人の心の清掃活動②

 彼女、フレスに言われなくても、分かっていた。

 恐らく彼女は説得を円滑に進めるために、母の心をいち早く満たすために、「母を大切にしろ」、と。そう言ったのだろう。

 余計なお世話だとは思わない。きっと改めて言葉として伝えられることは、大事なことだろうから。

 母の気持ちが落ち着くのなら、自分に出来る事があるのならば。

 それに全霊を尽くしたい。母のためならば尚更だった。


「ねえ、フィルトちゃん。今度、学舎に復学するって本当?」

「……え? ええ、本当だけど」


 突然、なにを言い出すのだろう。そして何故知っているのだろうかと、尋ねようとしたところでフレスが続けた。


「スートに聞いたのよ。毎日勉強を教えてもらっているってこともね。別に深く知ったわけでは無いから安心していいわよ。どうかしら、スートとは上手くやっているの?」

「……別になにもないわよ。上手くいってるかどうか分からないし」

「まあ、そうよね。それなりに話したこともあるけど、私も彼と上手くいってるなんて断言出来ないわ。あいつ、何を考えてるか分からないでしょう」

「そうなのよ。スートは家事を手伝ってる時もよく分からないアイデアで料理の邪魔をするんだから。昨日も目玉焼きに東欧からのよく分からないスパイスを振り掛けてて――」


 目玉焼きだけではない。西欧だかの小麦の練り物、それを揚げていたり、良い匂いのする薬草を沸かして飲み物を作っていたり。その技術はフィルトの見たことのないものばかり。それを珍しがっている少女と、作ったモノに一手間加える男。

 そんな光景を。

 そんな話を。

 僅かな時間だけだが、フレスと交わす。

 母では無い、またスートとは違う。大人で綺麗な女性との会話。それは、フィルトの中で初めての経験で。新鮮な心持ちにさせてくれる瞬間だった。

 そして彼女も彼女で、フィルトの知らない知識に富んでいる。出会う前のスートについても、話してくれる。


 病院に行けば、出て来たフレスとまずは出会う。その後、病室の前でちょっとした会話。

 そうした日々が、続いた。

 母のお見舞いをする前に、彼女から色々なことを教えてもらい、それを母に話す。知っていたこと知らなかったこと。興味深く、フィルトは訊き、話す。

 その中で。

 フレスという人間を、少女は自身で解釈する。


 髪は長く、顔立ちも同性の自分がドキドキしてしまうぐらいに整っている。手足はスラリと長く、背も高い。普段は落ち着いた大人びた表情だが、時折見せる笑顔にはあどけなさが見られ、それが話しやすい要因でもあった。

 不思議な雰囲気こそ放っているが、変な人間では無い。寧ろ彼女のようになりたいとさえ思える。

 初めは警戒こそしなかったが、壁を作っていた。それはやはりタイミングがタイミングだっただけに、仕方の無いことだ。

 けれど今では。

 姉のように面倒見の良いフレスと、話しているだけで楽しく感じられた。このままずっと、会う機会があればいいのにとさえ、思えた。

 しかしその時間も関係も空間も、唐突に終わる。


「あれ? お母さん、退院したの?」

「そうなのよ。突然身体の調子が良くなってね」


 病院へ訪れる毎日が続いて、日課のように本日もまた向かおうと家を出た矢先、見慣れた姿を認めた。

 母の様子は昨日と変わらず、もっと言ってしまえば入院してからも変わりは無い。ただ少し、雰囲気が変わったのか。どのように変わったのか、フィルトには詳しく分からなかったが、生まれてからずっと共にいるのだ。機微な違いにはすぐ気付く。それが何か判別出来ないのは、単純に知り得ないからだが。

 ともあれ母の容体は良くなったようだ。しばらく休んだからか、顔色も随分と健康的に戻っているように見える。


「突然身体の調子が良くなったって……、子供でももうちょっとマシなこと言うと思うんだけど」


 何が原因でそれまでベッドに伏していたのかは聞かされていないが、疲労が溜まっていたのではないのかと予測は出来る。ただ、疲労ならば突然回復したりはしないはずだ。少なくとも母がそう感じても病院が、母を退院させるという判断は下さない。

