煙突掃除
翌日。実際勉学が始まると、フィルトは驚くほど熱心に励み、知識を吸収していった。
少年が使っていた言語の基礎も、軽々と理解し、朝から夕刻。予定していた一週間、どころか、丸三日で話せるレベルにまで達している。それまで学ぶことが出来なかった分を挽回するように。
彼女は僅かなことでも飲み込んでいった。
「正直驚いたな。まさかフィルトがそんなに勉強出来るなんて」
「そうかしら。別にこれぐらいは簡単なことじゃないの。だって基礎でしょ?」
「その基礎で躓く人間がいるから驚いているんだ。まあ合っていたんだろう。言語を使うことに」
フィルトがその言語を習っている間も、スートが念のため持ってきていた別言語の書物にも、興味を示していた。何事にも適合というものがある。彼女が興味を示したものが、偶然にも合致しただけなのだろう。
それでも彼女の情報吸収能力には舌を巻くが。
「ふむ。しかしこれだけ出来ればあの少年を見返すことも出来るだろうな。俺が教えることは、もう無いよ」
「え……?」
時計を見て立ち上がる。もう五の時を回っている。家庭教師として今ここに居るのは、本職のため。煙突掃除に取り掛からなければならない。給金は既に貰っているので、やらないわけにはいかなかった。
「それじゃあな。その書物はくれてやるから、しっかり復習するんだ」
「え、うん。……あのっ」
半ば緊張したような、乾いた声が室内に響いた。スートの意識がフィルトに向かう。
「えと、その……ね」
フィルトの視線があちらこちらへと飛ぶ。スートを見たかと思えば、すぐに目を逸らし、また目を合わせる。
何往復しただろう。声を掛けようか迷い始めた頃合いで、フィルトが再び声を上げた。
「その、煙突掃除。見てもいい、かしら……?」
不安と躊躇いが入り混じる瞳を向けながら、恥ずかしげに彼女はそう呟く。
何をそんなに緊張しているのか。スートは疑問符を頭に浮かべながら、しかし首肯して見せた。
「ああ、別に構わんが。見ても大して面白いものでもないぞ」
「ほんとに!?」
そんなに嬉しかったのか、燻っていた表情を笑顔に変え、フィルトは勢いよく立ち上がった。煙突掃除の仕事など、見ていても何をしているのか具体的には分からない。基本的にはワイヤーとブラシを使った清掃活動に過ぎない。見学する価値など皆無だ。
それにもかかわらず、煙突掃除を見たいというのは、どういった風の吹き回しなのだろう。あれこれ考えるが結論は出ない。
「とりあえず始めるか」
餌を待つ子犬のように、というのは流石に意訳し過ぎだが、どこか嬉しそうな彼女を引き連れて、スートは一先ず外に出た。
辺りは薄暗く、闇が空を覆い始めているが煙突掃除には大した影響はない。基本的に汚れは煙突の中のものだけを取り除くので、周囲が見えなくても困りはしないし、例え日が照っていても煙突内は常時暗くてよく見えない。
煙突掃除屋という職業は、時間帯による変化は特にない。それでも今日はいつもと勝手が違う。フィルトのこともあるので、スートは適当なランプを拝借し、火を点けた。微かに闇が、拭われる。
「さて、屋根に上る前に、注意しておかないといけない事があるんだが。フィルト、この縄を持っていろ」
「……なにこれ?」
彼女に渡したのは親指程度の太さを持つ縄。それが二メートルほどの長さ。フィルトは困惑した表情をこちらに向けた。
「落下防止用のロープだ。冬の屋根は滑りやすいからな。これを煙突に引っ掛けて事故を予防する。さて、日が沈み切らないうちに終わらせよう」
何度か強度や長さを確認しているフィルトを置いて、備え付けられている梯子に手を掛け、上る。案の定、屋根の上は滑りやすく、スートは手早くロープを掛けた。
「ちょ、ちょっと。置いていかないでよ」
やや遅れてフィルトが顔を覗かせた。時間を掛けて、ゆっくりと屋根に身を乗せる。
「なんだ、屋根に上ったことはないのか」
「あ、当たり前でしょ。煙突に用事があることなんてないし。べ、別に高い所が怖いとかじゃないからねっ」
「あー分かった分かった」
