私は――

 彼と出会って、変わった。


 たまに訪れる学友に対して、アドバイスを受けたり。父がしていた煙突掃除の仕事を見学させてもらったり。それから母が倒れた時も、家に訪れてくれた。

 フレスが消えた時、ずっと気に掛けてくれた。彼自身も辛いのに、我が儘を言ってしまった。それでも、黒煙を患っているフィルトを心配してか、家の前で待っていてくれた。


「勉強を教えてもらった時も、煙突掃除を見させてもらった時も。それに買い物をした時だって、あんたは私を気に掛けて。私もあんたを、気にしてた」


 彼と出会って、変われた。

 素直になった、というべきだろうか。他人を気にしたように、彼とは接するのではなくて。もう一人の自分のように、心の底ではそう思って過ごしていた。年相応らしく、なれたのかもしれない。


「私、ね。思い出したのよ。誰か話を聞いてくれる人、話すことが出来る人。そんな人がいること。しばらく、独りで抱え込んでいたから」


 出会わなければ、今の自分は無かった。

 ずっとしたいことも見つからず、母とその日を生きるために働いて。母の気持ちにも気が付かないで、年を取っていただろう。


「どうしてこんな私に、ずっと関わってくれてるのか、疑問だったわ。多分、自分で言うのもアレだけど、生意気な子供だったと思うから。だから、私も、あんたと同じで――」


 救われたのは、フィルトの方だった。

 父の死に囚われて、それを誰にも言う事が出来ず、いずれ身体を壊していたかもしれない。

 独りぼっちで生きる世界は、きっとずっと辛かった。


「あんたのおかげ。感謝してもし切れないわ。……だから、ね」


 だから、これからも傍にいてほしい。傍でなくてもいい。たまに家に訪れるだけでも、話し相手になるだけでもいい。彼が元気で生きていて、自分がその周りにいれたらそれだけで。

 そんな言葉を言いたかった。

 言葉は、声にならなかった。

 自信が、無かった。それは、やはり彼が未だ伏せっているという現実。病気に侵されている現状があるから。

 不治の病。それに加えて、煙突掃除屋についての同意書が、本当に認めてもらえるものなのか、確定したわけでも無い。

 口に出したかったその言葉が表情に、現れてしまう。

 それが理由、だろう。彼が穏やかに、言い聞かせるように口を開いたのは。


「この奇病がマシになったら、何処か出掛けようか。幸か不幸か、仕事はもう出来ないからな、存分に時間はある。未来は有限で、無限だ。選択肢は多大にあるぞ」


 その言葉で、見えない靄が晴れた気がした。

 言葉が見つからないフリをしたのは、怖かったから。自信が無かったのも、理由の一つで、しかしそれ以上に。彼が居なくなってしまうのではないかと。煙突掃除屋としてここにいた彼は、何処かへと行ってしまうのではないかと、心配だった。