 では何故。母は倒れたのか。

 ではどうして。母は突然回復したのか。


「本当なのよ。フレスさんと話していたんだけど、その喋っている間に身体に掛かってる重みが抜けたような、そんな感覚があってね」

「え? ね、ねえそれってさ……」


 その言葉に、フィルトの思考が引っ掛かる。浮かび上がるのは一つの可能性。

 そして、確信。


「……どうしたの?」

「えと、ううん。何でも無いわ。体調戻って良かったわね」


 可能性ではなく、確信を得たのは、母の吐息。

 昨日と比べて、今日は格段に冷え込み、通りすがる通行人の息、その白さは深雪のように真っ新だ。

 そして母が吐く息もまた。

 だった。


「そうね。心配かけたかもしれないけど、もう大丈夫だから」


 母はそう言って、白い息を吐きながら晴れやかに破顔して見せた。

 恐らく母には黒い息は見えていない。だから入院前と退院後の明らかな変化には気が付かない。

 ただ疲労が回復したと、そう思うだけだろう。

 けれど、フィルトは知ってしまっている。見えてしまっている。人の息が黒くなるのはどういう時か。それが元に戻る時はどういう時か。それは、スートから聞かされたことだ。

 だから母が入院時に吐いていた息が、今は戻っているのも。

 煙突掃除屋が、心を埋めたからだ。

 そして、それを実行した煙突掃除屋は。


「……ねえ、お母さん。フレスさんは?」


 昨日までは、それまでと同様に日常会話を交わしていた。今日も病院に行って色々と話すつもりだったので、会えないことが少し寂しくもあった。

 それに。

 煙突掃除屋としての責務を全うしたフレスに、一言お礼を言いたかった。今生の別れになるわけでは無いが、何の前触れもなく別れるというのはすっきりしない。フィルトとしてはもっと話していたかったし、これからも会えるのなら時々会いたい。そのことも、伝えたかった。


「フレスさんなら、私と話した後は色々見て回ろうと思うって言ってたけど」

「色々って? 装飾屋さんとか?」

「そこまでは聞いてないわね。でも町を見て回りたいって言ってたからそうなんじゃないかしら」


 町、と言っても三大都市に数えられるぐらいには広い。人一人探し出すのは困難を極めるだろう。手掛かりも少なすぎるので会いに行くべきか迷っていると、母がもう一言、付け加えるように言った。


「そうそう、帰り際スートさんにも会ってね。今日は勉強会はお休みにして欲しいそうよ」

「え? どうして」

「さあ。なんでもフレスさんに用事があるらしいんだけど、その辺りも詳しくは聞いてないわ。会う約束もしてないから、これから探すそうだけど」

「……そう」


 仕事の話でフレスを探しに行くのだろうか。いや、あれだけの美人だ、スートはもしかしたら思いを遂げたりするのではないか。いやいや流石に短絡的過ぎるか。それにスートがそんなことを実行に移すだなんて思えない。

 などと妄想に想像を重ねるが答えは不明瞭。

 どちらにせよ午後から予定されていた用事は消え、そして自分にはしたいことがある。

 することは決まっていた。


「ねえお母さん。私フレスさんにお礼言いたいの。色んなことでお世話になったし、それにもう少し話したいから」


 確認と、容認を促す瞳で、母を見上げる。母が帰って来たばかりで心配ではあるのだが、今フィルトと会っておかなければ、早々機会に恵まれないような気がした。

 やがて母は首を縦に振る。


「そうね。お見舞いに来る前に、相手をしてくれてたみたいだから。そのこともお礼しないとね。……そうだわ」


 何事か閃いたかのように、柏手を打ち、腕に提げていた木で編まれた袋から包みを取り出す。開いてみれば、香ばしいパンが焼けた匂いと、未だ立ちこめている湯気が、その一帯に広がった。


「これ、本当はフィルトのために買って帰ってきたんだけどね。フレスさんに渡してもらえるかしら。お礼の意味も込めて」

「分かったわ」


 手提げ袋ごとそれを受け取る。手に持った瞬間も、香りが鼻を刺激して、お腹に直接響かせる。


「それじゃあ、行ってくるわねっ」


 母と別れ、山なりの坂道を下る。眼下に広がっている町は、ここ数日の賑わいを見せており、人の往来が激しく映る。

 また、昨日までと比べ気温が下がったからだろうか。昼間にもかかわらず煙突から煙が噴き出ている。町一帯を染めるその光景は、幻想的で、美しいとさえ思える。

 陽は出ていない。分厚く鉛のように黒い雲が、夜のように陽光を遮っている。風は冷たく、走れば身を切るような寒さに負われる。


「……あ――」


 白い一粒が、鼻先に触れる。

 首を上に向ければ、無数の小粒がゆっくりと降りて来ていた。


「急がないと」


 本格的に降り始める前に、フレスを見つけよう。フィルトは動かす足に力を入れて、町を目指した。

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