同業者
フィルトが病院に着いた頃には、既に昼は回っており、冬らしくない暖かさが満ちていた。陽射しは強くも弱くも無い、ただそれは痺れるような寒さを和らげる緩衝材となっていた。
木造の、所々色の違う床板を踏み締めて、階段を駆け上がる。すれ違う看護師や入院患者が何事かと振り返るが、そんなことを気にしている余裕は、少女には無かった。
町で最も大きな病院。仕事中に倒れた母がそこに運び込まれたと、そう知らされたのは昼と呼ぶには早い時間のことだった。そこから先はよく覚えていない。母が倒れたと、そう言いに来てくれた母の仕事先の人を放り出して、無我夢中で駆けていた。
スートが昼頃に尋ねる予定だったが、そんなこともどうだって良かった。ただ、母が。またも大切な人間が黙って、この世から消えてしまうのではないかと、その焦りが足に力を付与させる。その恐怖が、彼女の足を動かしていた。
そうして辿り着いた病院。どうやってここまで来たか、ぼんやりとさえ覚えておらず、走って来たのか、それとも馬車に乗って来たのか。最早、どうだっていい。病院内で走ってはいけない規則も、気にしていられない。フィルトは逸る気持ちを抑えることもせず、受付で聞いた母のいる病室、その扉へと手を掛けた。
「お母さんっ」
果たして。
母はそこにいた。ベッドに横たわり、こちらへ向けたその表情は一瞬、驚きのそれに満ちたが、やがていつもの柔和なものに戻った。
「あら、もう来てくれたの」
フィルトの母がそう言った。いつもの、優しい口調。それはこちらに向けられた言葉。無視するわけにもいかなかったが、それよりも。
フィルトの視線が、そこに固定される。
黒い帽子、黒い外套、黒いシャツに黒い靴。肩にはワイヤーがついたブラシを掛けており、それだけで、そこにいる存在がどういった職に就いているのかが分かる。
煙突掃除屋。
スートとはまた別の、この国特有の職業を持った人間が、母の隣に佇んでいた。
「あんた、誰……?」
「この子が、クレアさんが言っていたお子さんですね」
室内に響く穏和な声。少女のようなあどけないものではなく、歴とした成人女性の落ち着いた声音。静かなようで、よく通る。
外見は綺麗、ただその一言に尽きる。美しい、のではなく綺麗なのだ。決して高嶺の花などではなく一緒に居て気持ちの良いような、変な緊張を誘発しない、そんな整った顔立ちだ。当然、そこからも落ち着いた大人の女性らしさを漂わせている。
警戒心よりも何よりも、しばらく見惚れてしまっていたフィルトに、その女性は笑顔を向けた。
「ごめんなさい、まずは自己紹介が先よね。私はフレス。この恰好を見て貰えれば分かると思うけど、煙突掃除屋をしているわ。よろしくね」
「私は、フィルト……」
そうして向けられた笑顔に、フィルトはどう応えていいのか判断出来なかった。戸惑いながらも自己紹介で返したが、彼女の心中を埋めるのは困惑、そしてそれは顔にも出ていたのだろう。フレスと名乗った女性が苦笑い浮かべた。
「まあそりゃあ驚くわよね……、何から説明すればいいかしら」
フレスが嘆息を一つ吐いた。
一体どうして煙突掃除屋が母の病室にいるのか。
母の容体はどうなのか。
フィルトとしても何から尋ねれば良いのか、思案していると。女性の吐く息が目についた。
その息は黒く、やがて周囲の色に馴染んで消える。
フィルトにとって、それは見慣れた光景だった。
「フィルト、お母さんは大丈夫よ。少しお医者様に働き過ぎだって言われたんだけど、それ以外はどこも悪くないから」
沈黙を破って、母の声が病室内に通る。母には、見透かされているのかもしれなかった。柔和な笑みを崩さないまま、優しい瞳をフィルトに注ぐ。それに対して、彼女は何も返せない。
「だからそんな心配そうな顔、しないでね」
「……分かったわ」
それを言うだけで、精一杯だった。命に別状はない、そこには確かに安堵したが。しかしフィルトの胸につっかえた不安は拭えない。
嫌な予感とでも形容出来るだろうか。ここにいるフレスとクレア、二人はその穏やかな表情から変わらないが、ここにある空気は、何処か独特で。
