6月4日(火)

「ミライ・ステラです」

 彼女は一か月前に転校してきた。

 ブレザーとサーモンピンクのリボンの制服を身にまとった彼女は、担任に自己紹介を促されて無表情のままそれだけ言い放つ。大きすぎず小さすぎず、けれど教室の奥までしっかり届いた。

 何とも言えないタイミングで転校してきたな、と思った。

 進級して一カ月。普通は四月に合わせるものではないのか。しかも、三日後に体育祭を控えていた。明日には予行練習もある。そんな、ゴールデンウィークが明けて、みんなが登校するのが億劫だった日。連休にどこに行っただの、五月病だの、生徒たちが切り替えができずに始まったHRで、何も予告もなく彼女はいきなり現れた。

 転校生という新鮮さで、急にクラスの空気感がそわそわし始めた。しかも異国から来た容姿が整っている女子だ。そんなの他クラスでも噂になるし浮足立つ。男子も女子もみんな彼女のことが気になった。だが彼女は全てから遠ざかった。無視はしないものの、一ミリも笑わず、クールで無口で、一線を引いていた。そんな彼女の態度にどう対応すれば分からなくなった人や、気に障った人がいる。彼女は人と仲良くなる気がない、一人の方がいいのだとクラス全員が判断した。彼女に話しかける者はすぐにいなくなり、一か月が経った今、彼女が転校してくる前と同じような日々に戻っていった。


 彼女が転校してきたときのことを思い出していた。もう本を読むだけの集中力はなく、手元で開いたページの上を眺めているだけだった。

 昨日のあれはなんだったのだろう。夢だったのだろうか。

 次第に生徒が登校してくる。転校生も教室に入ってきた。顔をそちらに向ける。声をかけようか迷う。しかし彼女はこちらには見向きもせずに席に着いた。普段通りだ。

 彼女の言う通りなかったことにした方がいいのだろうか? 聞いたところで何になるのだ、という話ではあるが。

 でも、気になってしまうのだ。あんなこと、現実で起きるはずがない。本で読んだような、映画で見たような、空想上でしか知らないことが目の前で繰り広げられた。幻覚か、幻覚ではないのか。それだけでも知りたい。

「おはよう、橘。どうした?」

 教室の後方に顔を向けながら固まる僕に声をかけたのは菊永だった。

「……いや、何にも。朝桐がきてないなと思って」

「ああ、あいつ遅いな。部活長引いてるのか?」

「あいつから借りてた漫画、持ってきたんだ」

「次、俺に貸してくれるって言ってたやつ?」

「そう」

「じゃあ今もらうわ。後で言っとけば問題ないだろ」

「そうだね」

 机の横にかかっていた、漫画が入った紙袋を渡す。

 誤魔化せて良かった。

 確かに、いつもは菊永より先に朝桐が教室に着くのだ。教室を見渡すと演劇部員を見つけたので朝練自体は終わっているようだが、まだ部室に残っているのかもしれない。部活に熱心に取り組んでいる彼のことだから、そういうこともあり得る。

 菊永と軽い雑談をしていると予鈴が鳴る。窓際、後ろから二番目の席には誰も座っていない。風邪でもひいたのだろうか。

 ガラリと前方のドアが開いた。担任が慌てた様子で教室に入ってくる。

「先生はこの後会議が入ったから一時間目は自習にします。騒ぎすぎないように!」

 それだけ言って慌ただしく出ていく様子を、生徒はポカンとした表情で見送った。

 一瞬の静寂。

「なんかよく分かんないけどラッキー!」という声を皮切りに、ガヤガヤとお喋りが始まった。立ち歩く生徒もいる。僕は机の中から本を取り出した。転校生は相変わらず話しかけづらい雰囲気を纏っており、近づく勇気は出なかった。

 そのまま二時間目まで自習となった。


  *


「橘」

 結局転校生に話しかけることができずに昼休みに入ったが、代わりに先生に呼ばれた。そのまま生徒指導室に連れていかれる。何かしただろうかと過去の行動を振り返るが何も思い至らない。

 しかし聞かれたのは僕のことではなかった。

「朝桐のこと、何か知ってる?」

 何故、彼のことを聞くのか。

「、いえ、なにも」

 思わず返答に詰まる。

「昨日帰ってから連絡取った? どこに行ったかとか、何か聞いてない?」

 先生は優しく、けれど真剣な眼差しで問う。

「昨日は連絡取ってないです」

 僕が何も知らないと分かり、重苦しく息を吐いた。

「……朝桐が、どうしたんですか」

 嫌な予感しか、しなかった。

「朝桐が、昨日から家に帰ってないんだ」


  *


 朝桐陽が、行方不明になった。

 それは信じたくない事実だった。

 まさか、彼が。

 よぎったのは三月頃から特にこの早暁市で盛んに起こっている行方不明事件だった。

 立て続けに行方をくらませ、そのまま帰ってこない人もいる。帰ってきた人はいなくもないがごく少数。しかも行方不明だったときの記憶はおぼろげだという。警察が捜査をしているがその真相は未だ分からず。痕跡が見つからないため犯人も捕まらない。一部のオカルト界隈で神隠しといった心霊現象の類なのではと囃し立てられている。