 人に対して、嫌だと思える。

 人に対して、そうして欲しいと考える。

 決して自己中心的な思考ではなく、それが人に幸せをもたらす一つの方法で。

 本当の自分に向き合えたみたいで少し、嬉しかった。


「べ、別にね。私も暇ってわけじゃないんだけどね。それでも、いいなら私も行くわよ……」

「それは、お互いに好都合だな」


 暖炉の火が爆ぜる。それほど火力も無いが、訪れた静寂を掻き消すには、十分過ぎる音だった。

 雪が吹雪く。不気味な音が、耳に残る。一人ならば心細くて、耳を塞いでしまうかもしれない。

 けれど、この部屋は。ここに流れる、僅かな空気は。

 フィルトにとって、気持ちの良い場所となっていた。


 彼がいる場所。温かくも無いが、特別寒いわけでも無い。

 その空間が好きだった。

 静かで、けれど気疲れしない関係が心地よかった。


「なあ、フィルト」

「なに?」


 二人の間に流れる、優しい雰囲気。声も自ずと、柔らかくなっていた。


「お前さん、今は幸せか?」

「……っ」


 いつか、聞き覚えのある言葉。

 唐突に放たれたそれは、けれど前回のように、応えられないモノではなく。

 フィルトは、すぐに。

 自分の想いを口にした。


「幸せ、よ。すごく、幸せ」


 本音。

 他人を気遣った言葉でも、誰かの為に吐いたモノでもない。正真正銘自分に向けた、言葉。

 それを受けた、彼の瞳が。

 少し、揺らいだ気がした。


「そうか。俺も、な。幸せだ。……フィルト、お前さんのおかげだよ」


 曖昧な笑顔で。

 彼の想いが。

 部屋に響いた。


「――ありがとうな」

「――あ……」


 その一言で。

 口から黒い煙が、抜け出した。

 思っていたよりもずっとあっさり、口元を離れていく。心に溜まっていた、悲哀の感情。それに質量は無いはずなのに。

 フィルトの心は、軽く。

 そして、直後に気が付いた。

 自分自身が、とんでもない過ちを犯してしまったことに。


「――っ!! ダメっ」


 行き場を失くした黒い煙は、しかし惑うことなく緩やかにそこへと向かう。

 目の前にいる、煙突掃除屋の元へ。


 それは、人の悲痛。

 それは、人の疾患。

 誰もが抱いていて、そして苦しみ悩む、取り払われるべき対象。

 煙突掃除屋が取り除く感情で。

 煙突掃除屋が消える要因。

 黒煙が。

 彼の口元へと吸い込まれる。


「フィルト、お前さん。酷い顔してるぞ」


 まるでそれが普通であるかのように、軽口を叩く。煙突掃除屋は、黒い煙を他人から請け負う。だから気にするなと、言外にそう伝えている。

 けれどそんなことで、フィルトが納得出来るはずもなかった。


「だって――っ」


 思い出す。

 路地裏で、フレスが消えた時のこと。

 そして、彼が話した煙突掃除屋のこと。

 恐らく、いや確実に。

 彼の許容量は、それまでで満たされていたはずだった。フィルトの黒煙を取り込むのが初めてでは、決してないだろう。煙突掃除屋としての仕事を、彼は真面目に、きちんとこなしていた。


「っ!? スート!! 顔が――っ」


 張り詰めた糸が切れたような、音がした。創造的で、象徴的な甲高い音。

 それを表すように。彼の顔に、黒い亀裂が生じた。目元から頬を裂くように、涙の道筋を辿るように、それは生まれ、そして広がる。

 悪夢の、再来だった。


「ああ、案外痛くないんだな。感覚が麻痺でもしてるのか、それともそういう仕様なのかは知らないが……」

「そ、そんなこと言ってる場合じゃ――」


 場違いにも痛みの感想を述べている彼。その口が動く度、亀裂は枝分かれを始め、顔全体を覆っていく。


「何をしたって、助からないぞ。言っただろう、この奇病に対処法は無いと」


 慌てふためくフィルトに対して、本人は冷静な様子で彼女を見やった。何故こうも冷静でいられるのか、どうしてここまで優しい顔が出来るのか。

 そのことが。

 不気味、とは思わない。恐ろしい、とも思わない。

 きっと彼は、思い描いていたのだろう、そして予測していたに違いなかった。

 この未来と、この結末を。


「そんな顔をするな。お前さんの黒煙は、しっかりと俺が貰ってやったんだ。喜んだらどうだ」


 胸が、痛い。頭が、真っ白。心が張り裂けそうで、呼吸がまともに出来なくて、視界が歪んで、全身の筋肉が言うことを聞かない。


「どうしてっ!? 私は別に、治してほしいだなんて一言も頼んでないっ。私はただ、あんたが死ななかったらそれだけで良かったのに……っ」


 だから、ただ叫んで。

 そうして現実を遠ざけることでしか、意識を保てそうになかった。

 やり場のない怒りと後悔が、溢れ出る。


「本当は死にたがりなんかじゃない癖にっ!! 嘘まで吐いて、それで自分だけで全部を持ち去っていこうって、そんなの――っ。そんなの、卑怯じゃない……」


 外で荒れ狂う吹雪きが、室内にまでその音を轟かせて。

 静寂を埋めるように。虚しさを去来させる。


「済まなかった。これ以上、ここにいるわけにも、いかなかったからな。この性質上、黙っていなくなるわけにも、いかない。本当は、もう一度。こんな光景を、見せたくなんてなかった」

