この星屑を口にして
KaiRa
Ⅰ.境界
6月3日(月)
『私たちは星屑でできている』
僕は教室に入ってまず、後ろの黒板にチョークで書かれたそれを読んだ。
天文学者のカール・セーガンの言葉だそうだ。その横には『私たちの身体をつくる原子は星からきている。私たちと宇宙は深い関わりがあるんだ!』というコメントがポップな吹き出しで囲われていた。
(星屑かぁ)
僕は自分の身体を見下ろし、右手を胸に当てる。六月に入り衣替え期間になったため、ブレザーはもう着ていなかった。白いYシャツに、首元からぶら下がる橙色のネクタイ、グレーのズボン。掌には一定のリズムで刻む鼓動が伝わる。
夜空に点々と浮かぶ星と、自分の身体。
イコールで結ぶには、あまりにも距離が遠くていまいちピンとこなかった。この言葉の真意はきっとそういうことではないのだけど。
僕は革製のショルダーバッグを下ろし席に着く。廊下側から三列目、前から三番目。早朝の教室の真ん中に、一人だけ。部活動もないのにこんなに早く来る生徒はいないだろう。用事なんてないけれど、いつもこの時間に来ている。
本を取り出し、栞が挟まっているページを開いた。
読書は暇つぶしのために始めた趣味だ。動かず、自分だけで完結し、時間を忘れさせるから。
もちろん物語は楽しい。しかしそれ以上に、自分の意識を現実から切り離して没頭できるという理由が主だ。
吹奏楽部の楽器の音や、外からは運動部のかけ声がかすかに聞こえる。三十分もすると無音だったこの空間に一人二人と生徒が増えていく。昨日のテレビのことや今日の授業についてを静かにぽつりぽつりとする会話が耳に入ってきた。
次第に廊下が賑やかになり、立て続けにクラスメイトが教室に入ってくる。部活の朝練が終わったのだ。一気に教室は騒がしくなり、見慣れた光景となっていく。
朝は憂鬱だと言う人は多いだろう。でも僕は、この時間が心地良い。
いつもの情景はさておき、手元では物語が目まぐるしく展開していた。どんなに高い壁に当たっても、どんなに理不尽なことがあっても、彼らは必死に食らいつき、頭を使い、葛藤し、精一杯生きている。
ふと、我に帰ることがある。自分の行動に疑問を持ってしまう。何度も同じ問いをしている。だって僕は何も変わっていない。
ああ、またこの感情だ。
僕は思わずきゅっと目を瞑る。
インクでできた彼らに向けられた、この気持ちに合う言葉を、名前を見つけられない。
いや、本当は知っている。
自分のことだから、よく知っている。でも、見つけてはいけない気がして。
「おはよう!
名前を呼ばれてぱっとそちらに顔を向けた。中学からの友人である
演劇部の朝練があったようで、ネクタイを外した制服の上に、学年カラーである青色のジャージを羽織っている。彼もまた、情熱の中で生きる人間だった。染められた明るい髪色が蛍光灯に照らされている。上げられた口角によって細められた釣り目気味の丸い目。その左目の下にある彼のチャームポイントのほくろが空高くに浮かぶ星のようで、先ほどの天文学者の言葉を思い出した。
「おはよう、朝桐」
本を閉じる。
あの感情がなかなか引いてくれなくて、そんなどうでもいいことを考えた。
「あ、悪い、読んでたよな」
「いや、目疲れてきたから。大丈夫」
「だから読みながら寝てたのか~!」
「寝てないってば」
けたけたと朝桐が笑い、それに釣られて僕も笑う。
「そうだ、悠紀。これやるよ」
彼はジャージのポケットから何かを取り出しこちらに拳を向けた。僕は手を出す。渡されたのは飴だった。ソーダ味だ。
「ありがとう、後で食べるよ」
「いいってことよっ!」
飴を鞄の中にしまう。朝桐にこの飴をもらうのは四度目のことだった。
話しているともう一人こちらに近づいてきた。クラスで一、二を争う高身長。さっぱりとしたとした黒の短髪と眼鏡。ネクタイを外し茶色のニットベストを着た彼は、低く落ち着いた声で「おはよう」と、僕の机に手をついた。
「おはよう」
「よっ、
「見せねえぞ」
「頼むってぇ!」
懇願する朝桐と、土日あっただろと呆れながらも自分の席に向かう
「やったぜ、サンキュー!」
