人の心の清掃活動
母が倒れて、スートと買い物をしてから一週間。
あれから毎日、スートから勉強を教わり。それから毎日、フィルトは病院へと訪れていた。理由は単純、見舞う人がそこにいるから。回復の兆しは見せているものの、未だ体調は優れないらしい。しかし見た目に変化はない。初日の時と同じように、柔和な笑みのまま。病人であることを窺わせない、その様子に、彼女は安堵の溜め息を漏らした。
「……黒い、わね。やっぱり」
その溜め息もまた、いつも通りの色をしている。
ぽっかりと空いた穴、そこから生まれる黒い霧。負の感情はなにかを主張するわけでもなく、煙の性質そのままに、溶けていく。
これが、人々に宿っている寂しいという感情で、煙突掃除屋がそれを吸収することで掃除としての役目を果たす。
とてもではないが信じられることでは無い。おとぎ話でもあるまいし、人々の悲しみが目に見えるなんて、有り得る筈も無い。
しかし。
何度息を吐いてみても、白いそれは見られず。代わりに見られるのはやはり黒い煙。
信じられないが、信じるしかない。
いくら考えても仕方の無いことだ。とりあえず今は病院に向かうことを優先しよう。
もう一度、嘆息を吐いて、通行人を縫うように歩く。その手には紙袋。中身は栄養のある果物だ。
母が倒れてしまい、代わりに家事の色々を引き受けている。毎日訪れて勉学を教えてくれているスートも手伝ってくれているので、そう大変でも無い。朝だけだが仕事も一時的に再開し、雀の涙程度だが給金も得ている。
母は心配してくれていたが、それほど困難では無い。
寧ろ、楽しくなってきている自分がいた。浮かれているわけでは無いが、それまでの、スートと出会う前の淡々として日常とは違った、忙しい日々。
憧れたわけでは無い。母が倒れている事実は、今でも信じたくないことだ。
それでも未来に対して、明るいものが見えてきている。そんな気持ちになれていた。
そんなことを考えながら、歩く。やがて、病院が見えてきた。
扉をくぐり、手続きを済ませ、母の病室の前まで訪れる。その扉をいざ開けようと、手を掛けた時、中から声が聞こえた。
女性の、声だ。
「彼女は、それほど心配しなくてもしっかりやっています。それは自立という意味で、そして貴女の保護下から巣立とうという兆しでもあります」
「……ええ、分かっています。それが大変、喜ばしいことだってことも。納得はしているんですよ」
聞いたことのある声だ。片方は母、そしてもう片方。初めに耳に入ってきた方は、確か――
「フレスさん。気に掛けて下さるのは、嬉しいのですが。ただやはり申し訳ないと言いますか。私なんかのために時間を割かなくても」
「そういうわけにはいきません。私たちは、貴女のような方を救うためにいるんですから」
フィルトはその名前で思い出す。母が倒れ、病院に向かった時。その病室で見かけた、煙突掃除屋の女性。
不思議な雰囲気を醸し出していたあの姿が、脳裏に浮かぶ。
その間にも話は進む。聞いてしまうのも悪いと思うのだが、自然と耳を傾けてしまう。
「ただやはり、貴女は僅かながら寂しさを感じているのかもしれません。娘さんが独り立ちすることによる解放感と、それに並ぶ程の孤独感を、貴女は感じているのではないでしょうか」
「そうかもしれませんね。あの子もそうであったように、私にもあの子だけしかいませんでしたから。そういう意味では、寂しいのかもしれません」
何の話をしているのだろうか。途中からなので理解が追い付けない。
「私たちもそうですし、今はスートが付いています。娘さんへの心配もあるでしょうが、その点は大丈夫かと。あとは、貴女が決心をするだけかと思いますが」
「そう、ですね……」
母の声が、少し小さく落ち着く。
「…………」
言葉の端々から、状況を組み立てる。
それは一週間前にスートから聞いたこと。
寂しい人間、心に穴を開けた人間がいて。煙突掃除屋がそこにいる。
ただの雑談をしに来たわけでも無いだろう。
これは、清掃活動だ。
フレスが母に話している内容も、孤独や寂寥に関してのこと。寂しさを埋めさせる説得を、しているように、その会話からは判断出来た。
「では私は今日はこれで。明日も来ますね」
「え?」
その声で、我に返り、今自分のいる状況を見直してみる。
扉の前で立ち尽くし、入ろうともせず盗み聞き。
言い訳のしようもない。
慌てて何処かに隠れようとも画策したが、間に合うはずも無く。
「あら?」
「う……」
変な姿勢で身構えているところへ、扉が開かれた。つまみ食いをしているところを見つかった猫のように、首だけをそちらに向ける。
緊張感と罪悪感。猫ならとっとと逃げればお終いだが、人間だとそうもいかない。しっかりと向き直って、きちんと謝らなければならない。
「……ご、ごめんなさい」
「……? どうして謝ってるのかしら」
微笑んで、小首を傾げる。決して怒られないことは目に見えて分かる、が。やはりそれでも盗み聞きをしていた負い目はある。視線を合わせることすらままならず、フィルトは自らが犯した罪を独白した。
「だって、私盗み聞きしちゃったし……。それって、悪いことだと思うから……」
自分の立場なら、どんな内容であっても盗み聞きはされたくない。それが真面目な話ならば尚更だ。
そのことを咎め、叱られたって文句も言えないことなのに。しかし彼女は笑みを崩すことは無く、声音も優しいままだった。
「そうね。貴女は確かに悪いと思えることをしてしまった。でもきちんと謝ることが出来たわけだから。気にすることも無いわ」
「……あの――」
不安を取り除くために、言ってくれた言葉なのだろう。それは本心から心配を払拭してくれたし、心持ちも幾分晴れやかに落ち着いた。
けれど、それとは別に。
聞こえてしまった会話が、その内容が気に掛かっていた。
「その、フレス、さんは。ここに何をしに来てるの? 煙突掃除じゃ、ないわよね」
「そうね。毎日ここへは来させてもらってるのだけど、煙突を掃除したことは、一度も無いわ」
「……じゃあ、やっぱり」
煙突掃除屋は、人々の心までも綺麗にする。フレスも、その役目を果たしに来ていたのだ。
フィルトが母を見る時、たまに黒い煙を吐いているのも見掛けた。それが負の感情であることは知らなかったが、今思えばそうなのかもしれないと、納得出来る。
母が寂しいと感じていたことには、驚いたが。
「フィルトちゃん」
「なに?」
声が、柔らかい。そしてそれは、慈しむような。それでいて羨望しているかのような。何かに憧れているかのような。
フレスのことは、スート以上に何も知らない。
不思議な空気を纏う女性で、謎に包まれている。
彼女の声は、冬の空気のように透き通っていた。
「お母さんは大切にしてね。これから心配は掛けるとも思うけれど、全部を一人で抱え込まずに、頼る強さを身に着けること。それから、お母さんの傍に居てあげて」
最後の言葉は特に強く、淡く聞こえた。
「……分かってるわ。私も、独りは嫌だもの」
そう、と。納得したようにフレスは呟いた。
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