「じゃあどうして――」


 そんな気持ちがあって、どうして。

 こんな真似を、したのか。救われたフリをして。それでフィルトの中にあった黒煙を、吐き出させて。

 本当に救われたって、思っていた。

 バカみたいに、生真面目に。

 助けられるって、そう思い込んで。

 結果、彼は。


「救いたかった、んだろう。やはり」


 彼の声は、滑らかに澄み渡らずに。けれどしっかりと耳に、脳に、届いていた。語る彼の瞳は、相も変わらず感情なんて感じられなかった。それに、精悍さも、見受けられない。

 そこに、不安は。そこに、動揺は。そこに、悲痛は。

 どれにも当て嵌まらない、やり遂げた想いが、そこにはあった。


「煙突掃除屋として、今まで生きてきた。それに、鏡みたいなお前さんと出会った時、柄にも無く楽しかった」


 淡々と、口を開く。

 その度に罅は。彼を蝕む綻びは、広がっていった。


「このまま、楽しけりゃそれでいいって。そう思ってたんだな。でも、フレスが消えた時、このままじゃやはり駄目だと、そう悟った。俺だけが、愉しく過ごしていたら、それは俺が俺でいなくなる」

「……わけ、分かんないわよ」

「そうか」


 だから助けたかったと、救いたかったと。自分が自分であるために。最後に役目を終えるために。

 消えなくてもいいのに、その道を選んだのか。


「……バカ、よ。あんた、なんで――」

「そうだな。俺は、馬鹿だったかもしれない」

「そ、そんなこと今更――」


 声が、詰まった。

 嗚咽で上手く喋れない。

 眼からは滴が溢れ出て、我慢しようとすればするほどに、止まらない。落ちる滴は、握り拳に、それから着ている服に、吸い込まれていった。

 俯いて、それでも耐えられない。

 それから。

 堪えきれないフィルトの上から、穏やかな声が降り注いだ。


「もう、話すことは、無いか?」

「え――?」


 それが合図だったのか。それが起点だったのか。それが発端だったのか。

 彼の顔に現れていた綻びは、やがて、崩壊を始めた。


「いや――」


 黒い因子が、細かい粒子となって。

 肌が捲れるように破片が宙に舞って。


「ダメっっっ」


 慌てて彼の頬に手を伸ばす。堰の決壊を止めるように、今にも崩れそうな部分を抑えるように、顔に触れた。

 それでも。黒い粒子は嘲笑うように、彼女の手をすり抜けて離れる。

 何をしたってもう、止められなかった。


「これは、俺たち煙突掃除屋の、宿命だ。誰にだって、無理だった」


 伸ばす手が、何かに触れた気がした。

 暖かい、何か。

 正面に見える彼の瞳から、頬を伝うそれ。


「お前さんは、フィルトは。よくやってくれたよ」


 頭に乗せられたその手は、既に重くなど無くて。

 感触はすぐに、消え失せた。


「いや……、スート――」

「泣かないでくれ。後悔、するだろう」

「む、りよ……。だって、私は――」


 嫌いになれるはずなかった。ずっとこのままでいたいと、彼よりも強く願っていた。

 この終わりを、認められるはずは、なかった。


「スートっ……!!」


 やがて彼の身体は。

 腕は。

 手は。

 肩は。

 耳は。

 足は。

 膝は。

 腰は。

 骨は。

 肉は。

 黒煙となり、半身を包んだ。


「さよならだ、フィルト」

「いやよっ。こんなの、だって――」

「ありがとう。……こう締め括るのは、ありきたり、だな」

「違うっ。まだ終わってなんか……っ。もっと話をして、それから勉強、教えてもらわないと」

「じゃあ人生の先輩らしく、こういうのは、どうだろう」


 散り行く身体は、フィルトの声が届かない。

 どれだけ叫んでも。応えは帰ってこない。

 彼の言葉だけが一方通行で。

 向けられる表情には。綺麗に模られた笑顔に対しては。

 泣いて喚いて、悲哀の感情でしか、返せない。

 そして。

 彼らしくない、彼は。


「                   」

「イヤ――」


 黒い波が、噴出した。闇よりも暗い、混沌の配色が、空間を、部屋を、フィルトを覆い尽くす。

 黒い雪のような粒子は。

 不規則に散らばって、積もるわけでも無く空気中へ霧散する。

 触れていたはずの頬から。

 その肌が、砂のように散り。その手が掴むモノは、やがて虚空に変わり。

 視界に、光が戻った時にはもう。

 そこに彼の姿は、無かった。



「―――――――――――――っっっ!!」



 声は、出なかった。

 感情を、抑えられなかった。

 悲鳴のような、残響が。

 彼女の胸に突き刺さる。

 残された彼の衣服を抱き締め。それが現実であるということを受け止めて。

 フィルトは強く、声を上げて、泣いた。

 叶わなかった願いを、悼むように。

 その想いを。吹雪に解かせて――

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