朝桐もノートを取りに自分の席に戻っていく。窓際の後ろから二番目の席。軽い足取りで向かう彼の姿を見送る。今日も一日が始まったなぁ、と実感が沸いた。
視界の隅に、白色が見えた。
背中の中ほどまで伸びた白色の髪をなびかせ、彼女は教室後方の扉から窓際の一番後ろの席へと真っすぐ歩む。右側を分け目にした前髪は外に跳ねており、きりっとした目元と緑色の瞳が特徴的。この国にはなかなかいない容姿。しかし近くにいた生徒たちはチラリと彼女を確認するだけで会話を止めない。彼女も気に留めずに無表情だ。
(僕も答え合わせしてもらおうかな)
何十分も座っていた椅子を離れ、菊永の席へ。始業まであと五分しかないけれど。彼女に反応しないのは僕も同じだ。
チャイムが鳴り席に戻ると、先に着席していた左隣の席の
「やっほー、
「阿水さんおはよう」
センター分けにした長い前髪と、外に跳ねた栗色のボブカット。八重歯をのぞかせた笑顔。男子のネクタイよりも赤みのあるリボン。グレーのスカートは腰に巻き付けたベージュ色のカーディガンで大半が隠れている。部活帰りの夜に着るのだろう。快活な彼女とは特段に仲が良いというわけではなかったけど、よく話しかけてくる。なんなら先週の中間テスト最終日に行った席替えで、初めてちゃんと話すようになった。友達が多い彼女にとってはこれが普通なのだろう。
担任が来て朝のHRが始まる。今日の連絡事項をぼんやりと聞き流す。最近、多発している行方不明事件の話だった。どうやらまた近くで起こったらしい。一昨日、会社帰りの女性が行方不明になったと聞いて、確かニュースでやっていたなぁと思い出す。怖いねーと小声で話しかけてくる阿水さんに、そうだねと返した。
暗くなる前に帰るようにと注意喚起をした担任は話題を別に移す。進路という単語を耳が拾った。進路希望の提出日が来週であることを聞いて、プリントが入ったクリアファイルを机の中から取り出す。空欄のままだった。名前すら記入していない。
(早く、書かないと)
そうは思うのに、書く気が一向に起きないで今日になっている。将来のことに向き合いたくなくて、文字通りの現実逃避をしている。それを繰り返している日々だ。
今だけを考えて生きたい。そうさせてほしい。
切実にそう願うのに、そうはさせてくれないのがこの世界だ。このまま学校に行って、友人たちとふざけて、笑い合って。何にも熱意を持っていない、目まぐるしい日々を駆け抜けているわけでもない。青春と呼ぶにはきっと物足りない。でも、僕はこの瞬間だけを考えていたい。この感情との折り合いの付け方を、僕は知らない。
*
全ての授業が終わり、廊下には部活動や帰宅しようとしている生徒で溢れていた。
朝桐は「また明日なー!」と遠くから手を振り教室を駆けて出ていった。笑って送り出し、僕は菊永の席へと向かう。
「あ、橘。じゃあなー」
「今日部活あるんだっけ」
「あるよ。どうした?」
菊永は写真部だ。大分前から写真が趣味なようで、貯め込んでいたお年玉で中学のときに一眼レフを購入したらしい。学校行事では大きなレンズを取り付けて、グラウンドに寝そべりながらカメラを構える姿を目撃することができる。
「何もないんだけど暇だったから。いつも暇ではあるけど」
「あー。部室来るか?」
話しながら教室を出る。
人数少ないし、たまに部員以外のやつもいるから何も言われねえだろと誘ってくれるが、僕は大丈夫だと首を振った。さすがに部活の輪に加わるのは少し申し訳ない。「悪いな、また誘ってくれ」と言う菊永に、「いや、こちらこそごめん。部活頑張って」と言い返し階段で別れた。
教室で本を読んでいてもいいが、基本的に他の部が使用するので退いてあげたいのだ。結局図書室に行き、朝で止まっていた本の続きを読む。昨日借りたばかりの本だが、もう後半へと差しかかっていた。途中、今日出た宿題を思い出して取りかかったり、次に読む本を探したりしていた。
気付けば二時間くらい経っていた。十八時前。外は明るい。夏が近づいてきている。最終下校時刻までもう少し時間はあったが、部活帰りの生徒で賑わう前にと、僕は読んでいた本を切り上げて席を立った。
