第二章 煙突掃除屋の仕事

私は何も知らない

『人の命は煙霞と儚く、されど天へと舞い上る』


 男が放った言葉が、今でも再生される。

 何処となく父と似ていた。

 見た目は三十かそこら。無精ひげは生えているが、顔付きはさっぱりと小奇麗で整っている。髪の色は白。雪のような白ではなく、雲のような翳りがあった。

 その男は、自分のことを煙突掃除屋だと名乗った。

 全身は黒い衣服に身を包み、肩に担いでいるのはワイヤーに繋がれたブラシ。確かにそれは煙突掃除屋の特徴そのものだった。

 この家の煙突を掃除しに来たのだと、男はそう言った。


 煙突掃除屋は、あまり好きでは無かった。それはかつて父が就いていた職業。時折黒く汚れて帰ってきていたことを、思い出すことが出来る。父が煙突掃除屋だと、知らされたのは随分と後のことだったが。

 嫌いとまではいかない。何となく、好きになれなかった。

 だから咄嗟に不審者だと、そう声を掛けてしまった時は。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 煙突掃除屋だと初めから分かっていたし、悪い人などでは無いと、理解だって出来ていた。

 こちらが名乗っていないのに偉そうに、名前を尋ねる時はまずは自分の方からだと、そう言ってしまったのも負い目だった。


「俺の名前はスートだ」


 握手を求められた時も、それまでの失礼な態度から、握り返すことも出来なかった。ただそれで男が嫌な顔を見せたわけでもなく、寧ろ色々と気を遣っていたようにも見えた。

 家に何人で暮らしているのか、それに何の意味があるのか分からなかったが、それもまた気を遣った結果なのだと思えた。

 ただ。


「お前さん、今は楽しいか?」


 その最後。男が帰る前に呟いた言葉。

 それに応えることは、結局出来なかった。

 それから。

 夕刻、クラスメイトが絡んできていたところに彼は再び現れて、よく分からなかったが彼らを逃げ帰らせた。

 その時も、やはり気恥ずかしかった。昨日の今日で、どうしたって普通に話すことも出来ない。結局、追い払ってくれたのにもかかわらず、ろくにお礼を言えずに、強気な態度を取ってしまった。

 それでもやはり、男は距離を置いたりしなかった。どうしたらいいのかも分からずに、他人行儀な態度にもなった。それでも男の様子に変化は無かった。物怖じしない態度、それと不器用だが気に掛けてくれている姿勢。

 それらが、亡くなった父を連想させる。

 僅かに表情は冷たいが、それでも言葉の端々からは温かさが漏れている。

 だから。


 勉学を見てくれるとなった時、嬉しく思ったのだ。それは翌日になってからだったが、父に似た雰囲気を持つ人と会うのは、苦痛では無く。

 興味とほんの僅かな憧れが、確かに芽生えていた。

 もちろん語学にも関心はあった。クラスメイトにこれ以上良い顔をさせないためにも、自分自身の探求心のためにも。男が持ってきた書物を読み、勉学に励んだ。

 言葉は不思議だ。それだけで意味を持つし、人の心を動かすことだって出来る。

 父もまた、そんな人間だったことを、思い出す。やはり、父と男は似ているのだ。

 そんな彼と過ごす時間を、少しでも増やしたかったのかもしれない。だからその時、無茶を言って仕事を見学させてもらった。ただそれもすぐに終わる。

 もっと煙突掃除という仕事を知りたくて。それに、彼ともう少し話したくて。その翌日も彼と会う約束をした。

 自分自身でも、相当必死だったと思える。こんなに何かを追いかけようとしたことは、無かった。


 そしてその当日だ。

 黒い煙を、間近で見る事になったのは。機嫌が悪そうな老翁が吐き出したそれ。有無を言わさずに、口へと入り込んで。

 飲み込んでしまった。

 ずっと幼い頃から見えていたが、吸い込んだのは初めてだった。その後も変わった点はなかったが、仕事が終わった男にその正体を尋ねなければならない。

 男にも自分自身からも、そして父からも吐き出されていたそれは。

 一体どういうものなのか。もしかしたら自分以外には見えていないのかもしれないという、不安はあったが、勇気を出して言葉にした。

 ただそれも、母の登場と復学届によって、遮られてしまった。

 結局。

 煙突掃除についても。

 彼についても。

 何も分からずに。

 翌日を迎えることとなった。

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