屋根の上でに丸く寝そべったまま強がっているフィルトの身を起こしてやり、その腰に先程のロープを巻いた。それを煙突へと引っ掛ける。
これでとりあえず準備は整った。
「まあ立てないならそれでも構わないが、無理に動くなよ。落ちるから」
「う、うるさいわね。分かってるわよ……」
口調は相変わらずだが、目に見えて気分は落ちていた。不慣れな環境の所為だろう。それならば無理に付いて来なければ良かったのではないかと、思わないでもないスートだったが、言えばそれはそれで面倒なので何も言わない。
横目でフィルトを捉えつつ、黙々と清掃準備に取り組む。ただブラシを煙突内に入れ、ワイヤーを伸ばすだけだが。
そうしていよいよ煙突掃除だ。ワイヤーを入れ込み、煙突内の壁面をブラシで擦る。汚れが取れる感覚が、肌に伝わってきていた。
「ね、ねえ……」
「ん、なんだ?」
ゴリゴリと、汚れを落としながら声だけで返す。一応横目で見張ってはいるが、彼女がどのような表情から話し掛けたのか、それは分からなかった。
「どうして、煙突掃除屋になろうなんて思ったの? 他に仕事なんていくらでもあるでしょ? 例えば、教師、とか……」
「んー……」
手を動かし、時にはワイヤーを伸ばしたり引いたりしながら、考える。
世の中には様々な職業がある。
農業で生活している人間もいれば、人を取って食うことを生業としている人間もいる。人を助ける職に就いている者もいれば、人間の死を看取ることで金を貰っている存在もいる。空いた穴を塞ぐように。痒い所に手が届くように。物事一つ一つ、全て何もかもにそれぞれの得意分野を職業としている輩はいて、その数だけ職がある。
煙突掃除屋という職も、その中の一つ。
煙突を掃除する、ただそれだけ。この国の要である煙突、そこにこびり付く煤を払い、通しを活性化させるための仕事だ。自らが身体を汚し、その家に快適な暮らしを提供する。その給与と言えば決して高額ではない。それに就く適性さえなければ、その職を選択する人間は少ないだろう。
スートも煙突掃除屋などに、興味は無かった。ただ成り行きでそうなっただけの話。何かに感銘を受けたとか、そんな良い話は、特に無い。
それをフィルトに伝えると、納得していないような相槌で返された。
「じゃあ辞めればいいのに。なんで続けてるのよ」
「んー……」
またも考える。作業を続けながら、適当な回答を模索する。
何故この仕事を続けているか。もちろん転職を考えたことが無いわけではなかった。薄給で、汚れてしまうこの仕事に、未練があるはずがない。
それでも、今ここで仕事をしているのは。それに大した文句が生まれないのは。
「人が、救えるからだ」
「救うって……、煙突掃除で?」
「そうだ。何も掃除だけが煙突掃除屋の業務内容じゃないからな。それに俺に備わっている能力で、誰か一人でも救うことが出来るんだ。一石二鳥だと思わないか」
「大げさじゃないかしら。だって汚れを落としてるだけじゃない」
「まあ、そうだな」
的を射すぎた返答に、苦笑して見せる。
煙突掃除屋は汚れを落とす。そこに間違いは無い。
しかし。
それだけでもないのだ。
「汚れを落とせば、人は幸せになった気がする。掃除する意味なんてそんなものだからな。それを代行して、人に満足してもらう。救ってると言ってもいいだろう」
「うーん。まあ、そうかしら」
それでも納得していないような声を出しながら、しばらくその場に沈黙が降りた。
今日は風が無い。作業を続けながらスートは空に視線を移す。
落ち掛けの日はその光量を弱め、星々の煌めきを際立たせている。冬に訪れようとしている夜は、糸を張ったように静かで、雑音は全て溶けて行く。
この時間はいつも、その到来を予兆させた。
その間も掃除はし続ける。手前から奥へ、ブラシを擦らせ磨いていく。
喋らなくても別に構わないが、普段は一人でやる仕事だ。こういった機会もそうそう無いだろう。スートは横で視線を送り続けているフィルトに声を掛けた。
「フィルトはどうしてこの仕事を見たいだなんて言ったんだ? つまらないだろう、掃除しているだけの作業なんて」