*
校舎を出て、自分の家とは逆の方向に向かった。
坂を上がっていく。学校の裏側はちょっとした山になっている。といっても中腹までは道路はちゃんと舗装されていて、たまに住宅が立ち並んでいるので険しくはない。
日が傾いてきていた。暗くなる前に帰れという担任の言葉が頭をよぎるが、少しくらいなら大丈夫だろうと自らを納得させた。
この先、道路がカーブする。木々が開けており、上から自分たちが住む街を見下ろすことができるのだ。ガードレールの手前まで近づき、日が沈むのをゆっくりと待つ。
夕日や夜空を見るためではない。そんなにたくさん星が見えるわけでもない。
僕が見たいものは街だ。
徐々に空の明るさが失われていく。このまま真っ暗になるのではないかという不安に駆られる。しかし、次第に明かりが点々と灯っていくのだ。否、最初から明るいはずなのだ。ただ、世界が暗くなるから人工の灯りが見えるようになるだけ。暗くなってから灯る街灯もあるが、家の灯りは人の気配だ。空に浮かぶ星も暗くなれば視認できるようになるという点で同じだけれど、僕にとってはこっちの方が親近感があった。
それを見ると、ほっとした。その一つ一つが人々の営みであると実感して。勝手に思いを馳せている。
日が落ちて暗くなっていく風景をただただ突っ立って見ているだけなのだが、飽きないのだ。むしろ流れる時間は自分の生活とは全く別物で、余計なことを考えず心を空っぽにしたいときにはうってつけだ。
なんか、いつも同じことをしてるな、僕。
自分の行動原理に苦笑する。今日の散歩で見つけたことはそれかもしれない。
まだ空には青色が残る。太陽が背中側に沈んでいき、徐々に橙色になってきていた。沈む日の光が雲に当たり、濃い影をつくっている。
僕はもう少しガードレールに近づこうと一歩前に出て、
「……あれ?」
おかしい、と、すぐにその異変に気付いた。
急に暗くなったのだ。視界が、道が、木々が。
僕の目の前には、夜空が広がっていた。
きょろきょろと周りを見渡す。
いや、つい数秒前は青とオレンジの空だったはず。日差しの暑さを感じていた。だが今は少し肌寒い。それに。
浅くなった呼吸を、胸の鼓動を抑えながら、確かめる。
ガードレールの向こう側。この崖の下。
一番の違和感に目を向ける。
(停電……?)
見下ろした街に、灯りが一つもついていない。
歩いている途中に大きな地震でも起きて、頭を打って気絶していたのか? そう思ったが、完全に真っ暗なわけではなった。
もう一つのおかしな点。
夜空を見上げる。
そこには無数の星が輝いていた。美しくも恐ろしいほどに。
街の灯りがないにしても、こんなに星が見えるわけがない。月がこんなに大きいわけがない。丸くてほのかに青白く光る、月。
「ゆ、ゆめ……?」
白昼夢。幻覚。
そんな単語を頭の中で羅列した。それにしては、シャツをまくった腕を撫でる、涼しい空気や伝う汗、息遣い、感情の起伏が、やけに現実味を帯びている。
よく知っているはずなのに、知らない場所だ。あまりにも急で、一瞬の出来事で、脳が処理できていない。
そうだ、スマホ。そう、見ず知らずの場所でも無事に目的地にたどり着けるのはこれがあるからじゃないか。初めて降り立った土地でも不安にならないのは、帰れる術を持っているからだ。
僕は鞄の中からスマホを取り出し電源をつける。画面に映し出された時刻は、確かに見覚えがある数字だった。僕が坂を上がっていたときより、数分進んでいるだけ。
やはり気絶なんかしていない。本来この時間はまだ明るいはずなのだ。自分の身に置かれた状況が異常であることを突き付けられ、すぐに地図アプリをタップする。今、自分のいる場所は。
その期待はすぐに打ち砕かれる。圏外だ。電話も、駄目だった。
なんとなくそんな気がしていた。だって、神隠しなんてフィクションでよくあることなのだから。
しかしこれは僕自身に起きたこと。落ち着いてなんていられるわけがない。スマホの画面を消し、ぱっと後ろを振り返り歩き出す。歩いてきた道を下っていく。
(おかしい……!)
