6月21日(金)
「ミライさんって苦手なことある?」
今日は一時間目が生物基礎なので、そんな質問をした。ここにきてかなりシンプルで定番な話題を出したな、と自分でも思った。
「なんで?」
「苦手科目はこの間聞いたから。苦手と言っても点数はいいよね?」
そもそも彼女に苦手なものがあるのか。〈境界〉でも臆さず、迷いのない判断をするので想像がつかない。
「特に考えたことなかった」
「好きなものとかは?」
彼女は少し考えて、「向こうの授業でもいい?」と聞いてきた。科目の話をしたので、それ関連で思い当たったらしい。
軽い気持ちで振った話だったため大した答えは求めていないが、ミライさんから向こうの学校のことを話すなんて珍しい。「うん、もちろん」と返した。
「天文学が好きだった」
彼女は懐かしむように言う。そっか、こっちの高校にはないから。
「なくて残念だったね」
「家で勉強してるから」
「偉いね」
宇宙のことなんていつ習っただろうか。中学の理科でやった記憶がある。
――私たちは星屑でできている。
ふと、あの日に知った言葉を思い出した。
「……宇宙って規模が大きくてなんか身近に感じられないんだよね。……って、ごめん。ミライさんは好きって言ってるのに」
教科書に載っている写真では実感が湧かない。僕たちは空を見上げることしかできない。それも宇宙ではなく、「空」を見ている感覚しかない。だから想像するしかできない。目に見えている小さな小さな星の実寸や、月の模様、太陽の熱さ。どれも、そうだ。
ミライさんはくすりと笑い、
「確かに実際に行って自分の目で見たことはないし、規模が大きすぎるよね」
「ミライさんもそう思うんだ」
「うん」
優秀な彼女が僕と同じ感想であることに驚く。
「じゃあなんで好きなの?」
「そうね……。宇宙っていうより、夜が好きなのかもしれない」
「夜……」
学術的に興味があるのだと、しっかりとした根拠を述べられると思っていた。だからその返答は意外だった。
夜空を見上げることは、宇宙を感じることができる一番簡単な手段だ。夜の暗闇、見える星々、見守る月。宇宙の静寂を感じるにはその時間が最適だ。
彼女は窓の外を眺めながら続ける。
「それに、空はどっちの世界でも同じように見えるから、安心する」
その横顔が寂しげに見えるのは勘違いか。彼女はすぐに目線を空からこちらに戻した。表情はいつも通りだ。
「あと夜の方が魔法の調子がいいの。私の魔力と夜の相性がいいんだと思う。だから毎日、夜に魔法の練習をしてる」
「ミライさんらしいね」
「そうかな」
今日の朝の会話はそんな感じの緩さで始まったが、思ったより彼女が自分の話をしてくれたので良かった。話の区切りがついたところで彼女は「あ」と何か思い出したかのような声を出した。
「そうだ、橘くんに渡すものがあるんだった」
彼女はそう言って机の横にかけた自分の鞄の中を探す。彼女が僕に渡すものとは、一体何なのだろうか。
彼女が鞄を漁っている間、僕は窓の外を見る。四階にある教室から眺める景色は、もう見慣れたものだった。すぐ下には中庭が広がっている。花壇は園芸部が育てている季節の花で鮮やかに見える。誰もいないそこで、風に吹かれて花や木の葉が揺れている。
見上げるとさっき彼女が見ていた空がそこにはあった。彼女はやはり、早く向こうの世界に帰りたいと思っているのだろうか。〈境界〉を調べるという命を受けてやってきた彼女は、それを果たしたら帰ってしまうのだろうか。
「橘くん、これ」
呼ばれて意識を戻す。
「何?」
「はい」
空色の小さな布の袋から伸びる茶色の紐をつまみ上げて、彼女はこちらに差し出していた。紐で巾着の口が何重にも縛られ、その紐には橙色の玉のビーズが付いている。手のひらを出すと、その上にぽとりと置かれる。握り込めば手の中に収まるほどの大きさだ。何が入っているのだろうか。固くて小さなものが入っている。紐で固く結ばれているのは中身が落ちないようにするためだろう。確認するには紐を解かないといけない。見てもいいか聞くと、どうぞと返された。
「その中身、私が魔力でつくったものなの」
「……魔力!?」思わず手が止まる。
「ある程度黒い靄から守ってくれると思う」
「そ、そんなものもらっていいの?」
「カケラに呑み込まれるのはさすがに阻止できないけど。だからそうならないように気を付けて。あくまでお守りだと思ってくれればいいから」
「お守り以上の効力でしょ」
彼女は大層なものを渡している自覚がなさそうに頬杖をついて窓の外を眺める。
そうか、向こうでは普通なのか。手のひらの袋をまじまじと見る。
「……開けないの?」ミライさんはぽつりと呟く。
「お守りって聞くとね。ほら、中身見ちゃいけないって言うから」
それが果たして正しい情報なのかは分からないけれど。ただの気持ちの問題だ。
生徒が登校してくる時間になる前に自分の席に戻る。それでも数人の生徒には見られているが、魔法の話が聞かれていなければ別にいい。同級生なのだし。
もらったお守りは、鞄に付けた。
今週はかなりミライさんと話ができた。調査の話だけではなく学校のこと、お互いのことなど、気軽に何気ない会話をするようになった。なかなか良好な関係を築けているのではなかろうか。
帰りのHRを聞き流しながら、今日は確か現地集合だったなとこの後のことを考える。僕がミライさんの調査に同行するようになってからもう二週間以上が経った。この生活にも慣れてきている。
HRが終わる。生徒が一斉にガタガタと席を立ち、自分も釣られるようにゆっくりと立ち上がる。
「あ」