 世間を騒がせているそんな事件に、友人が巻き込まれるなんて。いや、誰でも可能性はあるのだ。ただ自分の身には起きないだろう、気を付けていれば巻き込まれないだろうという平和ボケした空気が自分にも周りにもあった。

 生徒指導室から出る。職員室ではなかったのはきっと、他の教師の口から出る事件の話を聞かせなくないからだ。担任と別れ、教室に向かう。賑やかな廊下を静かに進む。スマホをポケットから取り出し朝桐にメッセージを送った。最後にしたメッセージのやり取りは、なんとも呑気なものだった。

 ネットニュースでは増える行方不明事件の記事が毎日更新されている。今更こんな記事を確認したところで何も変わらないが、知ろうとした。帰ってきた事例を探す。

 大丈夫。彼は戻ってくる。そんな安心を欲する。しかし半分にも満たない生存者に打ち砕かれる。その一握りに、彼は含まれてくれるだろうか? その望みにすがるしかない。

 朝桐は、明るくていいやつだ。

 いつも元気でおちゃらけており、身長は百六十センチ前半くらいで低いが存在感がある。ムードメーカー的な存在だけれど、かといってクラスの中心にいるわけでもない。普段は僕たちとつるんでいる。正直、クラスのどのグループに入っても上手くやれるだろうし、それだけ気軽に話しやすいと誰もが感じている。彼が喋れば周りに輪ができる。背のことはあまり気にしていなさそうだが、他の人にいじられると怒って言い返す。それが面白いということを分かっているのだ。そんなやつだった。

 彼とは中学からの仲だ。中学一年と二年で同じクラスだったが、よく話すようになったのは二年になってからだった。彼の横にいるのは心地が良かった。それと同時に、なんで僕と一緒にいるのだろうかと疑問に感じることもあった。他にも友人はいるし、部活も熱心に取り組んでいる。きっとそう思ってしまうのは、あまりにも僕が彼とは正反対だから。その疑問を正直に彼に伝えたら怒られてしまった。彼の返答に僕は安心したし、嬉しくもあったのをよく覚えている。

 そんな彼が姿を消した。

 家出をするような性格ではない、と思う。僕ではなくても悩み事があるならどうにかなる前に誰かに相談しそうだ。担任と話した感じ、きっと演劇部員にも聞いたが何も分からなかったのだろう。

 一体この街で何が起きている?

 ふと、スマホをスライドする指を止めた。SNSの一つの書き込み。行方不明事件の生還者についての情報だ。都市伝説のような扱いで、様々な憶測がネット上で飛び交う中、どれが本物でどれが嘘なのか分からない。

『記憶は曖昧だけど、覚えてることもあるみたい。みんな同じことを言うんだって』

 それでも、その書き込みに釘付けになった。

『「さっきまで夜だったのに」って』

 心臓が速く脈打つ。周りの喧騒が遠のいていく。昨日の光景がフラッシュバックする。

 広く、長く、静かで。とても美しい夜と、それから――、

 どん。

「わ、ごめっ、」

「ごめんなさい」

 誰かと、ぶつかった。

 自分でも気が付かない間に教室に戻ってきていたらしい。僕の目も見ずに透き通った声で謝罪した彼女。通学用鞄を持った白色の後ろ姿が早足に遠のいていく。

 そう、彼女と出会った。

 慌てて自分の席に向かう。僕の席の前に座った菊永が、机に弁当を広げて先に食べていた。

「あ、おかえりー。呼び出しなんだった?」

「ごめん、帰る」

 鞄を引っ掴む。

「ちょ、ええ!?」

 菊永の困惑の声を背中に受けたが、それどころではない。

 学校を出るが彼女の姿はなかった。

 朝桐のこと、行方不明者のこと、ここ数か月のこと。このタイミングで転校してきたこと、昨日のこと。偶然かもしれない。追いかけることに意味はないかもしれない。本当に夢だったのかもしれない。それでも、身を持って経験したと断言できる。友人が巻き込まれた今、何かをしないと僕の心がダメだった。

 無計画に外に飛び出したため、彼女がどこに行ったか分からないが。

 もう一度あそこに行くしかない。そう直感した。


  *


 昨日と同じ場所で、世界が夜になる。

 昼間だったはずが、ガードレールの向こう側では人工の灯りが一つも灯っておらず、代わりに月と星が眩しいくらいに主張している。

 また、この場所にやってきた。やはり夢ではなかった。

 向かう場所は定まらず、とりあえず彼らを探すために歩みを進める。

 すると視界の端に黒色が見えた。咄嗟に電柱に身を隠す。先を見ると靄が蔓延っているのが確認できた。何も考えずに来てしまったが、あれに見つかって襲われたら僕は何もできないじゃないか。

