6月28日(金)‐01

 寝坊した。しかも昨日とは打って変わって土砂降りだった。寝坊と言っても始業には余裕で間に合う時間だったが、ミライさんと話す朝の時間に間に合わなかった。起きたときに連絡を入れていたが、教室について荷物を机に置きミライさんに声をかける。彼女は自分の席に座り今日の授業の予習をしていた。彼女は気にしていないようで、謝ったら「私もあなたを待たせたことがあるし、別にいい」と許してくれた。

 自分の席に戻るとすぐに、演劇部員のグループから抜けてきた朝桐が声をかけてきた。

「おはよう、悠紀。遅いな!」

「おはよう。寝坊した」

「じいちゃんみたいな生活リズムの悠紀が?」

「誰がじいちゃんだよ。……寝れなかっただけ」

「へえ、どうして。悩み?」

「僕というより、人が悩んでるっていうか……」

「相談に乗ってる?」

「話聞いただけ」

「悠紀、聞き上手だからな~」

「そうかな」

「マジマジ。俺も聞いてもらってるし!」

 それも、部活の話をただ聞いているだけなのだ。部員相手には言えないことを無所属の僕相手だから言えるのであって、部活の大変さを共感してほしければ菊永に話している。上手いこと発散しているなと思う。

 は~、と机の上にぐったりと身体をのせると朝桐はニヤリと笑う。

「それじゃあこの俺、朝桐陽が! 悩める悠紀クンの話を聞いてあげようじゃないか!」

 朝桐は右手を胸に、左手を腰に当てて、まるで舞台上で演技をするように宣言する。

「ええ?」

 一瞬、謎のテンションに困惑する。しかし、まあ、いつものことかとスルーし、僕も乗ることにした。机に預けていた身体を上げて、僕の正面で仁王立ちをする朝桐を見上げる。

「じゃあ、相談役の朝桐さん。何か人から相談されたときに、何も言わずに黙って聞いてあげるのがいいのでしょうか? それとも何か言ってあげた方がいいのでしょうか?」

「それは、時と場合によるッ!」

「あ、相談終わった」

 ズバッと、腕を組みながら高らかに僕の悩みに回答した。

 しかし朝桐の言うことは的を得ているような気がする。時と場合によるのだから、そのことを今考えていてもどうしようもないのかもしれない。

「ありがとう、朝桐。少し解決した」

「お、やったぜ! まあ、相談役の朝桐さんにかかれば? こんなもんだけどな?」

「はは、ありがとうね」

 ニッコリとピースをする朝桐に礼を言う。

「……」

「……? なんだよ悠紀。まだ悩みか?」

 雫さんは、本当の自分と周りから見る自分像にギャップがあると言った。それが嫌なのに、周りからの期待に応えようとしてしまうと。応えられないと、不安になると。

 朝桐にもそんなことがことがあるのだろうか。今だって、僕のためにこんなノリをやってくれているのだ。

「朝桐さ、いつも元気そうだけど、それって本当?」

「なんだ? 今度は悠紀が相談役か?」

「いや、まだ相談役は朝桐だよ」

「ええ? うーん、別に、いつも元気なわけではないな。いや、元気だけど! まあ、そう見えてるなら俺は嬉しいね」

 そう見えているなら嬉しい。

「……そう見せてるってこと?」

「だいたいのやつそうじゃない? 落ち込んでても元気に振る舞うことあるだろ」

「なるほど、確かに。じゃあさ、人から求められている姿に振る舞うのってどう思う?」

「それが大丈夫な人も、苦な人もいるだろ」

「そうだよなぁ」

「俺は元気に見られたい! だからそう見えていたならこの舞台は成功だ!」

 誇らしげに言う彼に、僕は「おおー」と拍手をした。「演劇部っぽい」と言うと、「だろ?」と返ってくる。

「舞台の上だけじゃなくてさ。人は『人生を演技している』って、シェイクスピアは言っていたんだ。人間は俳優で、人生を歩むという行為は芝居であるってな!」

「一理あるかも」

 楽しそうに語る朝桐。

 そんな演劇好きの朝桐の演技は、去年の文化祭でも主役ではなかったにせよ光っていた。将来そっちの道に行くのだろうかと以前聞いたが、普通の大学に行くと言っていた。演劇サークルには入るらしいが、いつかは演劇を止めてしまうときが訪れるのだろうかと思うとなんだか勝手に寂しくなった。