横目で反応を見ながら、手を動かす。声を掛けられるとは思っていなかったのか、フィルトは困惑しながら、声をくぐもらせて答える。
「い、意味なんて無いわよ。ただ興味があっただけなんだから。そ、それよりもっ。スートこそ何のつもりよ!!」
「ん? 何がだ」
「き、前にあんた言ってたでしょ? お前が気に掛かるとか、何とか……」
最後の方が尻すぼみになっていた。ただ、何を聞きたいのかは理解出来た。
彼女の顔、特に口元に焦点を合わせ、それを確認する。
スートはまた少し考え、口を動かした。
「言葉通りだ。フィルトのことが気になると、そういった意味なんだが……」
厳密には彼女の容体なのだがと、そこで気付く。恐らく彼女が勘違いしているであろう事項に。
「ああ、お前さんもしかして。俺が言った気になるって言葉、なんか勘違いしてないか? 例えば、俺が少なからず好意を抱いている、だとか」
固いものとがぶつかり合う音が響いた。その前に滑った音も聞こえた。さすがに顔を向けると、フィルトが額を抑え蹲っている。目を凝らして見れば、その耳は赤く染まっている。
思わず溜め息が漏れる。
声を掛けるべきか迷うが、決断を下すよりも早く、彼女は復活を果たしていた。
「か、勘違いしてるわけないじゃない!! なに言ってるの? そう思っていて欲しかったの? そ、そんなわけないでしょ!? ちょっと年上に憧れてなんていないんだからっ」
「お前さん、分かりやすいな……」
とりあえず怪我の心配は無さそうだった。ただ作業を再開しても、言い訳の羅列が止まらないのは勘弁して欲しいところだ。特別気を遣う仕事でも無いが、集中力とやる気が削がれる。
しばらく無視していると、隣の雑音も止み、冬の静寂が訪れる。
その後もしばらく作業を続け、やがて煙突掃除は完了した。
「よし、これでしばらく掃除しなくても良いだろう。暖炉の効き目も良くなる」
「そ、そう」
「……どうした? 元気がないじゃないか」
そう思い見やると、額の赤みはそのままに、彼女の表情は暗く沈んでいた、ように見えた。ぶつけた衝撃で具合でも悪くなったのだろうか。
不思議そうに、スートはフィルトを眺める。
「何でも、ないわよ……」
明らかに何かあるだろうが、本人が否定したのだからそれ以上の追求はしない。潔く、掃除道具を片付ける。
そうして、それが丁度終わったタイミングで、フィルトの声が掛かった。
「……ねえ、明日は、どうするの?」
「どうしたんだ、突然」
「な、何だって良いでしょ。三日間ずっと勉強教えてもらってたけど、それもこの煙突掃除のためで……。その、明日はなにか予定でもあるのかなって、思っただけだから……」
「いや、明日は特に予定はないな。いつも通り仕事だ」
そう、と。溜め息交じりにフィルトは言葉を漏らした。
質問の意図は大体察することが出来る。何かしら遊びや勉学に付き合わせようと思っていたのだろう。
三日前に比べると随分懐かれてしまったなと、内心苦笑を溢す。
しかし、これで良いのだろう。
人々を救う為と、曲がりなりにもそう言ってしまった手前もある。
後悔は微塵もしていなかった。
「あの……っ」
「ん?」
スートの立つ位置からだと、フィルトを見下ろす状態になる。視線だけを落として見れば、喜怒哀楽のどれでもない微妙な表情を浮かべる彼女の姿があった。
「明日、私もその仕事に付いていってもいい、かしら……」
「……そりゃあ構わないが。どうしてだ?」
「え、いやだって。私、明日も仕事は無いし。煙突掃除の仕事を見る機会なんてそうそうないし。何やってるのかってまだよく分からないし。……それに――」
何か言い掛けたようだったがそれ以上は続かない。後はスートの言葉を待っているようだった。
頭を掻き、嘆息を一つ。思わぬ荷物だが、答えは先程と変わらない。
「……好きにしな」
そう言ってやると。
フィルトの表情が、夜の到来に明るく弾けた。
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