エピローグ
雪は解け、世界は息吹く
『人の命は煙霞と儚く、されど天へと舞い上る』。
大切な人が言った言葉だった。初めて聞いたのは父から。口癖のように言っていたのを、思い出してみれば憶えていた。
その後、当たり前のようなものとして、学舎でも学んだ。教訓というものに近い、国民に刷り込まれた言葉だと知った。その時点で、意味は分からなかった。ただなんとなく、そういった考え方があると教えられて、そういうものであると常識付けられた。
それから、次に出会った煙突掃除屋も、同じことを言っていた。特に、学舎で学ぶよりも彼の言葉は印象に残っている。
これまでの生涯、と言ってもたがだか十数年。その言葉の意味を分かっていなかった。もしかすると、今でも分かっているつもりでも、間違って認識しているのかもしれない。
けれど、なんとなく。彼らが何を言いたかったのか、全てを理解したわけではなくても、推察を立てることは出来る。
人の命は、儚い。それは知識としても、経験としても、十分に知っていること。そのことを嘆く人間もいる。もっと生きたいと願う人も多い。生を渇望するのが、大半だ。
ただ、満足して死を迎える。そういう人間であることが大事だと、その言葉は示しているのではないか。
天へと舞い上る。死に至って尚、幸せな土地へと誘われることが、不幸せなはずも無い。誰もが生きる世界からは消えても、未練が無ければ、それは良い人生だったと。
彼らは言うのだろう。
人を助けて、人を救って、人を守って、人を治して、人を正して、人を戻して。
赤の他人であるはずなのに。自らの身を犠牲にして、どうしようもない病を取り除いて。それでも最後に、不幸だとは嘆かない。
綺麗ごとを並べたその言葉が、実は好きだったりする。
特にそれは。
彼の遺言のようなモノだったから。
■
「忘れ物ないかしら。ちゃんとお父さんの、持った?」
「大丈夫。これが無いと意味ないから。使うかは分からないけど、忘れずに持ってるわよ」
快活な声が、響く。家の中で交わされる会話は、物音少ない近隣にまで届いていた。
「それじゃあ行ってくるわね、お母さん」
一人の少女が、玄関扉を開けて外に出る。少女、と言っても。歳は十五か十六そこらだろう。目鼻が整った顔立ちの彼女は、春の陽気のように、浮かれていた。
髪は赤。肩口で切り揃えられているその髪は多少ぼさついていて、所々が跳ねている。吊り目で、一目で気が強いと分かる相貌は、女性らしい魅力に溢れていた。
軽い足取りで歩く彼女は、道行く人へ微笑む。愛おしむように、慈しむように。上機嫌で、歩み行く。
すれ違ったその内の一人が、声を掛けた。年老いた女性で、彼女の隣に住む人だ。
「あら、フィルトちゃん。今日からだったかしら。頑張ってね」
「ええ、はい。でも、頑張るって言っても、何でも屋みたいなものですから。まだ何をするとか、決まっても無いですし」
「そうなの、でもその恰好……、そうだ。調子が悪くなった時はよろしくねえ。私、アレは使い方分からなくて」
「分かりました。またその時は気軽に声を掛けて下さいね」
気軽に話し掛けてくれる人もいれば、不思議そうに見返してくる人もいる。
やけにご機嫌な少女に首を捻っているわけではない。
それは彼女の服装が、そうさせていた。
「しばらく、この景色ともお別れね」
丘の上から、眼下に広がる光景を眺める。三大都市の一つが、本日も賑わい活気を見せていた。色とりどりの恰好をした人々が、大通りを行き交って、軒を連ねる店々は、盛況に見える。
そして、建物の屋根から伸びる煙突。
まだまだ寒いこの季節、その筒からは灰煙がもうもうと、立ち込めていた。
「名残惜しいけれど、いつまでもこんな所で立ち止まっていられないか……」
感傷に浸って、急がなければいけないと思いながらも、その空を見上げた。青空が、遠くまで見渡せる。白い雲は、薄く点在しており、けれどそれらは決して、天から降る光を邪魔しない。
冬ではない、温もりが注ぐ季節。
雪はすっかり解けて、吹く風は未だ強いものがあるが、それでも心地良い時期だった。
町中を忙しく走る人はいない。精々子供が走り回っているぐらいのものだろう。彼女の目の前でも、一人の少年が駆けて行った。
「さて、行きますか……ん?」
止めていた足を動かそうとして、すぐ傍での物音に振り返る。
視線の先、先程の少年が躓き、転んでいた。
「うぐ――」
こちらからでは表情は窺い知れない。ただ、今にも泣きだしそうに、その小さな肩を震わせていた。
「……ほら、泣かないの。男の子なんだから」
「ふえ……?」
地面に伏したまま、起き上がろうともしない少年を抱えて、立ち上がらせた。
見たところ三、四歳の少年は、丸い眼をさらに丸くさせて、屈んだ彼女を見る。
「うん。膝も擦りむいて無さそうだし、本当にただ転んだだけみたいね。良かった」
「えと、お姉さん……」
「ん?」
服に着いた汚れを払っている少女へ、小さな声で少年は呟いた。
「その、ありがとう……」
「はい、よく言えました」
緊張したように構えている彼に、笑い掛けて。
そして彼女は立ち上がる。
「じゃあね。今度からは、自分で立ち上がるのよ」
そう言って立ち去ろうとして、再び少女は腰を屈めた。
その懐から、一枚の紙片を取り出して、少年へと渡す。
「これ、私の務め先が載ってる札だから。困った時は、いつでも頼ってね」
「……えと、エントツソウジヤって、なんですか?」
「ん? ああ、振り仮名の部分は読めたのね。そうね……」
四年が、経過していた。
その間に、世界は飛躍的に進化、進歩し、様々な技術が生み出され活用されることとなった。煙突掃除を、自動で済ませてくれる装置も、その恩恵に預かるモノだ。
その影響で煙突掃除業は当然の廃業。
町からは、黒装束の人たちが、姿を消した。
だから、その少年がそれを知らないのは、無理の無い話だった。
煙突掃除屋の存在も、彼らが決まって着ていたのは、今彼女が着ているような黒い服であるということも。
しばらく考える仕草を取って、それから分かりやすい言葉で、噛み砕く。
彼女が知ったこと、そうしたいと思っていることを。
自分の言葉で、誰かの言葉を請け負って。
「人を、救う仕事。煙突掃除屋っていうのは、そういう人のことを言うのよ」
自信満々に、そう言って。彼女は眼下の都市へと向かう。
この四年で、色々とあった。
見知らぬ技術が生まれた。
皇国と隣国では戦争があった。
ある奇病の特効薬が完成された。
煙突掃除屋は、一人の少女の努力によって廃業となった。
国家間の交易が盛んになった。
そこでまた新しい技術が生まれた。
変わって、増えて、新しくなって。ある少女も、その中で変わろうとしていた。
ただその中で、変化しないモノも多くあった。
煙突は未だに各家庭で使われている。雪は降るし、生活システム自体に大きな変遷は無い。
そして彼女の想いもまた。
四年前に決意した思いもまた。
朽ちることなく、それは今に繋がっていた。
「遅かったな、何をしていたんだ」
「少し道に迷って。今日から、よろしくお願いしますね」
都市に設けられた一画、そのボロボロの建物。
奥で控えるその人物を見やって、そうして彼女は黒い外套をなびかせる。
建物に書かれたその看板には。
『煙突掃除屋』と。
そう書かれていた。
〈了〉
人の命は煙霞と儚く 秋草 @AK-193
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