「ねえ」

 どうしたものかと身動きができずにいると背後から声をかけられ、「うわ!」と声が漏れた。振り返ると探していた彼女がいた。彼女は「あなた、昨日の……!」と呟く。

「どうしてまたここに来ているの」

「ねえ、この街で一体何が起きているの? 君は、知ってるんじゃない?」

 質問に質問で返す。

「……昨日、忘れてって、」

「友達が、行方不明になったんだ」

 彼女は口をつぐむ。

「昨日、朝桐が行方不明になったんだ。同じクラスの朝桐陽、今日休みだっただろ? あいつがどこに行ったのか、君は知ってる?」

「あなた、もしかして同じクラスの?」

 彼女はどうやら、僕を同級生だと認識していなかったようだ。

「二年三組十四番の橘だよ」

 昨日の自身の身に起きたこと。目を疑うような、物語の中でしか観たことのない光景に、何か想像もつかないことが起こっているのではないかというざわつきが胸の内に渦巻く。自分の、知らないところで。

 目の前の彼女は軽くため息を吐いて、

「絶対に離れないで」

 背を向けて歩き出す。了承の意だろう。やはり彼女は何かを知っているのだ。昨日のことと、人が消えたことは繋がっているのだ。不安を胸に彼女の後を追う。道路を下るようだ。彼女の正体も分からないが、頼れる人もいない。

「ありがとう」

「ここはあなたのいた場所とは違うのは分かるよね」

「うん。……ここは何なの?」

「詳しいことは話せない。でもその人がここに迷い込んだ可能性はある」

「朝桐は戻ってくる?」

「……分からないし、ここにはいないかもしれない」

 言葉が続かなくなる。二人の足音だけが、異様な道に響く。風も吹いていないため、山の木々が静かに佇んでいる。

「私のことは聞かないの」

 その静寂を破ったのは彼女だった。

「気になりは、するけど」

「そう」

 自分から話題にあげておいて、教えてくれる気はないらしい。僕の二歩ほど先を歩く彼女は、こちらを一度も振り向くことはない。

「山の上に行く道はどこ?」

 彼女が聞く。

 僕たちが出会った道路では山頂に行くことができないからだろう。道沿いに坂を上がり切ったら反対側には下る坂があるだけなのだ。

「えっと、もう少し先に、山道に反れるところがあるから、そこから。ほら、あそこ」

 僕もその先は行ったことがない。

 彼女は舗装されたアスファルトから、土の道に足を踏み入れる。最低限人が通れるようになってはいるものの、二人が横に並んでギリギリ通れるくらい幅だ。彼女を背中を追う。

 鬱蒼とした雑木林。土の上に落ち葉と枝が敷かれ、柔らかい感触が踏みしめる足から伝う。たまに、枝がズボンの裾の中に入り痛い。土と葉の匂いが混ざる。こんなに植物に囲まれているのに虫はいない。

 不安定な足場で、坂を上がっていく。ただでさえ暗いのに、周りの木々のせいで更に暗く視界が悪い。

 彼女はまるで目的地が分かっているかのように、迷わずに道を曲がる。と思いきや、少し立ち止まって考えるそぶりも見せる。彼女の首からネックレスがぶら下がっているのが見えた。小瓶のようなものがついており、彼女はたまにそれを確認する素振りをする。

「どこに向かってるの?」

「アレが濃いところ」

 アレと言われて一瞬考えたが、すぐにあの靄のことかと納得した。確かに濃くなっている気がする。

「元凶がそこにあるの。小さな白い石。それを壊せばもとに戻る。昨日見たでしょう?」

「そうなんだ」

 よく分からないが彼女はこの空間に詳しいし、どうにかできる術を持っている。それだけは理解できた。

 枝の隙間から除く月の光。伐採されて放置された木。似た景色が続く中、久しぶりに人工物が見えた。目を凝らす。立方体の石たち。周りには花。奥あるに、一番大きな石が存在感を放つ。

 ぞくりと、鳥肌が立つ。

(墓……)

 こんな山奥に。知らなかった。

 進む道の右手側にある小さな墓場を通り過ぎる。煩く鳴く心臓は、坂道を上がり続けていることによる身体的疲れによるものか。はたまた別のことが原因か。肝試しじゃあるまいし、と頭から振り払う。

 段々と靄が濃くなる。漂っているだけで昨日のように襲ってはこない。しばらくすると、細道を抜けた。

 頂上だ。少し開けており、僕たちが来た道の反対側には下る道がある。さっきの道よりは歩きやすそうだ。僕たちの住む街の、山の反対側の街並みが見える。そちらに続く道の側には看板がある。

 靄の発生源はここだ。散布した黒が漂う。昨日見た青白く光る石が浮かんでいた。そこから靄があふれている。石を中心にゆっくりと渦巻いて。ドライアイスのように、しかし真っ黒のものが地面によどむ。