進んでも進んでも正しい道に出ない。それどころか元の場所に戻ってきてしまう。焦りが募っていく。
「誰か、いませんかー!」
大声を出しても返事は帰ってこない。まるで、この世界に僕一人だけ取り残されてしまったみたいだ。
広い広い、輝く空の下で。
あまりにも孤独だ。
(おかしい、おかしい、おかしい……!)
夢なら覚めてくれ。
だんだん駆け足になる。何度も道を曲がっても知っている道に出ないし、住宅や街灯は一つも灯りが点いていない。山を下る道は途中まで一本道のはずなのに。
この山を、下れない。通学路に戻れない。
「――はあ、はあ、はあ」
閑散とした夜の空気に自分の足音と切れた息だけが響く。
(もしかして、このまま僕は帰れない?)
ついに考えないようにしていた最悪のことを考えてしまう。
寄り道なんてしないでさっさと帰れば良かった? こんな、わけもわからないところに迷い込むなんて。
もうどのくらい走っただろう。数分か、数十分か。とても長く感じるけど実はそんなに経っていないのかもしれない。悠久の時を感じる。
走る足が疲れてきてスピードを緩める。それでも駆け足で道なりに進んでいく。止まったら、この状況に耐えられずに足が動かなくなってしまうのではないかと思って。わずかに残った心が僕の足を動かした。しかし。
この寂しい世界が脳を侵食していたのかもしれない。
(……これはもう、諦めろってことなのかも)
走る足は明らかに少しずつ遅くなっていった。足が重い。だんだん息が詰まっていく。黒い
そんなとき、それは唐突にやってきた。
道の向こうから白色が現れた。
(なんだ?)
この世界で初めて見るものだ。
暗闇の世界で、色なんて正しく判別できていないかもしれないが。とてつもない速さで、地面から浮いているそれはこちらにやって来る。
それが目の前に来るまでに自身の足に止まれと命令することができなかった。そのくらい、あっという間に僕の目の前まで来た。
――エメラルドグリーンだ。
目を見開く。
彼女も驚きの色を、緑色の瞳に浮かべた。彼女は浮いた状態で飛び込んできた。箒に乗っていたのだ。それにまたがっている、僕と同じ高校の制服を着ている彼女。振り落とされないように、両手でしっかりと柄の部分を握って。
「え!?」
一瞬の出来事だったはずなのに、その一瞬が鮮明に目に焼き付いた。
止まったと感じていた世界が動き出す。
そのまま僕と彼女は衝突した。
「うわああああ!」
勢いよく後ろに尻もちをつく。ぶつかった彼女は僕の後方に転がっていった。
何? 何がぶつかった?
「いてて……」
頭を抑えながらゆっくりと上半身を起こす。
彼女も箒から墜落し、痛そうに身体を起こしている。
彼女は転校生だ。特徴的な髪色、そして一瞬だけ交わった瞳の色はこの街には彼女くらいしかいない。いや、待て。彼女は、飛んでいた?
「え、えっと、大丈夫!?」
まず僕の口から出たのはそれだった。
重症そうだと思っていた彼女は、僕より先に素早く立ち上がる。結構盛大に転んだと思ったが、服が汚れたのと多少の擦り傷くらいで大怪我はしていないようだ。
彼女はすばやく周囲を確認し箒を拾い上げ、ずかずかと黙って僕の目の前までやってきた。無視をされなくて安心したのと同時に、僕が置かれている現状を思い出す。
(やっと、この世界で人に会えた!)
そう安堵したのは束の間、
「うわ!」
彼女は僕の手首を引き無理やり立ち上がらせた。
手首を掴んだまま走り出す。
「え、え、なに!?」
「いいから走って!」
「は、はい!」
二人分の走る足音が響く。
なんだ。何が起きているんだ。
意味が分からないと思いながらされるがままに手を引かれる。彼女の足は速かった。
手を放さないまま前を走る彼女が、チラチラと後ろを確認している。そういえばぶつかるときもかなりの速度だった。何かあるのかと思って、僕も顔だけ後ろに向かせてちらりと見てみる。
暗い暗い、夜道に何かが動いているのが見えた。
(……なんだ?)
暗くてよく見えない。手を引かれているとはいえずっと後ろを向いているわけにもいかず、何度か後ろを振り向き目を凝らす。ずっと走っているのに、同じ間隔で何かがいる。否、距離が近くなってきている。
“何か”が、追いかけてくる。
黒くて、もやもやとした、何か。
(靄……?)
