日常は既に溶けて
あれからフィルトとはろくに会話をしていない。
呆然と、ただの何も残らない空間を見つめている彼女を立ち上がらせ、繁華街まで戻る。しかしそこでも、反応は薄い。話し掛けても相槌ともつかない返答が、僅かにあるだけだ。馬車に揺られて帰っても、道すがら会話を試みても。
そこに彼女の心は無い。
虚ろにただ、俯いている。
家まで送り、異常なフィルトの様子を見て、彼女の母も何かに気が付いた。気が付いたが、何も聞いて来ない。
恐らく、彼女は何もかも知っているのだろう。知識として、経験として。得心していたのかもしれない。
彼女の母、その夫もまた煙突掃除屋なのだから。
結局。
最後までフィルトとは会話が無い。フレスが消えた後、目に見えて覇気を失い、持ち前の元気も影を潜めてしまっていた。
やはり、衝撃が強すぎた。
年齢にしては大人ぶっている節がある彼女には、その現実が辛すぎたのだ。
いや。
彼女では無くても、あの光景は惨憺と言えるはずだ。黒い煙を噴出して、やがてその姿を儚く失う。普通の人間ならば、夢語りだと笑い飛ばすか、気に留めない。少なくとも、信じようとは思わないだろう。
彼女にはそれが見えてしまっていたから。
自分たちが深く、関わろうと思ってしまったから。
煙突掃除屋特有の、エゴを抱き。そして一抹の不安。過干渉が生み出した、悲劇だった。
その日は、会話を諦め、そして日課となっていたフィルトの家庭教師も中止とした。元からそのつもりだったとは言え、今の状態では現状を解決することだって、出来ない。
そして翌日。昨日の降雪が嘘のような、晴れやかに澄み渡る空が一面に描かれた、その昼。
家に彼女はいなかった。
朝は郵便物の配達をしているので、居ないことは知っている。
しかし昼には帰宅し、そこから自宅学習、という流れなのだが。どれだけ玄関前で待ってみても、夕刻まで彼女が帰ってくる気配は無かった。
「……ん」
陽が沈み、朱に染まっていた町はすっかり昏く、沈み切っている。時間も時間で、この時間になると辺りに住んでいる住人は早々に家へと引っ込み始める。
連日、寒気がその猛威を振るっているので、家という家、その煙突からは軒並み煙が噴き出ていた。形を持たない灰煙は、絶えず煙突から焚き上げられ、夜の空に溶けていく。
そんな毒にも薬にもならない風景を、ただ眺めている。特にどういった感情も情緒も浮かび上がらないが、そうして待ち続けているとやがて少女の姿が確認出来た。坂を上る彼女にも、恐らく家の前で待っているスートに気が付いただろう。僅かにその眼を見開き、しかしすぐに表情を戻した。
彼女が坂を上り切り、スートの眼前に立つのには、時間は掛からなかった。身長差もあるので、さながら立ちはだかる壁のように、フィルトは佇んでいる。
「ずっと郵便の仕事をしていたのか。大変だな」
「……」
言葉は無い。彼女は鋭くねめつけるように、ただ見つめる。その瞳には怒気が窺え、それはそのまま彼女の心境を表していた。つまり、フレスがこの世から消えたという事実、それについての怒りが。
その心中についてはさすがに解りかねる。怒りは全身から伝わって来るものの、その内容までは傍受出来ない。それについては、彼女が話してくれるのを待つしかなかった。
睨み合う、というよりも一方的に睨まれ続けていると。しばらくしてフィルトに動きがあった。躊躇うように、決意を固める前段階のように、静かに口を開く。
「……どうしてまだ来るのよ」
「……少し、用事があってな」
「私に会って、距離を詰めるために勉強を教えて、それから黒い煙を取り除くのが用事なの? そのために、こんな時間まで待っていたの?」
「そうだ」
「馬鹿じゃないの」
フィルトの顔色が、曇る。
嘘偽りの無い会話。勉強を教えるため、それは勿論建前として、ここにずっといた。その先にある事柄を、用事だと。スートはそう言い切る。
彼女にはもう隠すことも無い。全てが目の前で起きてしまったのだから。濁したり、遠回しに言う事も、もう無いだろう。だからより一層、スートは考えなければならなかった。
「大人は皆嘘吐きよね。誰彼構わず、人の気持ちも考えない。黙っていればバレないって、子供だから隠さないとって。ずっと自分に嘘を吐き続けてるわ」
「突然、どうしたんだ」
これが駄目だった。
嘘の張り合いや、言葉による騙し合い。それによる事実の隠蔽や現状の逃避は既に不可能なのに。スートの癖が、出てしまった。
案の定、彼を睨むフィルトの眼光が強く瞬き、抑えていた感情が暴発する。
「突然なんかじゃ、全然ないわっ。ずっと……、ずっと私の頭の中でっ。フレスさんが――」
絞り出すようで、遠くなる潮騒のように。彼女の声はすぐに静まる。夜の訪れは沈黙をいとも容易く作り上げ、挙句そこには何も残らない。そこにいるのは二人。
力を全身に籠め、その拳を震わせている少女と、何を言うわけでも無い男が一人。
スートは、何を応えればいいのか、何に応えるべきなのか迷っていた。
彼女は聡い。次いで強い。体力的な面では無く、精神的にフィルトという少女は逞しかった。けれどそれは、例えば返り討ちに出来るような強さではない。周りから衝撃を貰い、しかしただ耐えている。我慢強いというわけでも無く、他に受け流すわけでも無い。その小さな体で負荷を受け、堪えているのだ。
それが、フィルトという一人の人間が選んだ道だった。
「フィルト、お前さんのせいで、フレスがああなったわけじゃない。俺たちにはどうしようもなかったことだ」
「だから諦めろって言うの? 煙突掃除屋一人の死を、忘れて暮らせって言うのっ。私はそんなこと、出来ない……っ」
「……忘れるなとは、言わない。俺にだって、それは出来ない」
「だったら――っ」
なんでそんなに平然としていられるの、と。
彼女は言葉にこそ出さなかったが、そう言われた気がした。
風が吹き、顔に冷気が当たる。身体全体が冷えたが、それは単に風の所為だけではなかった。
彼は感情を滅多にだが見せない。そうしなければ、この職業は続けられないからだ。人一人を救って一喜び、同業者の死を弔って一憂い。初めの内こそ、感情に任せて働いてきたが、時間が経つにつれ、そうもいかなくなった。
この職業は。
心を持つ人間には辛すぎるのだ。
「……俺たちはそうなる運命なんだよ。生き続けることなんて、初っ端から否定されてきたんだ。煙突掃除屋その他が憤るならともかく、お前さんが怒ったり泣いたりするのは違うだろうよ」
「だから、受け入れろって、納得しろって言われても、出来るわけないじゃないっ。運命なんて、そんなの……」
「……人の命なんざ、儚いもんだ」
「――っ!! バカっ」
その場に耐え切れなくなって、言い合いを続けるのも無駄だと悟って。恐らく彼女はそう思って。
それだけ吐き捨てて、家へと駆けていった。
「……」
すれ違いざまに。
彼女の赤く腫れ上がった目元が見えた。その光景を幾ら記憶から消してみようとしても、それは脳裏に焼き付けられていて。
瞼を閉じても。
悔しそうに歯を食いしばる彼女の横顔が、蘇る。
「明日も、来るからな」
そう叫んでみたところで、彼女からは返事があるわけでもなく。
今日はそれ以上何もせず、スートは家の前から離れた。
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