 深い、深い海のようだ。

 ここを山とは思えない。この街で一番空に近い場所で、海が。

 夜の海をこの目で見たことはない。しかし、きっとこんな感じだと思った。きっと、こんな風に、黒い。吸い込まれてしまいそうで、美しい。

 浮かぶ石のすぐ側で誰かが倒れている。Yシャツにグレーのズボン、明るい頭髪だ。

「朝桐……!」

「待って」

 駆け寄ろうとする前に彼女に制された。様子を窺う。仰向けに横たわる朝桐は、海に浮かんでいるように見えてぞっとした。

 まずい。と、彼女は言った。

 渦巻く靄が激しさを増し、すると今度は靄を吸い込んでいく。風が発生する。ゴオォォ、いう音と共に、靄が塊になって大きくなっていく。彼女は僕を少し気にした素振りを見せたが、それは一瞬のことだった。濃度を増した靄が、手を伸ばすようにこちらにも襲い掛かってくる。全てを吞み込もうとしているように。

 あ。

 声にならなかった。筋肉が硬直したように、一ミリも動けない。呼吸すらちゃんとできているか怪しい。

 これは、恐怖だ。昨日は怒涛の展開であっという間に元の世界に戻ってきたためあまり感じなかったが。

 靄がこちらに辿り着く前に、僕の心を蝕む。

 すると僕の前にいた彼女がもう一歩前に出る。瞬時に左手を真っすぐ前にかざす。そして昨日のように手から緑色の光を放った。

 黒い靄にぶつかり散っていく。靄の勢いと彼女の光線で起こった風が、彼女の髪とスカートをはためかせている。木々が揺れ、ざあざあと葉の音を立てる。眩しさと強い風に腕で顔を隠しながら薄目でその攻防を見ていた。

(……魔法みたいだ)

 昨日夢うつつだったときに感じていたこと。もう一度見て、やはりそう思った。

 箒に乗っていたし、彼女は本当に魔女か何かなのかもしれない。

 繰り広げられる美しい火花の向こう側に、靄の塊が見える。

 勢いが増していく黒。渦巻き、肥大化していく。

 ズズズ、と。塊が動いた。地面に向かい沈んでいく。

 それを見た僕は気付けば走り出していた。

「ちょっと!」

 彼女が叫んだ。咄嗟だったにも関わらず、僕に襲う靄を緑色の流星は払ってくれた。

 青白い石を取り囲む黒い塊が、地面に落ちる。海に沈む日のように。衝突する。ぶつかり接触した面から、塊だった黒色は形を失う。濃い靄が波紋のように広がる。濁流のように一帯を覆う。

 朝桐も、一緒に。

「朝桐!!」

 浮かんでいるように見えた朝桐が靄の海に流され落ちていく。地面があるはずなのに、底が深い海のように沈んでいく。駆けた足にブレーキをかけないまま、彼に手を伸ばす。僕も一緒にこの黒い海に落ちるかもしれない。それでも意識のない彼を一人そのままにするよりはいいと思った。

 必死に手を伸ばした。

 そして朝桐の腕を掴む瞬間。

 靄が眼前を広がった。ぶわりと、埃に息を吹きかけたように舞う。星雲のようにキラキラしている。真っ暗だと思っていた靄の中には無数の星が瞬いていた。目の前に、夜空が、宇宙が広がる。その美しさに目を奪われ、

 ――。

 ハッと閉じていた目を一気に見開く。目元が濡れていた。

 朝桐の腕を確かに掴んだ。まだ彼に触れていなかったらしい。この一瞬が永遠に感じていた。

「あ、朝桐!」

 靄の激流に抗いながらも沈みかけている彼を引き止める。目を覚まさない。完全に気を失っている。悪い夢でも見ているのかうなされているようだ。

 僕の腕にも靄が這い上がりまとわりつく。しかし時間稼ぎにはなっているようで、彼女の力で靄が、霧が晴れていく。徐々に朝桐の身体も出てきて、上半身は見える状態になった。

 今なら、と力を込めて引きずり出す。同時に、彼女が出した緑色の光が強くなって靄の塊が散乱した。勢いあまって後ろに倒れ込む。靄が薄くなり土が見えている。その地面の上で規則正しい呼吸を繰り返す朝桐にほっと息をついた。

