負の感情
さすがに昼時も終わり、夕刻に差し掛かると食事処には人が疎らにしかいない。二人は適当に空いている席へと座り、そこへ店員がやってきた。
「俺はサンドイッチを。フィルトは?」
「え? いや、私はいいわよ。何か頼もうにもお金なんて持って来てないし……」
「そういうわけにもいかないだろう。払えないのなら俺が受け持とう。なに、買い物に付き合ってくれた礼だと思ってくれ」
「……じゃ、じゃあ同じものを」
不服ながらも一通りのやり取りを終え、店員が厨房へと入る。
こんな風に、誰かに甘えたことなど無かったので、注文を済ませてからも戸惑ってしまう。とにかく何か言わなければ。そう思い、感謝の意を示す。
「その、ありがとう。昼食のお金……」
「気にするな。大した金額じゃない」
「でも、お金は。大事だし……」
「ふむ。まあ、どうしてもというのなら家に行った時にでも手料理を振る舞ってくれ。お前さんの母君ともそう言った話にはなっているからな。それで互いの損失は無しに出来るだろう」
「確か、勉強を教えてくれる代わり、だったわよね。そんなことでいいの? スートがそれでいいのなら、私は構わないけど」
「言っただろう。大した金額じゃない。そもそも気にする必要などないからな。お前さんは、いちいち心配性なんだ」
そんなことは分かっているつもりだ。スートの言う通り、フィルトは何をするにしても気にするし、心配してしまう。自分のことは放って、他人に気を遣う。
それが十二年間で作りだされた彼女だ。多少変わっている部分もあるが、その根本では変化ない。
だから。こんな状況でも。素直に楽しめていない自分がいた。普段訪れない町を見て回り、絶対に立ち寄らないような店を覗き、怪しげな本を貰い、大通りを行き交う人に見惚れても。
スートが隣に居ても。彼と喋っていても。
気になる事が多すぎて、落ち着かない。
「ねえ――」
「……なんだ?」
返すスートの表情に変化は見られない。いつもと同じように、覇気のない瞳を宿して、フィルトへと視線を向けている。ただ、そこには。その声には僅かに別の感情が含まれているような気がした。
それが何なのか、フィルトには分からなかったが。
「あの人は、何者? ううん、病室で見たフレスって人だけじゃないわ。煙突掃除屋っていう職業は、一体何をしている人たちなの?」
引っ掛かっていた言葉を口に出すと、思いの外スルスルと滑り出ていたことに、フィルト自身でも驚いた。
母が横たわっていた病室、そこで見た黒装束の美女。煙突を掃除しに来たわけでもなく、何かをするわけでもなく去って行った。
そして、それだけではない。
煙突掃除屋のことは、ずっと気に掛かっていたことだった。
それこそ、父が煙突掃除屋だと知ったその日から。どんなことをしているのか、どうして突然消えてしまったのか。その疑問を解消したかったのだ。
スートは表情をそのままに、口を開く。
「煙突掃除屋ってのは、文字通り煙突を掃除してる。主な収入はそれだし、それがメインの仕事内容だ。ただ、俺たちがするのは煙突掃除だけじゃない。人と触れ合い、人と話し合い、そうしてわだかまりを打ち消す。それがもう一つの仕事で、俺たちがいる意味だ」
「また、そうやってはぐらかすの?」
「大丈夫だ。これは俺たちだけの問題じゃなくなっている。フィルト、お前さんにも関わる問題で、内容だ。それを、これから話そうと思う」
スートは言葉を濁す癖があるように思えた。それは初めて会った時もそうだったし、今もまた直接的な物言いはしていなかった。
ただ今回は。話してくれるのだろう。纏う雰囲気が、真剣なものとなり、空気もまたガラリと変わる。
「まずはあの黒い煙から説明しないといけないな。見えるんだろう? 俺や、自分が吐き出している黒い吐息が」
「……ええ、今もはっきりと」
わざとらしく溜め息を吐いてみると、やはりその息は白ではなく黒。もっとも、店内なのでたとえ白くても息の色は判別出来ないが、しかし、それにもかかわらず息は黒かった。
「なんなの? この黒い息」
「それは、人が抱く負の感情だ」
「負の、感情……?」
黒い煙が、ゆっくりと立ち上り消える。どれだけ吐いても、それは無くならない。どれだけ息を吸い込んでも、黒いそれが出てくる。
真っ暗で向こう側も見通せず。なにものにも染まらない暗黒は、痛々しく冷たい。底の無い闇が生まれ、消える様もまた、フィルトには空しく映る。
