛ばされたカケラが店内の壁に当たって、ころころと足元に転がってきた。ひびが入っているようだ。

 ミライさんはそれを拾い上げる。パキン、と高い音と共に粉砕し、やがて消える。魔力を流したのだろう。

 すると、弁当屋にいたはずの僕たちは〈境界〉に入ってきた場所である、商店街入り口に戻ってきた。

「……も、戻った」

 先に続く道の上、店と店の間から見える空は青い。洗濯をした後のような白い雲がいくつか、遠くに見えた。〈境界〉が、消えたのだ。

 急な明るさに眩しくて、賑やかで。でもそれにひどく安心した。

 何もないところから姿を現した僕たちを二度見する通行人が何人かいた。それに僕は〈境界〉にいたときの、地面に腰を下ろした体勢のままだ。隣に立つミライさんに、「こ、転んじゃった~、あはは……」と言って、その場を適当に誤魔化す。

 不思議に感じながらも見間違いと思ってくれたようで通行人は歩みを止めずに去っていく。僕もすぐに立ち上がり、ズボンに付いた砂を手で掃った。


  *


 ちゃんと須々木さんが帰ってきたのかを確認するために、僕たちは弁当屋に行った。僕たちは裏に回り、昨日通されたドアの前まで来た。須々木さんを呼ぼうとして、やめた。中から音が聞こえたからだ。「お父さん!」という声が聞こえたから。

 結局彼らには会わずに僕たちは帰路についていた。彼が〈境界〉から帰ってきているのであればそれでいいだろう。

 商店街を抜けた頃、僕は大きく息を吐いた。

「はあぁぁ~~~……」

〈境界〉にいるときは必死過ぎて気にならなかったが、相当な緊張状態にあったようで。足がかすかに震えていることに気付く。

 なんとかなってよかった。本当に。

 須々木さんを無事に連れ戻せたこともそうだが、家族との再会を思うと心からそう感じた。

 歩みが遅くなった僕に気付いた彼女は立ち止まって待ってくれる。ごめん、と足を前に運ぶ。彼女はゆっくりでいいと言ってくれた。

「あなた、頭も打ってるんだから」

 ミライさんに言われて後頭部を触る。大きなたんこぶができている。しかしこれだけで済んだのは良い方ではないのだろうか。見た目に傷はないし。

 こうして協力者になってから初めての〈境界〉を、無事に解決することができた。

 これを、ミライさんは今までは一人でやっていたのか。斜め前を歩く彼女の白い髪を眺める。今までは〈境界〉に迷い込んだ被害者としてしか彼女の姿を見ていなかったが、同じ目的で行動するようになって、実感する。やっぱり、彼女はすごい。こんなに危険なことを、僕が彼女の秘密を知るまでの一か月間、ずっと。

 先ほど見た須々木さんの記憶を思い出す。彼は客との「ありがとう」「いただきます」という時間が好きだった。

「ミライさん、ありがとう」

 ミライさんに言いたいと思った。お礼を言うのは当たり前のことなのだけど、須々木さんのそれを見たからか家族との再会を見たからなのか、なんだか尊い言葉のように感じた。

「何が」

「助けてくれたから?」

「別に対したことしてない」

「でもミライさんが呼んでくれなかったら僕も駄目だったかもしれない」

 ミライさんは足を止める。彼女の一歩先で僕も立ち止まり、彼女を見た。彼女は僕を鋭い目でこちらを射貫く。初めて見るその目に、ぴしりと固まってしまう。

「自分の身を優先するって、最初に叔父さんも言っていたはずよ」

「あ……」

 喫茶『街角』での三人で交わしたいくつかの約束事。今後、魔法を使えない僕が調査に行くにあたって決めたこと。その一つを、彼女が僕に突き付けた。

「それは、申し訳ないと思うけど」

 須々木さんを、助けたかったから。

 そんなの結果論でしかないことも分かっている。一歩間違えれば僕と須々木さんは二人とも死んでいた。五体満足で靄から抜け出せたなんて、美談でもなんでもない。

「私たちのやるべきことは〈境界〉を消すこと。その結果を向こうの世界に報告できなければ犯人へは近づけない」

 それはつまり、

「人を助けるのは目的じゃないってこと?」

「……私に与えられた任務は、そう」

 そう言う彼女の声には、いつもの真っすぐな芯が通っていないように感じた。

「でも、僕は、迷い込んだ人を連れ戻したくて」

 彼女と出会った夜を思い出す。僕を救ったのは目の前にいる彼女だ。

 利害が一致していると思っていた。けれど、少しずれているその部分が顕著になった。

「あなた、あのときどうしたの」

 神妙な顔つきで彼女は問う。

 あのとき。

「私が呼んだときのこと」

 彼女が僕を呼んだとき。

 そう、確か、あのとき、

「……何か、見えたんだ」

 あの感覚を思い起こそうとする。ふわふわと意識が漂う感覚。僕の身体はあそこにはなかった。目を覚ますまで僕の意思はどこにもなかった。でも、見たものに何かを感じて、須々木さんの感情を自分のことのように味わって。