 コン、コンと、朝桐の向こう側に何かが落ちる。

 青白く輝いた小さな石だ。

 後ろからやってきた彼女は石を拾い上げる。人差し指と親指でつまみ上げられた鉱石のようなそれは、パリンと粉々になった。光を反射してキラキラと落ちていき、消滅した。

 急に目に光が入る。太陽の光だ。頭上には青空が広がっている。木漏れ日がちらちらと光を透かす。そうだ、まだ昼だった。あの異様な空間から、帰ってこれたのだ。

「う、うう」

「朝桐!」

 朝桐が呻く。日陰になっているものの夜と昼では光量が違う。眩しいのだろう。目を覚ましそうだ。もう一度声をかけようとして、

「ちょっと来て」

 彼女が僕の前に立ちはだかった。

「え、でも」

「いいから。彼が起きる前に早く」

 彼女は歩き出す。

「ええ?」

 倒れたままの朝桐と彼女の背中を見比べ、

「なんなんだよ、もう……」

 彼女を追いかけることにした。朝桐のことも心配だったが、怪我は無さそうだしすぐに目を覚ますだろう。何が起きているのか知るためには、彼女について行くしかない。


 元の道を下り、アスファルトの道路を歩く。やがて住宅街に出た。途中に墓があったが、さっきのような感情は湧かなかった。やはり夜だと雰囲気が出る。

「えっと、ありがとう。朝桐を助けてくれて」

「私は助けてない」

「いやいや」

 彼女が助けてくれたのは紛れもない事実だ。行方不明事件の現場を目にしても、得体の知れないものを相手に僕は何もできない。

「……さっきのは何?」

 率直な疑問。無事に戻ってこれた今なら聞いてもいいだろうか。

「説明してくれる人がいるから」

「どこに?」

「私の家」

「今、君の家に向かってるの」

「そう」

 聞いたことに端的に返される。しかしそれ以上のことは教えてくれずまた聞き返す。会話は続かない。話しかけ続けても良いものか。多少なりとも気まずさを感じるのは仕方のないことだと思う。彼女と話すのは初めてだが、クラスの人たちが彼女に近づかなくなった理由はこのコミュニケーション能力の乏しさにあるのかもしれない。

 坂を下って、右手側に校舎が見える。校門側に曲がらずにそのまま真っすぐに進み続けていた。この辺りは僕も来たことはないが、だいたいの位置関係は分かる。

 人通りの少ない、歩道もない細道に入った。住宅が立ち並んでいる。滅多に車も通らない。平日の昼間なんてこんなものだろう。家の塀の向こう側に生えた木々が、日の光を遮ってくれる。学校を通り過ぎてもう十分以上は歩いていた。

「えっと、どこにあるのかな」

「ここ」

「こ、ここ?」

 急に着くじゃないか。

 背景の一部として目に入っていたが、通り過ぎると思っていた建物の敷地内に彼女は入っていく。手を掛けた扉には『closed』と書かれた看板が掛けられている。しかしそのドアは開かれ、カランカランと軽快な音を鳴らした。

 それは店だった。木を基調にした外観で、大きい窓ガラスがあるがカーテンがかかっており中は見えなかった。家の前に出された立て看板には『喫茶街角』と書いてあり、扉のすぐ横の外壁には西洋風の街灯が一つだけついている。ここだけ異国の風景を切り取ったようだった。

「早く」

 彼女は扉を開けたまま、僕が入るのを待っている。

「あ、う、うん」

 木製の緩やかな浅い階段を二段上がる。扉に手を置き、彼女に続きドアを潜る。

 店内はそこまで広くないが、外観の印象よりは広さがあった。奥行きのある構造だ。左壁沿いにテーブル席が六席、右壁側にレジとカウンター席が七席。暖色の照明が店内を柔らかく照らしている。外観と同じように壁やテーブルも木を基調としていている。カウンター内はレンガの壁に大きな棚があり、色々な形と色のカップやグラスが綺麗に並べられている。入口のすぐ右側のレジカウンターの横にも大きな棚があり、本や雑貨、観葉植物が飾られている。これも売り物なのだろうか。

 静かだ。

 すると店の奥の扉が開き、背の高い三十歳前後の男性が出てきた。百八十センチは越えているだろう、菊永よりも背が高い。男性にしては少し長い白色の髪。向かって左を分け目にして長い前髪を流し、さらりと耳にかけている。深緑色の瞳で、同じ色の不透明な小さい石のピアスをつけていた。

「おかえり、ミライ」

 人の良さそうな雰囲気を纏った彼は彼女を見て、客に向ける挨拶ではなくそう言った。彼女に似た容姿を持った、綺麗な人だ。父親か兄だろうか。

「今日は学校終わるの早いんだ――」

 彼女の後ろにいる僕に気付いた。

「こ、こんにちは」

「ああ、いらっしゃい。ミライの友達かな?」

「叔父さん、彼は〈境界〉にいた。魔法を見られた」

 おじさん、と呼ばれた彼は、先ほどまで浮かべていた笑顔を消した。

「……とりあえず、お疲れ様。二人とも、座ってゆっくり話そうか」


  *


 彼女と似た容姿の彼は、ジャスパー・ステラと名乗った。この喫茶店を経営しており、彼女の母親の弟にあたる人物。ここの二階が彼女の下宿先らしい。

 ジャスパーさんは一番奥のテーブル席に座っているようにと促した。四人席の広めの席だ。

「ミライもそこに座っていなさい」と促された彼女は壁際の奥の席に座った。僕もその向かい側のアンティーク調の椅子に腰かける。座る面が柔らかいクッションになっている椅子だった。ジャスパーさんは水の入ったグラスを三人分持って、彼女の横についた。お礼を言ってグラスに口をつける。

