親の心子知らず
「ねえ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
老翁が住む家の煙突掃除を終え、フィルトの家へと向かうその道中で彼女が尋ねてきた。
スートは立ち止まらずに、ただ視線だけをそちらに向ける。
「分かっている。黒い煙について、だろう」
「……あれ、なんなの?」
やはり。
フィルトには黒煙が見えている。老翁と話している時の反応からも、それは分かっていた。煙突掃除屋以外で、この煙が見える人間と出会ったのは初めてだ。スートはそちらの方を彼女に尋ねたかったが、期待する返答は得られないだろう。
かと言って、正直に全てを話すわけにもいかなかった。
「視えているんだな……」
「……普通は見えないものなの?」
「ああ、普通はな。だからあまり他人には言うなよ。変な目で見られるぞ」
「なんなのよ、これ……」
フィルトが手の平に息を吐く。その息は黒く、しかしすぐに空気に溶けていく。
目に見えて取り乱したりしていないのは、変に大人っぽい彼女らしくはあったものの得体の知れないものを見る恐怖はあるようで、彼女の表情は強張っていた。
当然だろう。口から出る息は通常白く、それが常識となっている。しかし彼女や老翁が吐いた息は漆黒に染まっていた。禍々しい、人を不安に落とす輝き一つ無い純黒。その光景を見て、驚くなという方が無理な話だ。
もう話さないわけにはいかない。見えていないのならば、それはスートの救出対象になるのだが、その当人が見えているのならば、知らないだけでは通せない。
「そうだな、何から話すか……」
「あら、スートさんじゃないですか」
そこで背後から、聞き覚えのある声が掛かった。振り返り、スートはその姿を認める。
「お母さん、どうしたの? 仕事は?」
クレア=プレフィ。
フィルトの母がそこにいた。
彼女は柔和な笑みを浮かべ、のんびりとした様子でフィルトの質問に答える。
「ううん。今日は仕事を休んでね。これを貰いに行っていたのよ」
「――っ!! これって」
フィルトの母が取り出したのは数枚の紙切れ。その一枚を手に取ったフィルトの眼が見開かれた。
上から覗き込むとそこに書いてあったのは。
「復学届、ですか」
「そうなんです。お金にも余裕が出て来ましたし。何より前々からそうしようとは思っていたんです。どうかしら、フィルト。復学するつもり、ある?」
本人はじっと、その書類に目を通し何かを考えているようだった。行きたくないわけでは無いだろう。行ける機会があるのならば、是非通いたいはずだ。
ただフィルトという少女は。何も目先のことだけを考えて結論付けるわけではない。
案の定、次に彼女が紡いだ言葉がそれだった。
「お金が貯まったからって、そんな余裕はないんじゃないの? 私には、仕事もあるし……」
「仕事はまた気が向いた時に来れば良いって。局長さんが言っていたわよ?」
「お母さん郵便局にまで行ったの?」
どうやらフィルトの仕事先にも出向いていたらしい。なるほど、こうしてフィルトの退路を断つわけだ、と。感心しているスートを他所に、フィルトはそれでも悩んでいた。
彼女は学舎、というよりも学ぶことへ意欲を示している。本来学舎へは、そういった子供が行くべきなのだろう。
「行けばいい。そういった環境になったのならば、受け入れるべきだろう」
「でも……」
「でもも、何も無いだろうよ。部外者である俺が口を出すのもどうかと思うが、学舎に通えば俺が教えた量の数倍の知識が手に入る。人間的にも成長する。行ける時に、行っておかないでどうする」
まあ結局は本人の意志次第だ、と。そう締めくくる。
その言葉がきっかけだったかどうかは分からない。しかし彼女は、何かを決意したような意志をその瞳に映して、フィルトの母に向き直った。
「本当に、良いの?」
「良いわよ。遠慮することなんて、何一つ無いんだから」
「……そう」
返事は素っ気無く、ただその表情は喜びに変わる。
家のこととなると、自分のことは表に出さないフィルト。感情の昂ぶりにより垣間見える本音こそあるが、何もかもを正直に話す彼女を、スートは知らない。
「あ、そうだ。友達に復学するって言わないと。それに色々準備もしなきゃ」
幾分嬉しそうな声でそう言ったと思えば、彼女は駆け出していた。既に先ほどまで話していた黒い煙のことは忘れていそうだ。その辺りは未だに子供っぽいなと、走り去る後ろ姿を見ながらスートはぼんやりとそう考える。
「ありがとうございます」
「ん? なにがですか? 俺は煙突掃除屋としての仕事を全うしているだけですが」
柔和な笑みをこちらに向けているフィルトの母から、お礼を言われる憶えもない。苦笑しながらそう返す。
「いえ、スートさんと出会ってから、あの子は明るくなりましたよ。夫が死んでからずっと気分が落ちていた様子で、あんな表情を見るのも、何時ぶりか。この三日で、あの子生き生きとしています」
「いえ、俺は何もしていませんよ。変わったのはフィルト自身の意志です」
この三日間で、確かに彼女の顔色は良くなったと思える。明るさが増したというか、年相応な元気が戻ったというべきか。
とにかく、スートの眼から見ても、フィルトは成長していた。
「それでですね。折り入って頼みがあるんですけど」
「はい?」
「学舎に通うまでの間、あの子に勉強を教えてやってくれませんか。もちろん、賃金は払いますから」
黄昏時、スートは遠くに見えるフィルトの姿を捉える。
どうせ彼女とは一度話し合わないといけない。その機会が貰えたと思えば、フィルトの母の提案は好都合だった。
「分かりました。ただ、煙突掃除屋は原則副業が禁止されていますので。賃金の代わりに昼食や夕食を厄介になる、それでどうでしょうか」
「ええ、ええ。分かりました。ありがとうございます」
やがてフィルトの母は歩き始めた。影が長く、彼女の足元から伸びている。
「あの子のこと、よろしくお願いしますね」
そう言った彼女の表情は、やはり柔和で。
恐ろしいほどに落ち着いていた。
その翌日だった。
フィルトの母が倒れた、と。
スートが聞いたのは。
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