これをスートは、負の感情だと言うのだろうか。
「そうだ。人は誰しも負の感情を抱いている。それが、体現され視覚に映るようになったものが、黒い息。黒煙だ」
「誰しも抱いてる感情……」
もう一度、息を吐く。それはやはり重く、光さえ瞬かない。
負の感情が具体的にどういったものなのか、フィルトには分からない。それは悲しみなのか怒りなのか。憂いなのか恐れなのか。どれもが当て嵌まるのかどれでもないのか。簡単に結論付ける事が出来ない。
しかし、フィルトにはその自覚があった。負の感情を、抱えているという自覚が。
だからこの黒い煙が負の感情そのものであることも、すんなり受け入れる事が出来たし、この話にも納得出来ているのだろう。
納得しようとしているフィルトを確認しつつ、スートは続ける。
「そうだ。元来この煙は誰にも確認出来ない。それこそ、特別な視力を持った人間にしか、見えない。ただ、お前さんは見えているようだ」
「……言っておくけど、私にそんな能力無いから」
「しかし実際には見えている。これは俺の仮説に過ぎないんだが……」
スートはそこで一旦言葉を切って、じっとフィルトを見つめる。まるで何かを窺うように。そのタイミングを計っているように。
しばらく間を開けた後、彼の言葉が矢のように飛び込んできた。
「フィルトの親父さんは、煙突掃除屋だったんだろう」
「……っ。ど、どうしてそんなこと――」
鋭く、突き刺さった言葉。辛うじて返した言葉は、発音できたのが不思議なぐらいに、乾いていた。
改めて他人から告げられると、父のことが記憶の中で、より明確に浮き彫りになる。悲しいわけでは無い。もちろんそういった感情が無いわけではないが、何よりも、胸が締め付けられる思いだった。
父の話題が出る度に、心が痛む。表情に余裕が無くなる。笑顔が消える。どんな顔をすればいいのか、分からなくなる。
父が煙突掃除屋だということ。それが出会って間もない人間に看破され、暴かれようとしている。
けれど、それ自体にフィルトは嫌な気分はしない。
フィルトは。
父のことを。いつも笑っていた父のことを、何も知らない。
「黒い煙を感知する能力は、煙突掃除屋にしか備わっていない能力だ。後天的か先天的かはさておいて、そういうことになっている。だから、何の関わりも無しに能力が発言するというのは、有り得ないはずでな。能力が遺伝するという話は聞いたことが無かったが、お前さんの場合不思議も無い」
「私のお父さんが煙突掃除屋だから、黒い煙が見えるの?」
「そう考えた方が納得いくというだけの話だ。確証では無いぞ」
「……そう」
フィルトには専門的なことは理解出来ない。よって、そう推測され話された方が納得出来、結論も出しやすい。
それに何より。
父の能力が受け継がれているかもしれないという事実が。
フィルトにとって何よりも嬉しいことだった。
何も残してくれなかった父。忽然と消えてしまった父。
それを突然身近に、より近くに感じられた。
「……大丈夫か? さっきから強張った顔をしたり、満足そうな顔をしてかなり怪しいぞ」
「なっ……う、うるさいわねっ。私にだって、色々あるんだからっ」
「そうかい」
そこで一旦話題は途切れ、注文していたサンドイッチが運ばれてきた。値段の割に分厚く斬られており、見ただけで満腹にさせてくれそうな代物だ。
とにかく先程から腹の虫をいなしていたフィルトは、定型句を済ませてから齧り付く。シャキシャキの野菜、その旨味と、ハムの甘味が口内一杯に広がる。
「余程腹が減っていたんだな」
「っ!! ん、んっ」
スートの反応に、フィルトは急いで口に含んでいたモノを咀嚼する。その間たっぷり三十秒。
ようやく飲み干した彼女は、その瞳で訴え文句を口にした。
「べ、別にお腹がすき過ぎていたわけじゃないんだからっ」
「あーはいはい。良いから食え食え」
言いたいことが言えてスッキリしたのか、フィルトの表情は満足そうだった。
「……お前さん、生き辛そうだな」
「……?」
小首を傾げながら咀嚼しているフィルトを、スートが眺める。育ちが良いのか、彼女は食事のマナーをきっちりと守り、注文したサンドイッチを口に運んでいく。腹が減っているだろうに、そこに意地汚さはなく、寧ろ上品にさえ映る。
スートは眺め、フィルトは食べる。