「名前を聞いてもいいかい?」

「橘悠紀です」

「悠紀くん。大変だったね」

 ジャスパーさんのねぎらいの言葉と、柔らかい椅子と、乾いた喉を潤す氷の入った水。緊張していた体がようやく緩んだ気がした。

「……あれが何なのか、説明してくれるって聞いたんですけど」

「もちろん話そう。その前にミライ、何があったのか報告してくれるかな」

 彼女は頷いて話し始める。

「まず、昨日の〈境界〉で会ったのが彼だったの」

 先ほども聞いたが、おそらく〈境界〉というのは迷い込んだ夜の世界のことを指しているのだろう。

 ジャスパーさんは昨日のことも把握済みのようで、「君がそうだったんだね」と囁いた。

「学校の人が昨日行方不明になった。早くしないと手遅れになると思って、この周辺で〈境界〉を探したの。そうしたら、昨日と同じ場所で」

「待って、朝桐が行方不明になったのを君は知ってた?」

「誰が、まではあなたに言われるまでは知らなかった。朝から先生たちが騒がしかったのと、聞いたから」

「誰に?」

「休み時間中に職員室付近で。私、耳がいいから」

「盗み聞きかよ……」

 彼女は説明を続ける。

 あの空間で僕に会ったこと。昨日より奥深い場所に行ったら行方不明の生徒が倒れていたこと。魔法を僕の前で使ったということ。呑み込まれそうだった生徒を助けようと僕が飛び出したこと。無事に助け出し元の世界に帰ってこれたということ。

 ところどころ話について行けない部分もあったが、だいたいこのような説明だった。一通り話終わり、ジャスパーさんはなるほどと頷いた。黙って聞いていた僕に彼は「さて」と向き直る。

「悠紀くん、待たせて悪かったね。ミライからは何か聞いたかい?」

「いえ、何も。説明してくれる人がいるからって」

「ではまず、僕たちの話からしようか。君は見たから分かると思うが、僕たちは魔法使いだ」

 魔法使い。

 心の中で反復する。あのときの光景を思い出す。闇のように深い靄を、緑色の光が散らしていくあの夢のような光景を。魔法みたいだと思ったが、やはりそうだったのだ。

 そしてもう一つ、と彼は指を一本立てる。

「僕たちはこの世界の住人ではない」

「……はい?」

「そのままの意味よ。もう一つの、別の世界から来たの」

 思わず固まる。魔法使いというだけでも飲み込むのに時間がかかりそうな情報なのに。

 だがあんなことがあったのだ。

 もう何を言われてもそれが真実なのだと、僕は信じるしかない。とりあえず、聞こう。

「すみません、続けてください」

「向こうの世界のほとんどの人間が魔法を使える。魔法界、と言ったらわかりやすいかな。悠紀くんが住むこの世界と、僕たちの住む向こうの世界。二つの世界が存在するんだ」

「僕が迷い込んだあの場所は、向こうの世界だったってことですか?」

「いや、それは違うんだ。でも悠紀くんがいた場所が、ミライがこっちの世界にやってきた理由だ」

「……叔父さん、どこまで話すつもり?」

 彼女が右隣に座るジャスパーさんに視線を向ける。ジャスパーさんは水を一口飲み、「とりあえず一通りね」と微笑んだ。

「……」

「この二つの世界は紐づいているものの、お互いの世界に干渉せず、全く別の世界として存在している。しかし最近、おかしなことが起きていてね。この二つの世界の境目が曖昧になっているんだ。その際に発生した、世界と世界の間の、歪みの空間。僕たちはその空間を〈境界〉と呼んでいる」

 その単語はやはりあの場所を示しているものだったのだと、答え合わせができた。

「行方不明事件は〈境界〉に人が迷い込んでいるから、ですか?」

「その通りだ。向こうの世界でも、ここと同じように〈境界〉が発生して行方不明者が出ている」

「戻ってくる人もいますよね。僕や朝桐、えっと、今日助けたクラスメイトみたいに」

「いるにはいるが、難しいことなんだ。一度〈境界〉に入り込んだら歪みの原因を作り出している核を破壊しなければいけない」

「あの白い石ですか?」

「そう。その石を“カケラ”と呼んでいる。カケラはその内部に魔力を流すことで破壊できる」

「……魔法使いにしか、壊せないんですね」

「……その通り」静かに頷いた。

 確かに黒い靄はあの石から出ていたし、今日も昨日も、彼女が石を壊すと元の場所に戻ってこれた。あれを壊さないと出れないのなら、彼女に出会えなければ僕も今頃行方不明者だったということだ。僕しかいない孤独な空間に取り残されて、あのまま彷徨い続ける未来もあったのだ。背筋がぞっとした。

「カケラは〈境界〉に入り込んだ人を吞み込んでしまう。カケラに取り込まれてしまった人は、もう戻ってこれない」

「逆に考えれば、カケラに呑み込まれる前なら帰ってこれる。あなたや、あなたの友人みたいに」

「……あ、危なかったんだね。本当にありがとう」

 ことの重大さを痛感し彼女にもう一度お礼を言うが、返事はなかった。

「この一連の事件、向こうの世界でも真実は一般に公開していない。世界崩壊の危機なんて、パニックに陥りかねないからね。行方不明事件として扱われ、秘密裏に調査が行われている。」