嫌な冷たさがあった。
それは錯覚かもしれない。冬の外気が、室内にまで入り込んできているのかもしれない。結局、その違和が何を意味しているのか、フィルトには分からなかった。
どれほど静寂が続いていただろう。不意に、フレスが声を掛けた。
「えーと、フィルトちゃん……って呼んでいいのかな?」
「……別にどう呼んでもいいけど」
「うん、それじゃあフィルトちゃん。どうして煙突掃除屋がこんなところにいるのか、不思議に思ってないかしら。だから多分、色々心配そうな顔になってるんじゃないかって、私はそう思うんだけど」
「それは……」
ずばり言い当てられ、フィルトは思わず俯いた。
この病室には暖炉はある。冬の寒さは、それ無しでは乗り越えることは出来ない。
ただ彼女の様子では、掃除をしに来たようには見えないのだ。そもそも、煙突掃除として訪れたのならば、室内にいることがおかしい。
つまりそれ以外。
煙突掃除では無く、フィルトの母に用事があって、フレスはここにいるのではないだろうか。
「私はたまたま通り掛かっただけなんだけど。貴女のお母さんが運ばれる時に偶然居合わせてね。それでここまでついて来ちゃったのよ」
「……そう、なの?」
喋るフレスから視線を、母クレアへと向ける。表情は変わらないが、母もそれを否定していない。
本当なのかもしれなかった。
「それに私は、貴女のお母さんの病気を、治せるからね」
「……? それってどういう――」
「さてね」
付け加えるように放たれたその言葉。その真意を問いかけるよりも先に、フレスは扉の方へと歩み始めていた。
止める言葉も、止める意味も見当たらない。ただ黙って、視線だけでフレスのことを追い続ける。
だから。
すれ違う直前。
「貴女も私が、救ってあげるから」
咄嗟に掛けられたその言葉に、振り返るだけで精一杯だった。
扉はフィルトが開いたまま。廊下を通る人たちが見えるこの位置で。
目に映る光景は、謎の煙突掃除屋の女性。
それと。
「なんだ、フレスじゃないか」
同じく黒尽くめの男。ここ数日で、顔も名前も憶えてしまった、見慣れた存在。
「あら、こんなところで偶然ね」
スートが、扉口の前に立っていた。
いつも通り光彩の無い瞳に、いつも通り何処か憂いさえ感じる表情を携えて、彼はそこにいる。
「……」
幾らか強張った表情が、解けていく。
スートが来ただけで。
フィルトの心、周囲に流れていた独特の空気。それらが入れ替わった心持ちになれた。
「偶然でも構わないのだけど、どうしてこんなところに?」
「いやな、フィルトの親御さんが倒れたって聞いてな。お前こそどうして」
「私はただの通りすがりよ。それと、見かけてしまったから」
「……なるほど」
二人が交わす会話は、何を意味しているのか理解出来ない。同業者で確認し合うこともあるのだろう。フィルトは無理な詮索は止め、聞き流すことにした。
「でも、そうね。あなたがいるのなら話が早いわ」
「お前まで首を突っ込むのか」
「いやいや、分担しましょうという話よ。その方が効率的だし何より負担を減らせるからね。それに――」
スートから視線を外し、フレスは振り返った。
「……?」
視線がぶつかる。彼女はそっと、静かに笑い、またスートの方へと向き直った。
今のは何だったんだろうか。言葉を交わすわけでも無く、ただ確認するかのように振り返っただけ。
その疑問が晴れることはなく、二人の会話は次へと進む。
「大丈夫よ。横取りとかはしないから」
「なにが横取りだ。しかし、手伝ってくれるのならありがたいか」
「そうでしょ? さすがに今すぐに、とはいかないけど」
そんなやり取りが続いた後、フレスは再び振り返った。今度は首を回して顔だけこちらを向けるのではなく、踵を返すように、全身を室内へと向ける。
視線が奥の母、それから手前にいるフィルトへと移り変わっていくのが分かった。
「それではクレア=プレフィさん。フィルト=プレフィちゃん。お大事に、それからさようなら。恐らくまた、窺うことになりますので」
