7月11日(木)

 ジャスパーさんを待っている間、僕は勉強どころではなかった。

 行きと帰りで毎日あの階段を使うが、僕が〈境界〉に入れることはできなかった。朝や昼休み、放課後に周辺を調べたが何も分からなかった。もしかしたら発生するのに条件があるのかもしれない。今自分にできることはなにもないと分かりながらも、何かをしないとどうにかなりそうなのだ。

 期末テストが終わり、月曜日に席替えがあった。ミライさんと過ごした教室の風景が上書きされた気がした。

 スマホの通知が鳴り、急いで確認する。この三日間通知に敏感になり、違うと分かると落胆した。

 しかし、今回は待っていた人物からの連絡だった。

『戻ったよ』

 そんな短い文章で、ジャスパーさんからの知らせが来た。

 学校から帰ってからはずっと家にいたので、その連絡にすぐに返信し、『街角』に向かった。


 店のカーテンは閉まっていて中は見えなかったが、扉に手をかけると開いた。カランカラン、とベルがなる。

 扉から一番近いカウンター席に座っている人がいた。ミライさんがいつも僕を待っているときの席だ。しかし座っていたのは彼女ではなくジャスパーさんだ。

 ジャスパーさんは僕が来たこと気付いて、顔をこちらに向ける。

「こんにちは、悠紀くん」

 いつも優しく迎えてくれるその顔は、少しだけ口角は上がっているが無理やり作った表情に見えた。とても疲れた顔をしていて、目の下には隈がある。

 ジャスパーさんの様子に、僕は嫌な予感がした。

 しかし彼からそれを聞くのを遅らせたくて、彼が話し出す前に学校のことを説明する。

「……こんにちは。あの、学校で……」

 立ったまま、彼がいないときに気付いたことを懸命に伝える僕に、彼は相槌を打ちながら聞いてくれている。

 説明を終えると、ジャスパーさんはゆっくりと話し出した。

「記憶操作の魔法、だね」

 やっぱりそうなのか。

 正直、今日彼から連絡が来てこうやって話せるようになるまで、もしかしたらこれまでの非日常は全て夢だったのではないかと思ってしまっている自分がいた。

 僕はこの三日間疑問に思っていたことを口にした。

「……僕にはかけられなかったということでしょうか」

「かけられた可能性は高いんじゃないかな」

「じゃあ、なんで僕は忘れていないんです? 彼女のことを、」

「……『この魔法をかけるなら早い方がいい』って、最初に言ったのを覚えている?」

 僕は頷く。

 記憶を消して日常に戻るか、協力するか。二択を迫られたときにされた話だ。

「この魔法は万能ではない。人の記憶に直接干渉するんだ。そう上手くいくものではない」

 彼の口から記憶消去の魔法についての説明が再度された。

「忘れる対象から受けた影響が強ければ強いほど、忘れるのに時間がかかるんだ」

「僕も、いつかは忘れるんですか」

「受けた影響の結果は本人の中に残り続けるから、完全に忘れるというわけではない。思い出しにくくなるんだ。それは個人差がある」

 例えば、君は幼稚園の頃に仲が良かった子のことを覚えてる? こんなことをして遊んだ。こんなことを話した。印象的なことや価値観の形成に繋がることは覚えているだろう。でも、その子の顔や声は? 覚えているかな?

「……」

「事実は消えない。でも、人は忘れていくんだ。記憶消去の魔法は、その時間を早めるだけ。きっと犯人はミライに関する記憶を消す魔法だけでなく、催眠魔法もかけた。記録も全て消し、いないことにした。かなり強引なやり方だが、こっちに二ヶ月しかいなかった彼女を消すには十分だろう」

 そこまで説明し、僕が聞きたいことが残り一つになった。彼は「さて、」と前置きして話し出した。

「向こうの世界からの通達だが、――君はもう、この件に関わらなくていいことになった」

「……ミライさんは?」

 僕が聞きたいのはそれじゃない。

 彼女がどうなったのか。彼女をどうするのか。

 それを聞いて納得できなければ、僕はもう戻れない。

「ミライのことだが、」

 ジャスパーさんの声が小さくなる。

「……何もしない、と決まった」

 僕は耳を疑った。

「なんで……!」

「ミライはカケラに呑み込まれた。魔法使いがカケラに飲み込まれてしまう事例はあった。しかし、最初にも言ったがカケラに呑み込まれて助ける方法が見つかっていない。ましてやそのカケラも見つかっていない」

 成果を上げ、犯人にも接触したというのに。

 ミライさんはこんなに簡単に切り捨てられるのか。

「僕はどうしたらいいんですか……?」

 ここ数日、ずっと悩んでいたことを聞く。

 僕は二つ世界の現状が分からない。知っている彼なら、何か与えてくれるのではないか。答えがもらえるのではないかと思っっていた。

 しかし、それも全て無駄だった。

「さっきも言ったが君の仕事はもう終わりだ、ありがとう。あとはこちらに任せて君の日常に戻りなさい」

 これ以上言葉が出なかった。

 僕はいきなり日常に返されてしまった。


  *


 扉を閉める。

 自分の部屋に戻ってきた。明かりは付けず、鞄を床に落とし、ベッドに身を預ける。

 息が詰まった。でも目からは止め処なく水が溢れる。

 心臓あたりがいたい。痛くはないけど、いたかった。どんなに必死に息をしても、涙を流しても、この感覚は消えてくれなくて、心が癒えてくれなくて。永遠にこの苦しみから解放されないのではないかという気持ちにすらなる。

 なんで。

 どうして。

 もう手遅れなのか? 本当に何もできないのか?

 泣いたところでどうにもならない。もう子供ではない。泣いてもどうにもならないことは、もう分かる年齢だ。それでも簡単に切り替えられるほど大人にもなれていない。

 僕にできることは何もない。

 理解はしているけど、受け入れられない。

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