黒い煙

「今日行く家は偏屈な爺がいる家だ。大人しくしていてくれ」

「わ、分かったわ」


 翌日、二人はある民家を訪れていた。元々、フィルトの住む町は国の中心部から距離を置いた辺鄙な町にある。所謂郊外だった。丘の中腹に栄えたその町の眼下には、麓の大都市が存在しており、中腹で暮らす人々や山で生活をしている人間は、その町でモノを売り買いしている。そしてその都市から坂を上った丘、郊外からさらに外れた場所に、その家はあった。定期的に清掃をしているのだが、必要以外のやり取りは一切しない。何か尋ねようものならば不機嫌な声音が返ってくる。それだけフィルトに伝え、二人はその老翁を尋ねた。


「どうも、煙突掃除屋です」

「…………」


 扉を開けて、会話のやり取り一つせず、老翁は扉を閉めた。


「え? あれ?」

「……相変わらずだな」


 もうかれこれ三年間こんな状態だ。最早会話することも諦めている。一人慌てているフィルトを放ってスートはいつも通り、玄関から裏手へ回り、梯子に足を掛ける。


「え? ねえ、良いの? 何も言ってなかったけど……」

「ここしばらくはあんな感じでな。会話したくてもまともに出来んのが現状だ」

「……しばらくってことは、前はもっと喋ってたってことなの?」

「ああ、ここの婆さんが亡くなるまでな」


 あの常に不機嫌に見える老翁の態度が変わったのが、それぐらいの時期だった。そしてその彼の吐息が色付き始めたのも。

 屋根まで上り、フィルトを見下ろす。彼女は俯いており、その表情は窺えない。


「あのおじいさん、寂しいのかしら……」

「なんだ、同情でもしてるのか? 大切に思う人がいなくなれば、当然心に穴が開く。寂しくないわけないだろう」


 ほんの僅かな間で、見る見る痩せ細っていったのを、スートは憶えている。今は食事も取っているだろうが、それでも不健康に見えるその体躯に変化は無い。

 人里離れた場所に、ただ一人。

 それも、今まで一緒に過ごしてきた人間を失って。

 その寂しさは、スートにも計り知れなかった。

 フィルトは俯き黙りこくっている。老翁の現状を、噛み締めているのかもしれない。やがて彼女は顔を上げ、スートを真っ直ぐ見つめて言った。


「……私、ちょっとおじいさんと話してくる」

「え? おい、止めとけ」


 止める声も聞かず、フィルトは眼下から姿を消した。


「……まあ問題無いだろう」


 どうせ相手にもされず、適当にあしらわれるのがオチだ。わざわざ止めることも無い。スートは煙突掃除の準備を始める。

 太陽はもう真上に差し掛かり、冬の町を温かく照らしている。

 今日も寒くはならないなと、ぼんやり考えていたスートの耳に、フィルトの声が届いた。


「こ、こんにちは……。えーっと――」

「……なんだお前は。あいつの弟子かなにかか」


 ついでぶっきら棒な声が聞こえる。先程の老翁だ。

 誰に対してもあのような態度なのか。本当に孤独なのだろう。

 そう思い、準備をしながら、スートはそのやり取りを盗み聞くことにした。


「弟子というか、なんていうか……」

「なんの用だ」


 一瞬の間があって、振り絞るフィルトの声が響いた。


「その、空いてる時間でも構わない、ので。時々、家に遊びに来てもいい、ですか?」

「は……?」


 思わず、作業の手を止めてしまっていた。ここからでは声だけしか分からない。しかし、それを差し引いても、例え近くにいたとしても同じ反応をしていただろう。

 スートは屋根を伝って、玄関の上にまで移動し、そうして上から二人の様子を窺う。


「いきなり何を言ってるんだ」

「え? だって一人で寂しいんじゃないですか。私だって一人だと寂しいですし」

「……つまりお前は私に同情している、と。そういうことか」


 呆れた調子で言った老翁に、しかしフィルトは強気な物言いで噛み付いた。

 声だけで分かる。

 それは怒りや不満、のような感情が混ざり合ったもの。自分自身に不当な評価を下された、不服の現れ、そのものだった。


「同情なんかじゃ、ありません。有り得ませんし、私もそんな境遇ですから。全部を分かるわけじゃないですけど、ちょっとだけ。おじいさんのことは、共感出来てると思います」