「それが、あなたたちなんですか?」

「私はそう」

「ジャスパーさんは違うんですか」

「ああ。世界の行き来が許されているのはごく一部の魔法使いだ。僕は仕事の都合上、もともとこちらの世界にこの店を構えていたが、ミライは〈境界〉の調査をするために来た。僕は向こうとミライを繋ぐ連絡係になっている」

「自分の世界ではなく、こっちの調査なんですね」

「こちらの世界に調査しに来ている魔法使いは何人かいる。ミライも、向こうの政府機関に命じられたんだ」

 直々に命じられて世界を跨ぐなんて、どれほど優秀なのだろう。二度も僕を助けてくれたという実績もある。学校の成績だけでなく魔法でも力量があるのは身を持って知っている。

 行方不明事件の真実、彼らの正体、そして彼らがやってきた理由。一通り聞いたところでふと浮かんだ疑問を口にする。

「〈境界〉が生まれるのはカケラのせいなんですよね? そのカケラは何が原因で出てくるんですか?」

「……それが一番の難点で、この調査の目的でもある。ミライ」

 彼女は自身の首元から、制服のシャツの下に隠していたネックレスを取り出す。金具を外しテーブルの中央に置いた。昨日も彼女の首から下げられていたのを見た。二センチほどの小瓶に何か入っている。これは。

「カケラ、ですか?」

 白い、小さな小さな石だ。

「そう、これは向こうの世界から支給されたものだ。〈境界〉に反応するため調査するのに便利だからね。ああ、このネックレスは特殊な加工や魔法が施されているからカケラの機能は失われている。安心していいよ」

「どうやって持ち帰ったんですか? だって、これを壊さないと〈境界〉から帰ってこれないんですよね」

「ある魔法使いが採取に成功した、と僕は聞いた」

「この石、何でできてるのかはもうわかっているの」

「え、そうなの?」

「魔力よ」

「魔力?」

「そのままの意味だ。これは魔力の塊。魔法使いが自分の魔力を精錬し、物体化したもの。人工物だ。つまり――」

 ジャスパーさんは言葉を区切る。

「誰かの手によって、人為的に〈境界〉がつくられている」

「は、犯人がいる、ってことですか」

「そう。その人物を特定したい」

「そんな、」

 そんなことができる魔法使いなんて、ただものではない。向こうの世界のことを全く知らない僕にだって分かる。あれほどの広大な空間を作り出し、人を呑み込み、二つの世界を壊そうとしている。

「ここまでが今、世界で――この二つの世界で起こっていることだ。行方不明事件なんて言葉では片付けられない。……さて悠紀くん、ここからが本題だ」

 ジャスパーさんはテーブルの上で手を組む。わかりやすく一つ一つ説明してくれた、彼の柔らかい表情が消える。深い緑色の瞳が、真っすぐに僕を射貫く。

 一体、何を言われるんだ。ごくりと生唾を飲み込んだ。

「悠紀くん、この調査の協力者にならないか?」

「叔父さん!」

 ジャスパーさんの口から出る言葉に集中していた僕は、びくりと肩を震わせそちらを向いた。静かに僕たちの会話を聞いていた彼女が、突然大きな声を出して立ち上がっていた。

「何を言っているの!? そんなの駄目。彼の記憶を消して、帰すんじゃないの!?」

「待って。――記憶を消す?」

 協力者。記憶。

 思いがけない単語を目の前に混乱する。彼らは僕をどうしたいのか。ただでさえ衝撃の真実を前に、頭がついて行くのに精一杯だというのに。

 ジャスパーさんは「まあまあ」と場をなだめる。彼女は納得いかないという表情で、しぶしぶ席に座った。

「魔法を見られた以上、記憶操作の魔法をかけるのが鉄則だ。昨日見たくらいならば、放っておいても夢だと思って記憶は薄れていくだろう。しかし君は、ミライのクラスメイトだった。そして今日、君はもう一度〈境界〉に入り、魔法と人が吞み込まれる現場を目撃した。もう君を放っておくことはできない。この魔法をかけるなら早い方がいい。けれど、僕は君に協力者になることを提案する。魔法に関する記憶を消して日常に戻るか、協力者になるか。これは君が選べることだ。今、決めてくれ」