黒い帽子を持ち上げ、軽い会釈をする。流れるようなその所作の後、彼女は外套をなびかせ颯爽と立ち去った。
その間も、フィルトは何も言えない。
恐怖や困惑、不信感で口を開けなかったわけでは無い。ただ呆然と、嵐が通り過ぎていったかのように、その光景を眺めることしか出来なかったのだ。尋ねたいことは確かにあったが、結局は言えずじまい。
現れたと思えば、そこに彼女の姿はもう無かった。
「悪かったな、同僚が騒がせてしまったみたいで」
「え? いや、私は別に……、大丈夫だけど」
突然の来訪者には驚かされたが、彼女もまた悪人ではなさそうだ。それよりもろくに会話が出来なかったことの方が、よっぽど悔やしかったりする。
今度会った時は、もう少し話してみようと。そう心に決めながらフィルトは、入室してきたスートの後に続いてベッドに近付いた。
改めて、そこに寝かされている母を見る。
母はいつもと変わらない表情。倒れてしまったことへの申し訳なさこそ見られるものの、悲しみや憂いといった顔つきはしていない。
笑顔で。優しい瞳を以てフィルトを見ている。
ただ病院という場所の違いを除けば。それは日常で、ありふれた光景だった。
「お母さん、無茶したんでしょ。やっぱり、私の稼ぎだけじゃ足りないから……」
「違うわ。フィルトは本当によくやってくれてる。感謝してもし切れないくらいに、あなたは頑張っているわ。本当に、家のことをよく考えてくれてる」
怒るでも咎めるでもなく、落ち着いた声で諭すように。母が笑う。
本当にどこが調子悪いのか、もしかしたら大したこともなく寝不足だっただけなのではないかと、そう思えてしまう。
それ程に母は、家と全く分からない様相だった。
「でも、やっぱり……」
「クレアさん、あまり無茶はしないように。娘さんが心配しますから」
例え母がいつも通り変わりなくても、倒れた事実に違いは無い。それが仕事によるものなら尚更、放っておくわけにもいかない。現状打開はやはり自分が働くこと。フィルトがそう言い出そうとした時に、スートがそれを遮った。
「大丈夫ですよ。娘さんが心配なのは分かりますけど、それを気にし過ぎるともっと悲しい結末を迎えることになる。この子は、強い子ですから」
「え? 私……?」
肩を叩かれスートを見つめる。顔の変化は乏しいが、冗談を言っている様子では無い。
目の前で自分のことを褒められると、何処となく気恥ずかしい気持ちになる。フィルトはその手を払い、彼から目を逸らした。
決して、改めてスートの顔を見たからだとか、肩に手を置かれたことを意識し始めたからではなく。
そんなことでは断じてなく。煩わしかっただけなのでそんな態度を取ったのだと、そう自分を言い聞かせる。
「まあ、正直ではありませんけどね」
「ふふ、そうですね」
くすぐったい。この暖かさが、この温もりが、この陽だまりが。
視線を何処に向ければいいのか分からなくなる。頬が熱くなるのが分かったが、それは自分にはどうしようもなく、ただ無意味な抵抗としてその二人から目を背けるように、そっぽを向く。
「さて、貴女の身体は先程の彼女に任せるとして――」
「……ん? どこ行くの、スート」
気付いて振り返れば彼の姿はそこにない。いつのまにか扉に向かって歩いているスートが、それに応えるように向き直った。
黒い外套が揺れ、色の無い眼がこちらに注がれる。
なんとなく、フィルトはその表情が読めるようになってきた気がしていた。全ての感情を看破したわけでは無いが、多少の起伏や喜怒哀楽、それぐらいならば瞳や微妙な表情変化から推測出来る。
例えば病室でフレスという女性を見た時、驚いた様子だった。フィルトを褒めた時は嬉しそうだった。
そして今。
フィルトを見る視線、そこに込められた感情は。
「何処って、町を見て回ろうと思ってな。お見舞いの品も、買わないといけないからな。お前さんも、付いて来るだろう」
楽しみを見出した子供のような、言葉で表せばそんな表情を、無感情な瞳に讃えていた。
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