「お前は、そんなに若いのに孤独を知っているというのか?」

「いえ、孤独なんて知りません。私が知ってるのは……」


 何かを噛み締めるように。フィルトは一拍置いた。


「一人でいる辛さ。いつもいる人が、そこからいなくなった、怖さ。それだけですから」

「…………」


 真剣な言葉、心に迫る態度。空間に、沈黙が訪れた。

 フィルトのことを、スートは何も知らない。しかし、推測は出来る。

 彼女の家は現在フィルトとその母の二人暮らし。父の姿は、そこにない。

 それに相当する人物がどうなったのか。亡くなったのか出て行ったのか。それは分からない。幼い時分に彼女の父がいなくなり、そうして今のフィルトが形成されているのだろう。

 彼女は子供らしく純粋で、大人らしく聡明でもある。しかし、その根本で。

 フィルトという人間は真っ直ぐなのだ。

 自分のことは控えめに、正直では無いが。他人のこととなれば、色々考えている。家のため

に働いているのもその一つで、そしてスートに対する態度もまた、彼女の性格の一つ。

 彼女はどこまでも、自分自身に不器用で。他人に対して一途だった。


「……七十数年生きてきて、お前のような子は初めてだ」


 口調は相も変わらずぶっきらぼうだ。人を突き放すような声音で、老翁はその言葉も紡いだ。

 しかし明らかに、今までとは違っていた。微細な変化。集中していなければ気が付かないような違い。

 それは、老翁が見せた僅かな歩み寄り。閉ざす心の隙間が、ほんの少し開けた瞬間だった。


「私にも、孫がいてな。お前よりも一回り年齢が離れているが、しかし。思い出したよ」


 言葉が一つ、零れた。

 スートが尋ねても、仏頂面を崩さなかった老翁。頑なに誰とも会話することを拒んできた彼の、本心から現れ出た言葉な気がした。


「……今度、孫の顔でも見に行ってみよう。何故だか、久しぶりに会いたくなった」


 スートからでは、老翁の表情が窺えない。見えるのはその背中のみ。フィルトと視線を合わせるように、彼は腰を屈めた。


「お前のおかげで、少し気が晴れた。ありがとうな」


 しっかりと頭を撫でる光景が、スートの目に映る。

 人を遠ざけていた老翁。そういった印象しか持っていないスートからすれば、驚かざるを得ない景色だった。


「い、いえ。私はまだ何も……」

「気にするな、これは私の。自己満足に他ならないからな」


 その時。

 老翁の口からそれは漏れ出た。

 黒い煙。煙突から上るそれよりもさらに黒く、淀んでいる。

 そしてそれは。

「なっ――」

「え――?」


 目の前にいるフィルトの口へと吸い込まれていく。

 一瞬の出来事だった。煙は現れたと思ったと同時に、彼女の口へと入り込んでいた。止める暇なんて当然無く、それに準ずる手立ても無い。

 スートはただ何も出来ず、当人のフィルトはただぼんやりと。その起こった出来事を眺めていた。


「……どうかしたか?」

「え? あれ? 今……」

「なにかあったのか?」

「……いえ、何でも無い、と思います」


 老翁はそれに気が付いた様子も無く。フィルトの返答は地に足が付いていないような、そんな調子だ。


「……まずいな」


 スートの声を、聞く者はいない。彼を少しでも知る者ならば、その声音がおかしいことに気が付いただろう。それは彼が久しぶりに見せた動揺だった。

 彼の声は不自然に上ずり、加えて焦燥が含まれていた。

 どうにかしなければならない。

 しかし、今はどうすることも出来ない。


「さすがに、大丈夫だろうが……」


 気を揉んでいても仕方がない。

 そもそも。

 黒い煙が出た、その結果自体は喜ばしいものなのだ。

 そうして無理矢理自分を納得させ。

 スートは、未だ会話を続けている二人に気を取られながらも、煙突掃除に取り掛かった。

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