「……私は記憶を消すことを薦める」

 彼女はジャスパーさんと反対の意見だった。

「これが危険なことなのはあなたも分かるはずよ。魔法が使えない人が関わるべきではない」

「だが無関係ではないだろう。これは両方の世界に関わることだ」

「でも!」

「理由はそれだけじゃない」

 彼は彼女の言葉を遮って続ける。

「悠紀くんは〈境界〉に入ることができる」

「……っ、」

 ずっと言い返していた彼女は、言葉を詰まらせた。

「……えっと、全員入れるわけではないんですか?」

「〈境界〉に行ける人は限られているんだ。何か条件があるのではないかと考察はしている。が、未だに分かっていない」

 ジャスパーさんは目を伏せながら「僕は〈境界〉に入れないんだ」と言う。

「事態は深刻だ。どの魔法使いも調査が難航している。気付いたことがあれば報告してほしいんだ。〈境界〉に入ることができ、こちらの世界の暮らしや街のことをよく知っていて、ミライと同じ学校。君が協力してもらえたらありがたい」

 彼女は「それでも私は反対」と冷たい声色で呟いた。

「ずっと一人だったんだからそれで問題ないでしょう」

「もちろん強制はしない。ミライが言う通りとても危険なことだ。断ってくれてもいい。遊びではなく、人の命、もちろん自身の命も危ないことだ。それに協力を選べば君の時間を奪うことになる。部活、趣味、遊び、勉強。これまでと同じ過ごし方はできなくなる。貴重な高校生活だ。それを踏まえて、答えてほしい」

 目の前の二人は真剣な表情で僕を窺う。

「僕は、」

 先ほど説明されたことが頭を駆け巡る。世界のことや、彼らのこと、彼女の使命。あらゆることを天秤にかけて、しかし思い出すのは、一度は姿を消してしまった朝桐のことだった。

 僕は口を開く。

「……手伝います」

「ありがとう」と呟いたのはジャスパーさんだ。彼女が小さく息を吐いたのが聞こえて、申し訳ない気持ちになった。

「『手伝う』と、言ったね。何故?」

 彼は僕の言葉選びに疑問を持ったようだ。

「……正直、世界を救いたいなんて大それたこと、今は考えられてないです。『協力』と言うとなんだか、僕にも強い意志があって、力を合わせなきゃいけないように思えて。僕にそんな力があるとも、できるとも思えなくて」

 この現状をどうにかしたいとは思うし、軽い気持ちで答えたわけでもない。形式的には協力でいい。ただのニュアンスの問題だ。

「それでも協力したいと思ったのは、友達がいなくなるのはすごく、嫌なことだったから」

〈境界〉に一人取り残される寂しさを身を持って体験したから。

〈境界〉に消される側と、人が消される側の気持ち。両方を知ってしまったから。

「ここで記憶を消して、魔法のこと、〈境界〉のこと、転校生の秘密を知らないままの生活に戻っても、また誰かが、僕が知っている人がいなくなるかもしれない。今度こそ僕が消えるかもしれない。どうせ消えるなら、役に立ってから消える方がいい」

 何も知らない僕になっても、水面下では着々と日常が蝕まれ、彼女たちが奮闘する。今までもそうだったのだろう。知らずにいれば何も変わらない。しかし変わっていくことも、変わらない。知ってしまったから僕は選ばざるを得ない。

 これは彼が納得する答えになっているのだろうか。間が怖くて、思いつくものを口に出す。

「えと、時間のことも大丈夫です。部活や習い事はしていませんし。むしろ有効に使えるならそうした方がいいんじゃないかって」

「だから、『手伝う』なんだね」

「は、はい……」

 ジャスパーさんは微笑んだ。

「そうかそうか、ありがとう」

「こ、こんな理由でいいんですか」

「うん、むしろ安心した」

「はあ……」

 心配したが、彼の反応的に良いのだろう。

「魔法や非現実的なことに心を躍らせて答えていそうなら、今すぐにここで魔法をかけるところだった」

「あ、あはは、ありがとうございます……?」

 言いながら笑みを濃くするジャスパーさんに、優しそうに見えて案外と怖い人なのかもしれないという感想を抱いた。

 まあしかし当たり前だ。遊びではない。それは理解している。実際に友人が巻き込まれたのだから。

「新しい飲み物を入れてくるから待っていてくれ。悠紀くん。コーヒー? 紅茶? カフェオレ?」

「え、えと」

「なんでもいいよ。オレンジでも、麦茶でも」

「じゃ、じゃあ、カフェオレで」

「わかった」

 ジャスパーさんは穏やかに席を立つ。

 席に二人残される。彼女の方をちらりと見るが、目は合わなかった。正直、気まずい。彼女が反対する選択肢を取ったのだから。

「……」

「……」

 店内にはジャスパーさんが食器を出したりお湯を沸かしたりする音だけが響く。

 彼女の表情からは感情が読めない。何を考えているのだろうか。

 意を決して僕はその静寂を破った。

「あの、」

 彼女――ミライさんと初めて目が合った。

「えっと、ミライさん。よろしく?」

 彼女は小さく口を開く。

「……橘くん、だっけ。よろしく」

 その声には棘がなかった。怒ってはいないようだ。胸を撫でおろす。

 三人分の飲み物を持ったジャスパーさんが戻って来て、

「今後のことを話そうか」

 事件の詳細とこれからの調査のこと。平日の昼下がりに、それは行われた。

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