 丁度チャイムが鳴る。朝桐は自分の席に帰っていき、友達と話していた阿水さんが隣の席に戻って来る。

「やっほー、橘くん」

「阿水さん、おはよう」

 朝桐に言われたことを頭の中で反復する。

 朝桐と雫さんは、両方演技をしている。しかし、演じているものは大きく異なる。

 朝桐は、見られたい自分の姿を。しかしそれは、求められている自分の姿でもある。

 雫さんは、求められている自分の姿を。しかしそれは、見られたい自分の姿ではない。

 彼女の本音が聞けていない。それを聞かなければローブは受け取れない。

 今日の目標を更新した。


  *


 傘を差して、いつもの場所にミライさんと向かう。朝からずっと大雨だ。傘を打ち付ける大粒の水が、すぐに伝って落ちていく。

 歩きながら、僕は朝のことと自分の考えをミライさんに話した。

「橘くんに任せる」

「え、いいの?」

「うん」

 ミライさんはローブをすぐにでも返してもらいたいと言うと思っていたが、すんなりとオーケーが出た。

「あなたの方が、きっとどうにかできると思う」

「ええ、そんなことないと思うけど……」

 否定すると彼女は首を振る。

「あなたは人の機微に聡いから。私よりね」

 彼女に頼られて、嬉しく思うと同時に大丈夫だろうかという不安はある。しかしいつも彼女に助けてもらってばかりだ。返せる機会が今なのだとしたら、頑張ろう。雫さんのためにも。

 足元はもうびしょ濡れで、ローファーの中に水が入って靴下が気持ち悪かった。学校にいる間にようやく乾いたというのに、校舎を出て数歩で元通りになって早々に諦めた。さすがにこの雨の中を歩き回るわけにもいかず〈境界〉探しは中止。雫さんの部活が終わる時間まで『街角』で時間を潰し、バスで公園に向かう。

 屋根の下のベンチに座る人影が見えた。雫さんが来るにはまだ少し早い時間だ。知らない人かと思ったが、近づくにつれて視界の悪い雨の向こう側に見えた姿は、雫さんだった。かなり近づかないと気付けなかったのは、彼女がローブを羽織っていたからだ。セーラー服が、紺色の布で隠れている。しかし透明ではなかった。フードは被っていなかったのだ。

「雫さん、部活おつかれ。雨すごいね」

 屋根の下に入り、傘についた雨水をバサバサととばす。

「……」

「……梅咲さん?」

 雫さんはうつむいたまま、ピクリとも動かない。どうしたのだろうか。

「雫さん、大丈夫?」

 返事がない。ミライさんと顔を見合わせる。僕はベンチに座る雫さんの前で膝をついて、目線を合わせた。

「体調、良くないなら今日は大丈――」

「橘さん」

 目の前の少女は僕の言葉を遮った。その声は雨にかき消されてしまいそうなくらいか細く、弱々しいものだった。

 僕が何かを言う前に、少女は話し出す。

「橘さん、あの日に雨の匂いが好きって言ってましたよね」

「……言ったね」

 様子が、おかしい。それは一目同然だった。

 彼女は淡々と続ける。

「私も雨が好きです。音が私を隠してくれるから。傘が視線を遮ってくれるから」

 前髪の陰に隠れていた、少女の瞳が見えた。目が赤い。泣いたのだろうか。

「し、雫さ、」

 その眼には光が宿っていなかった。

「雨が私を溶かして、存在を消してくれるような気がするんです」

 彼女はそう言って、いつかのように、僕たちの間を飛び出す。

 黒い靄が、見えた。

「雫さん!」

「梅咲さん!」

 振り返る。彼女は屋根の外、雨の中に迷いなく飛び込んでいく。

 ミライさんはもう走り出していた。僕も後に続く。僕たちは彼女の背中を追いかけようと、傘も差さずに雨のカーテンをくぐって――。

「……え?」

「〈境界〉……!」

 一歩踏み出したそこは、夜の世界だった。

 すぐに気付いた。夜空が広がっているから。雨雲もないのに、雨が降り続けている。雨に打たれているのに、身体は一切濡れていない。否、雨水ではない。雨の形をした黒い靄だ。紫陽花が咲き乱れる。公園の中央に少女が駆けていく。〈境界〉には驚いたが、四の五の言っている場合ではない。

「雫さん!」

 少女は、中央で立ち止まった。そしてこちらを振り返る。

 ローブについている留め具のアクセサリーが、ピンク色の石が、青白く光った。――カケラだ。カケラから黒い靄が流出していく。

 あと少しで。彼女に辿り着きそうなところで。目の前まで来ているのに。

「あ、」

 靄が一気に吹き出す。激しい風が巻き起こる。雫さんに手を伸ばす。掴んでほしかった。彼女の話を、まだ全て聞けていない。ミライさんも魔法をカケラにぶつけようと、僕と同じように手を伸ばしている。

 姿が消える直前に見えたのは雫さんの戸惑いの瞳。目が合う。彼女はこちらに手を伸ばす。

 彼女の手が、僕たちのどちらかに触れる直前。

 ――。

 目の前に夜空が広がった。

 ああ、まただ。

 広がった暗闇の奥の星が瞬いて、浮遊感に包まれる。僕の意識が、どこかに行った。

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