 あの体験を、言葉にすることは難しかった。

「一体何が見えていたの」

「よく分からないけど。……夢、みたいな」

「……あのときのあなた、様子がおかしかった。急に動きが止まって、呼んでも反応がないし、呑み込まれていくのに抵抗してなくて」

「須々木さんの、記憶、なのかな。でも、声も聞こえた。不思議な感覚だった。ミライさんも知らないの?」

 そんなの聞いたことがない、と彼女は考え込む。彼女が分からないことを、僕が分かるわけがなかった。

「そもそも〈境界〉に入れる人は多くない。私のように現地で調査している魔法使いは少ないし、そのまま帰ってこれなくなる人もいる。わざわざあんな状態のカケラに近づこうとする人なんて、普通いない」

「なら余計に感謝しないと。ありがとう」

 彼女は何も言わずに歩みを再開させる。何か気の障ることを言っただろうか。

「それにしても、今まで何も聞いてこなかったけど魔法ってすごいな。もうだめかと思ったよ」

「何度も言っているけど、あなたにとってはすごくても、向こうの世界では魔法が当たり前だから」

「そうかもしれないけどさ……」

 向こうの世界。魔法が当たり前の世界なんて、アニメや漫画のようだ。

 当たり前でも、彼女が誰かを救う力を持っていて、実際にそれに助けられた人がいて。そう簡単にできることではない。それなのに、彼女は僕からのお礼の言葉を受け取ろうとしない。

 無事に解決したというのに、ミライさんは重苦しい苦い表情をしているように見える。何か話題はないかと考え、須々木さんと自分の記憶が交わった部分を思い出す。

「ミライさんは、向こうの学校ではどんなふうに過ごしていたの?」

「向こうでも同じよ。こっちと対して変わらない」

「そ、そっか……」

 いつにもまして冷たい。

 どうやら話題を間違えたようだ。こっちと同じということは、ミライさんは前の学校でも一人だったのだろうか。

「ごめん、怒らせた?」と謝るが、「別に何も」とあしらわれてしまう。

 少しの沈黙。

 この空気を断ち切ったのは意外にもミライさんだった。

「橘くん」

「何?」

 向こうから話しかけてくることは少ない。本当に何か用があるときくらいだ。

「やっぱりあなたを〈境界〉に連れていくのは間違っていた」

「え?」

 思わず立ち止まる。彼女は振り向かずに先を進んでいく。

「今後は一人で行くから」

「え、ちょ、ちょっと……!」

 彼女は早足で進んでしまう。震えが収まった足で駆けていき、彼女に追いつくが隣に並ぶことができなかった。そのため彼女の表情が見えない。

 一体何がいけなかったのだろうか。

 いや、理由なんて、彼女から見たらたくさん出てくるはずだ。

 僕が調査に加わることに最初から反対していた。調査は一人で問題ないと言っていた。昨日、〈境界〉がある可能性を報告しただけで、僕はそれまでは何もできていなかった。彼女は〈境界〉を消すことが目的で、僕の目的はそうであって、けれどそうではなかった。僕がいたから助けないといけなくなった。〈境界〉から帰ってきた後の僕を見て、情けないと思ったのかもしれない。

 足手まといでしかないのかもしれない。実際、僕自身でもそう思う。だから受け入れざるを得なくなってしまう。しかしその一方で、心の中では彼女がまた危険なところに一人で行こうとするのか、と心配してしまう。きっと僕の心配なんか、彼女にとっては不要なのだけれど。それでも手伝いをしている以上、連れて行ってほしいとも思う。

 それに――。

 もんもんとした胸の内を吐き出す前に、彼女との別れ道に来てしまった。

「それじゃあ、今回のことは私が叔父さんに報告しておくから。お疲れ様」

 彼女はそれだけ残して帰ってしまった。僕が「また明日」と言うのを待たずに。

 ――それに、〈境界〉を消すことだけが大事なら、僕たちを助けなくてもよかったじゃないか。

 彼女の背中をしばらく眺めてから翻す。

 聞きたいこと、言いたいことを飲み込んで、僕も自分の帰路に着いた。

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