しばらくそうしていたが、やがて彼の口が開く。
「そうそう、先程の話の続きだな。確か煙突掃除屋がしている仕事だったか」
口にモノが含まれているので、反応を声に出すことは無いが、フィルトはその話の続きを瞳で訴える。
彼にどう映ったのかは知らないが、やがてスートは話し始めた。
「煙突掃除屋はなにも煙突を掃除するだけじゃない。人々が抱いている心の病。それらも掃除している。黒い煙は煙突掃除屋にしか見えないからな、それを掃除するのも俺たちの仕事だ」
掃除と。彼は言う。
黒い煙は人々の負の感情。そして心の病だと言った。
負の感情を抱えている心、それを掃除するというのは、どういうものなのか。フィルトには想像もつかない。
「しかし掃除と言っても物理的にどうこうするわけじゃない。心を満たされた時、その感情は正へと変わる」
「……ん。ちょっと待って。どういう意味なの? 心を満たすって、それだけで負の感情が消えるの?」
きちんと咀嚼を終えたフィルトが、その意味を問う。
掃除が物理的になされるものでは無いことは分かった。それに、心を満たすということも何となくだが理解出来る。
しかし本当にそれだけで。
綺麗に負の感情が消えるのだろうか。
「黒い煙は負の感情。そうは言ったが、実はそれも正しくなくてな。黒煙が生まれる原因は心に開いた穴だ。それは、大切に思う人がいなくなった結果、生じるものなんだが。黒煙はその穴に蔓延る」
「心の、穴……」
「人が死んだ時、旅立ってしまった時。理由は色々あるな。そうした心の穴を、俺たちが塞ぐ。確かに簡単なことじゃない。昨日訪れた偏屈な爺さん、あの人とも長い付き合いでな。煙突掃除屋はそうやって距離を詰めて、空いた穴を代わりに埋めようとしている」
まあそれもフィルトに手柄を取られたがな、と。そう話を締める。
昨日スートについて、煙突掃除屋として訪れた家。頑固で常に不機嫌な表情をした老翁のことを、フィルトは思い出す。
スートの話では、老翁には妻がいたが先立たれてしまい一人暮らし。何年もそれが続いていたらしい。さらにその性格故か、懇意にされているご近所さんもいないようだった。孤独であって、独り。そんな人だった。
そしてそんな人と話をして、フィルトは黒い煙を間近で吸い込んだ。いやあれは、吸い込んだというよりも、宿主を離れたと言った方が近いかもしれない。
行き場所を失った黒煙が、フィルトの口へと入り込むように。
つまり。
それが彼らの言う掃除なのではないか。
人の心に開いた穴。そこに巣食う黒いそれ。当人の心を埋めることで、その病を取り除く。
「私が吸い込んだのも、掃除をしたってこと? じゃああの人は、それで心が満たされたの? 何でも無いような、私の無責任でしかない言葉なのに……」
「あれには驚かされた、が。つまりあの行為が俺たちの定義する掃除だ。人の心は千差万別。それは、正でも負でも言えることだからな。あの爺さんにとって、お前さんの言葉が引っ掛かって、それが心を埋めるきっかけを作ったんだろう。多分、俺には出来なかったろうな」
人には悲しい過去がある。それは、フィルトにも分かる。黒い煙を吐き出しており、心の何処かに隙間のような空間が、空いている感覚はあった。
それが、誰かを失ったことによるものかどうかは、判別出来ない。
溜め息を一つ吐く。
そこから出るのは、やはり。黒い煙だった。
「ねえ、スートが言ってた誰かを救う仕事って――」
「よく、憶えてるもんだな」
煙突掃除屋とは。
人々の心に溜まった煙を、清掃し穴を塞ぐ。悲しみが込められた靄を吸い込んで、またそれを自分の体内に溜め込むのだ。
ただしそれは。
普通の人には見えない。
彼らもまた。
独りなのかもしれなかった。
「……ところで、この黒い煙って身体に悪くないの? これが原因でお母さんが倒れたわけじゃないのよね」
その時のスートの瞳は。形容し難いものだった。迷っているような惑っているような。やがて彼は、躊躇うように口を開く。
「……害は無い。お前さんの母クレアさんも、疲労で倒れただけさ。だからあの爺さんから貰った煙も、影響はない。心配するな」
その声は何処までも空っぽで。
言い聞かせるようなその笑顔もまた、空虚そのものに見えた。
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