第一章 煙霞の国

ルガリア皇国

 ルガリア皇国。

 この国は元は小さな国だった。一つの民族からなる、力も何も持たない国。誰も戦争を仕掛けようとしない程に、ちっぽけな国だった。

 突然だった。そんな小国が、幾多の戦争に勝利したという情報が流れたのは。

 無関係な各国は半信半疑。しかし負かされた周辺国は本当だと抗議する。

 そうしている間にも、ルガリア皇国は領土を拡大していった。

 それが今より百年ほど前のこと。

 現在のルガリア皇国は戦争の影も見えない、平和で美しい町を形作っている。

 煉瓦造りの家々に、舗装された道は石畳。あらゆる先進国の技術を取り入れ、現在も進化、発展している。しかしそれも町中でだけの話。国の中心部から離れれば、緑豊かな新緑が広がり、田畑を随所に見る事が出来る。都市部から郊外、そして誰も寄り付かない山々。技術の発展と自然とを取り合わせた国が、現在のルガリア皇国だった。

 そしてルガリア皇国を語るには、これだけでは不十分だろう。

 北から南、何処を通って何処に訪れても見られる光景。

 家という家、工場という工場、施設という施設。人が建築物と呼ぶ全てに、その国の象徴は設けられている。

 大小様々な、形も異なる多くの煙突。

 ルガリア皇国を訪れた多くの人間が、初めてその国の特徴らしい特徴を目にするのは、恐らくそれだろう。

 北方に位置するこの地域は、暖を取って生き永らえることがまず何よりも大事だとされ、一家に一台暖炉が設けられている。つまり必然的に家に一本、煙突があるということだ。

 それがこの国の実情であり、この国の日常。夏であっても肌寒く、冬になればその気温は氷点下を下回る。時間帯にもよるが、この国の建物からは絶えず煙が上がっている。冬を乗り越えるための処置であり、快適に過ごすための術だ。

 それはルガリア皇国独自の伝統であり、独特の光景だと言えた。

 そんな万本を超える煙突を掃除する職業。煙突掃除屋として、スートは日々を暮していた。


「さて、ここだな」


 煉瓦造りの、他所のものと何も遜色ない三角屋根の家屋。少し手入れが行き届いていないが、いわゆる一般的家庭の家だった。当然その屋根からも煙突が伸びているが、煙は上がっていない。

 冬もこれから本格的な寒さになるだろうこの時期に、昼間とはいえ暖を取っていない。

 留守なのだろうか。

 無駄だとは思いつつも、スートは玄関扉をノックした。


「すみません。煙突掃除屋ですが」


 返答はない。ノックをしても軽い木質を叩く音が跳ねかえるばかりで、肝心の家主は顔を出さない。しばらく待って見ても、その扉が開かれることは無かった。

 留守だろう。

 急いでいるわけでもない。また日を改めれば良いだけの話だ。立ち去ろうとしたスートの背に、声が掛かったのはその時だった。


「言っておくけど私の家に入っても何も無いからね、不審者さん」


 ソプラノが印象的な声に振り返り、視線を少し下げる。

 ボサボサの赤い髪、切れ長で強気な瞳を携えた少女がそこにはいた。黙ったまま、ためすすがめつ仕草や様子を観察するスートに構うことなく、少女はさらに一歩踏み込む。

 追い詰めるように問い詰めるように。そこに一切の迷いも無く。

 恐れることを知らない少女は続けて言葉を放つ。


「いつまでもここにいるつもりなら、警備隊を呼ぶけど」

「え? ああ、通報は勘弁してくれないか。怪しい身なりかもしれんが、俺はこれでも煙突掃除屋だ」


 不審者、ということは泥棒かなにかと勘違いされたのだろう。スートは両手を小さく掲げ、無抵抗無実を装い主張する。

 しかし。

 黒い帽子に黒いコート。シャツまで黒いスートの特徴的な出で立ちは、煙突掃除屋の正装である。煙突掃除屋を古くから当たり前のように運用、利用しているこの国で、不審者と見間違えるだろうか。

 思考するスートに、少女は躊躇う様子も見せず踏み込んでくる。


「煙突掃除屋って本当にそんな恰好をしているものなの? ……証拠は?」

「証拠って言われてもな。俺が着てる服装が証拠みたいなもんだからな。お前さんの家は、煙突掃除屋を呼ぶことは無いのか」


 訝しむように、ジロジロと観察している少女に、スートは問い掛ける。

 通常は掃除屋を呼ばずに日常を過ごすことは有り得ない。不可能なのだ。

 それは年中寒風が吹き付けているこの国では暖炉が必要不可欠で、使用していると必然、煙突に煤がこびり付くからだ。それの定期清掃が、煙突掃除屋の主な仕事で収入源となっている。それ故に、彼らを呼ばない家など存在しないはずだった。

 だが目の前の少女は、そんなことも気に留めないようで。


「無いわ。煙突掃除を頼むと、お金が掛かるもの」

「お金が掛かる、か。そこまで大金というわけでも無いだろう。精々銀貨三枚、高くても金貨一枚分も掛からない。掃除をすれば暖炉の効き目も向上するし、俺なら法外な値段は要求しないが」