先ほどから目にしていた黒い靄だ。それが追いかけてくる。
嫌なものだと直感した。あれに捕まってはいけない。捕まったらどうなるか分からないが、そう思った。
前に視線を戻すと、僕たちが向かう先にも靄がいた。
「あ、危ないっ!」
僕が来た道を引き返しているはずだ。その道が、靄が、霧のように真っ暗で、壁のように充満している。前方からの大きな靄の塊が、僕たちに向かってくる。
僕の前を走る彼女が先に当たってしまう。
しかし彼女は、スピードを緩めずに靄に突っ込んだ。
(ぶつかる……!)
思わず目を閉じた。
「自分で走って!」
彼女の声が聞こえた瞬間、掴まれていた手首が放れていく。
「ええ!?」
躓かないように、一度固く閉じた瞼を開いて自分で足を動かす。
暗闇が広がっていると思った。しかし開いた目にまず飛び込んできたのは眩しい光だった。
雷のように、チカチカと。緑色の火花が散る。
その光は右斜め前を走る彼女の前から出ていた。僕を掴んでいた左手を前に真っすぐ伸ばす。右手で箒を持っていたため、僕の手を放したのだろう。向かってくる黒い靄に左手を振りかざしていく。緑色のキラキラとした光が手のひらから放出され、黒い靄とぶつかった。ぶつかった光と靄は拡散し、粒となって消えていく。打ち消し合う。そうやって、道を切り開いていく。
この不思議な世界で、不思議なことが起きても何も驚かなくなっていた。まだどこか、現実ではないのではないかという気持ちがあるのかもしれない。
僕はとにかく彼女の側から離れないように走り続ける。彼女に出会う前からずっと走っていたため足が疲れている。それでも置いて行かれないように必死に足を動かす。さっきまであった諦めはなくなっていた。考える余裕すらないほどの輝きなのだ。
黒い靄が開けた。
彼女が急に速度を緩めて足を止める。
そこは僕が最初にいた場所だ。
道路のカーブ。ガードレールの先の、一望できる街。一つも明かりがついていない暗い暗い家の並び。
その情景の前に、一段と深く濃い黒色の靄が渦巻いていた。
僕は自分の足を瞬時に止めることができず、急に止まった彼女を追い越してしまう。
このままでは靄に突っ込む。
「うわ……!」
右腕がまた掴まれた。ぐいっと強い力で後ろに引かれ、放される。彼女の後ろに再び引き戻された。僕は姿勢を崩し、後ろに倒れ込みそうになるのをなんとか耐えた。
僕と入れ替わるように彼女が数歩前に出る。
「あ、ちょっと……!」
束の間。
彼女はひときわ輝く光を放った。
この空の星のように、細かな光の粒子が彼女の手から、真っすぐと渦巻く靄に向かっていく。
光が靄に当たる。当たった点から外側にぶわりと広がり薄まっていった。一瞬で光が貫通し、黒い靄が嘘のように消え去った。
「……ま、ほう」
思わず口から零れる。
コン、コン。
黒い靄があったその場所に、何かが落ちた。ここからは遠くて何かは分からない。小さい何か。青白くほのかに光っている。
彼女がゆっくりとそれに近づいた。今度こそ彼女を呼び止めようと右手を上げかけたが、彼女は迷いなくそれに近づき、かがんで拾い上げた。それを持っている左手を目の高さまで持っていく。
――パリィン。
高い音が鳴った。
「……はっ」
夕焼け空が頭上に広がった。
一瞬で、変わった。夜になったときと同じだ。橙色がまだ残る空。夜の気配が近づいている。
僕は駆け出して、彼女の横を通り過ぎる。街を見下ろす。人工的な光が目立ってきていた。
「……も、戻った?」
いつもの景色を前に、目を見開く。自分がいた場所は、一体?
僕は振り返る。彼女は汚れた制服を手で掃っていた。
「ねえ、」
「忘れて」
「え?」
「今見たことは忘れて」
僕が何かを聞く前に、彼女は遮ってぴしゃりと言い放つ。そして呆然とする僕を置いて坂を下って行ってしまった。
「な、なんだったんだ……」
何も分からないまま、僕も帰るために坂を下っていく。彼女の姿はもうなかった。
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