明日は土曜日だ。つまり次の調査は三日後になる。僕は慌てて鞄も持たずに、教室の後方から出ようとしているミライさんを呼び止めた。
「ミライさん」
「何?」
朝の時間以外で話しかけるの初めてだったが、なんの抵抗もなかった。
「今日ジャスパーさんいるよね?」
「平日はこっちにいるけど」
「店、寄ってもいい? ジャスパーさんに直接お礼言いたくて」
土日に調査を行わない理由の一つとして、ジャスパーさんがこちらの世界にいないというものがある。何かあっときにすぐに対応できるようにと、彼がいる平日に〈境界〉に行くことが基本だ。
「いいけど。お礼って何?」
「ちょっとね」
彼女との関係が改善されたのは彼の助言があったからだ。次に会うときでもいいが、会えるのなら早い方がいい。
濁した僕に、ふーん、と会話を切り上げてくれる。冷めているように見えるが、これが彼女の素であることが一緒に過ごしていて分かった。むしろこのくらい砕けている方が気を遣われていない感じがする。
「……行かないの?」
「え」
「早く鞄持ってきてよ」
「あ、ごめん」
そうか、一緒に行くのか。いつも下校は別々なのでその意識がなかった。僕は自分の机の上に置きっぱなしにしていた鞄を取りに行こうと振り向くと、阿水さんがすぐそばでこちらを凝視していた。
「え、えっと……?」
「なんか、珍しい組み合わせじゃない!?」
「え?」
静かに僕たちの会話を聞いていたらしい彼女は、堰が切れたように話し出した。
「橘くん、ミライさんと仲良いの!?」
「えーと」
「なになに、なんの2人なの!?」
「うーんと」
阿水さんは興味深々という感じで僕たちの顔を交互に見る。
僕とミライさん。第三者から見ると確かにどんな関係性なのか分からないだろう。改めて考える。この関係に名前がつくとしたら。
利害の一致。以前、僕はそう名付けた。
協力、手伝い。最初こそそんな感じで始まった関係だが。
「……友達?」
ミライさんの顔を窺うと、「え?」といったように眉をひそめていた。
「いや、そんな顔しないでよ」
「いつ友達になったの」
「ちょっとひどくない?」
「……ともだち?」
「あれ、さすがに傷つくな」
素で言っているのか冗談なのかよく分からないんだよなぁ。と苦笑していると、きょとんとしていた阿水さんが、両手をこちらに向けながら「待って待って」と割り込んでくる。
「じゃあ何がきっかけで仲良くなったの?」
「きっかけ……」
正直には言えない。言い淀んでいると、先にミライさんが答えた。
「道に迷ってた橘くんに偶然会ったの」
「ミ、ミライさん?」
「どこで?」
「そこの山よ」
「橘くん、転校生に道案内してもらったってこと!? この辺に住んでるよね!?」
「あ、あながち間違いではないけど……!」
阿水さんが声に出して笑う。
「あはは! 橘くんが迷子、まじか!」
ああ、何も言えない。いくら〈境界〉の中だったとはいえ、その通りなのだから。
恥ずかしくて片手で顔を覆った。熱い。
当のミライさんは「そっか、友達か」と呟いている。あまりに反応が遅い。素であの反応をしていたのかよ。僕が一方的に友達だと思っていたように見えて、余計に自分が恥ずかしいやつに思えてきた。
阿水さんは「何それ~!」とずっと笑っていたが、ひとしきり笑った後、今度はミライさんに向き直った。
「ねえミライさん、私とも友達になってよ。ずっと話してみたかったんだよね」
「……えっと」
単刀直入に友達申請をされてどう返したらいいか分からないのだろう。たじたじになっているミライさんは新鮮だ。こういうのに本当に慣れていないのが伺える。さっきの仕返しとばかりに「いいよ」と僕が答えた。
「勝手に答えないで」
「やった~、よろしくね!」阿水さんが両手を上にあげて喜ぶ。
「勝手に進めないで」
「あはは」
テンポよく会話が進みそのまま友達になったところを見て僕は笑う。
しかしミライさんも、ニコニコな阿水さんを無下にできないのか時間差で静かに「……よろしく」と返した。
「そうだ、ミライちゃんにずっと聞きたいことがあったんだ」
彼女の呼び方が早速変わった。
「『ミライ』って、日本語の名前もあるじゃん? 漢字の『未来』。名前の由来ってそれ?」
「あ、それは僕も気になってた」
クラスの大半が「ステラさん」ではなく「ミライさん」と呼ぶのはきっとそれが理由だ。僕は同じ姓名のジャスパーさんと区別するためでもあるが、日本人と同じ名前だから馴染みがあって呼びやすい。しかしミライさんは「いいえ」と否定する。
「外国の言葉で『月のように光り輝く』って意味だって、母が言ってた」
「へー! きれい!」
目をキラキラさせる阿水さん。こちらにも「ね!」と向けてくるので「ね、綺麗だね」と同意する。
「あ、ごめんね、帰るところお話しちゃって。私も部活行かないと。またねミライちゃん! 橘くんも迷子にならないように気をつけて帰ってね!」
「迷わないって!」
手を振って駆けていく阿水さんに、小さく手を振り返して見送る。嵐のような人だ。僕は今度こそ鞄を取って、ミライさんと歩き出した。
そういえば、ミライさんがこっちの世界で友達ができるのは初めてなのではないだろうか。クラスのみんなはもうミライさんと話すのを諦めているのだと思っていたが、阿水さんはずっと話してみたかったと言っていた。彼女の性格を考えるとお世辞ではなく本心だと思う。
賑やかな廊下を歩いていく。
「いい名前だね」
「……そうね」
また一つ、彼女のことを知れた。
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