 暗にここの煙突を掃除させてほしいことを仄めかしながら、スートはその安さを強調してみせる。

 情に流されてタダというわけにはいかない。こちらにも明日を生きるための先立つ物が必要だ。ただ、お金が無い、貧乏だという事情があるというのであれば、それを汲み取ることは出来る。

 そういったニュアンスも含めつつ少女を見るが、しかし少女は既に答える事項は決まっているように、ぶっきらぼうに言葉を繋いだ。


「要らないわ。まだまだ動くし、掃除するお金が、今は無いのよ。どれだけ安くても」


 取りつく島も無い。スートは嘆息を吐き、どうしたものかと思案する。

 この家に少女一人で暮らしている、というわけではないだろう。少なくとも親はいるはずだ。それに近しい人物と交渉出来れば、掃除の許可が下りるかもしれない。

 虚空に向けていた視線をスートが戻す。少女が慌てて視線を逸らす姿が映った。

 それと同時。

 スートは少女の口から漏れ出る吐息を見た。

 この国は年中気温が低い。おまけに今は冬だ。息をすればそれは瞳に映る。彼女にももちろんスート自身も、例外では無い。

 それを見たスートの思考が切り替わる。

 一度だけ見せたその吐息。見過ごしていいものでは無かった。


「お前さん、名前は?」

「どうして不審者に名乗らないといけないのよ。それに名前を聞く時はまず自分が名乗ってからでしょ? お母さんがそう言っていたわ」


 意外としっかり物事を考えているな。それとも教育が行き届いているのか、と。感嘆してからスートは頷いた。


「不審者じゃないんだがな……、しかしまあ名前聞いておきながら自分は名乗らない、というのは確かに失礼だな。悪かった。俺の名前はスートだ。何度も言っているが煙突掃除を生業として飯を食ってる」


 試しに手を差し出してみたものの、少女の瞳には困惑の色が浮かんでいる。その手を取るべきかどうか迷っているのだろう。


「ふ、不審者に名乗る名前なんて無いわよ」


 口調は強いが、少女の視線に先程までの強さはない。自己紹介をしたこと、再三に渡り不審者では無いと主張していること、そうした事実からスートが不審者であるという自信が揺らいでいるのかもしれない。

 しかしスートはそれを好機とせず、その手を引いた。


「まあお前さんの名前がどうとか、大して重要じゃないからな。気が向いたらでいい、その時は教えてくれ」

「…………」


 少女が何かを言おうとしている。それはスートにも分かった。ただ、何を言えば良いのか分からないのか、一向に声は上がらない。

 待ってみても良かったが、それよりも先にスートには訊きたいことがある。

 彼女の顔色を窺うのは、その後だ。


「お前さんの家、何人で暮らしてる?」

「……どうして?」

「別に悪いことを企んでるわけじゃない。この家にお前さん一人ってわけでもないだろう」


 何か後ろめたさのようなものがあるのか、それとも単純に心を許したのか。それは分からない。

 しかし先程よりもすんなり、言葉が帰ってきた。そこに棘は無く、敵意も感じられない。


「二人、だけど……」

「お前さん合わせて二人、か。それは恐らく、悪いことを聞いてしまったな」


 少女の顔に陰りが差す。やはり、片親で暮らしているのだ。どちらかが別れ、そして貧乏ながらも必死に生活していた。

 予想出来ていたことだ。煙突掃除を呼ぶ金さえままならず、そうして家には人気がない。

 予測出来たことで、スートが知りたかったことでもあった。

 空気は、重い。晴れていた空は何時の間にかそのなりを潜め、雪雲を作りだしていた。


「お前さん、今は幸せか?」

「え……?」


 話してみても、一度訪れたこの空気は容易に崩せない。

 どんよりと沈んだまま時間が流れていく。


「なんとなくそう思っただけだ。他意はない」


 少女を見下ろすように、スートは彼女の反応を待つ。

 しかしやはり、反応は変わらない。口を開くも声は出ず、何か考えるように視線を伏せる。

 そうしている内に、上空から雪が降り始めた。吹雪くわけでも無く、ただゆっくりと、身体に地面に、それらは溶けていく。

 寒さは増し、スートはゆっくりと息を吐き出す。

 当然、その吐息も目に映る。温度の違いによる自然現象だ。

 しかし、彼の吐息は。

 黒かった。

 まるで煙突から上る黒煙の如く、それはやがて空気に溶けて消えていく。

 他人には見えない。

 見えるのは煙突掃除屋だけ。

 特別な事情があったというわけではない。ただ単に、そういう体質で、そういう性質だった。


「……難しい質問をしたな」


 ちらつく雪粒の数も増え始めてきた。これ以上長話は出来ないだろう。スートは踵を返し、少女に背を向ける。


「また明日、来るよ」


 スートはその場を立ち去った。

 何時までも注がれていた少女の視線に、彼が気が付くことは、無い。

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