過去に視る ②

「一般の人には知られたくない。たとえ身内であっても、このことは内密にされていなければならないのよ。それが私たち、煙突掃除屋の宿命だから」


 煙突掃除屋として、彼らは何かをしようとしている。生憎声だけなので詳細については不明だ。胸に一抹の不安を抱き、フィルトは曲がり角越しに会話を訊く。


「特に、フィルトちゃんには知られたくないわね。あの子の事情は少し複雑だし。こんな光景は、見せれるはずも無いわ」

「……お前さん、本当にあいつのことが好きだな。出会って一、二週間だろう」

「それはお互い様でしょう。私が彼女に惹かれたように、あなたもまた、フィルトちゃんに興味を持った。それの何が悪いのかしら」


 音だけが、耳に入り込む。惹かれた、興味を持った。その単語だけがより浮き彫りになって、聞こえてきた。

 どうして?

 疑問は尽きない。フィルトという人間が彼、彼女に何か影響を与えるようなことをしたわけでもない。スートとは初対面で不審者呼ばわりした始末だし、フレスとは病院で話すようになってようやくまともに会話をした間柄だ。興味を持たれるような行動は、していないはずだった。


「悪いとは言ってない。それにお前さんの言葉には全面同意だ。彼女は、やはり似てたのかもしれないな」

「……そうね、きっかけは黒い煙を見たことだと思うけれど。その後彼女と関わっていく度に、その考えは強くなっていくのよ」

「誰よりも他人を大切にし、そして自己を犠牲にしようという精神。あの年では、そうはならない」


 雪と声が交じり合い、そして周囲に溶けていく。フレスは感情豊かに語っているが、スートはそこに何一つとして混ぜない。喜びや怒り、哀しみや楽しみを乗せず、声が飛ぶ。


「……彼女には、私たちみたいになって欲しくないわ。あなたや、私のような人間は、煙突掃除屋だけで十分なのよ。あんなに可愛らしい、将来が有望な子に、同じ道を歩ませたくない」

「まあ何様のつもりだと、そういう話だけどな。あいつからすれば、余計なお世話なのかもしれないし、もしかしたらこっちの道にくるのかもしれないぞ。フィルトの奴、煙突掃除にも興味を持っていたからな」

「……それって、あなたと居たかったから申し出たんじゃないのかしら?」

「ん? そうなのか?」


 心当たりがあり過ぎるそのやり取りを、対岸のことのようにフィルトは訊き入る。きちんとフィルトの心中まで図って、会話をしている。その場にいないことになっている、フィルトはそこに居心地の悪さを感じ、そっとその場を立ち去ろうとした、

 その時。


「――」


 何かが倒れ伏す音が、空間に響いた。


「――っ!?」


 そしてそれを追いかけるような、スートの声も。

 重く圧し掛かる鈍いそれと、モノが崩れるような派手な音とが重なって。続く彼の声には、切迫感が多分に含まれていた。


「……」


 静寂な空気を切り裂いて、現れ轟いたその音に、フィルトは壁に背を付け様子を窺う。明らかに只事ではない。先程の物々しいながらも、独特の時間が流れていた空間は何処へ行ったのか。二人の声は止み、その肌で変化した雰囲気を感じ取る。


 果たして。


 倒れ伏しているフレス、それを抱えるスートの姿が、視界に映った。黒い外套に、黒い帽子。倒れた拍子に脱げたのか、フレスの帽子は地面に落ちていたが、二人共が煙突掃除屋としての衣装を身に纏っていた。

 その光景は、異常ではあった。

 一人が倒れ、もう一人がそれを支えるその様子は、決して日常的だとは言えない。ただ、倒れただけ。足元が覚束ない程度のものならば、それで安心出来た。少し休息を取れば、また元気になるだろうと、適当に判断出来たりもする。

 しかし。

 フィルトが見たそれは。


「……うそ――」


 異常。

 珍しく沈んでいるスートの表情、その視線にあるフレスの横顔。白く手入れの行き届いている肌。

 そこに映る、異状。

 遠くからでもはっきりと見えるそれは。

 罅、だった。

 顔に皺が寄っているように、黒い亀裂が無数に走っている。白い肌を染めるように、皮膚という皮膚を蝕むように。

 その黒い罅は、彼女の顔面を覆っていた。


「フレス……」

「もう、終わり、ね」


 情景が、理解出来なかった。昨日までは無かった、彼女に入った罅。まるで全てが終わってしまうかのような、諦観の風景。スートの言葉、フレスの声。誰もいない、路地裏。切り離された沈静。

 何処を見ても不可思議で、しかし目の前にあるのは夢なんかでは無い。

 壊れかけている彼女は、

 現実そのものだった。


「未練は、無いか」

「あるわけないでしょう。きちんと仕事をやり終えたんだもの。これが、私たちの終わりで、日常だから」


 交わす二人に言葉には、驚きや恐怖は無かった。

 含まれているのは、諦念。望みを捨て、抗うことへの断念。ただそれだけだ。


「最後に、あなたの考えを聞かせて欲しいのだけど……」


 やがて、彼女に至る罅、その間から黒い煙が吹き始める。

 顔から、そして口から。さらに亀裂は手にも入り込み、そこからも空へと上がっている。

 それが何を意味するのか、分からないフリなんて出来るはずも無かった。

 煙突掃除屋が生きる意味。働く意義。しなければならない仕事の一つ。

 黒い煙の、排除。

 恐らくその行為をしてきた結果が、今の彼女だ。

 罅はさらに広がる。体全てを飲み込むように、その黒い線が伸びていく。

 このままでは。

 フィルトが想起したのは。

 考え得る最悪の事態。

 最低の、結末だった。


「――フレスさんっ」


 壁に預けていた重心は、前に。意識はただその光景に向けられたまま。

 気が付けば、二人の前に躍り出ていた。

 両者の視線が、突き刺さる。意表を突かれたような目を丸くした視線に、驚いた後に全てを受け入れたような視点。それぞれがそれぞれ、誰のものなのかなど、気にする必要も無い。

 気にするのではなく、気にしている場合では無いのだ。

 ただフィルトの中にあるのは、やり場のない怒り。それと直視したくない現実との葛藤だった。


「フィルト、どうしてここに――」

「どうしてかなんて、どうだっていいでしょっ!!」


 声を荒げ、力を籠めた拳に、さらに意識を込める。そうして無理矢理意識を保たせる。それが無ければ、きっと。現実を視認出来ていないから。

 そしてただ、がむしゃらに。声を振り絞る。そうしないと、力が。何処かへと消えてしまいそうだったから。


「どうして……っ。何なのよこれ……。黒い煙は人体に有害じゃないって。スート言ってたわよね!? それなのに……」


 目の前の光景に、脳内が白に染まる。スートの腕に身体を預けている、その女性は。全身という全身にまで罅が及んでいた。

 血は出ていない。黒い線から漏れるのは、いつも見る黒煙。熱された鉄のように、至る箇所からそれは出ていた。


「フィルトちゃん、には。知られたくなかったのだけれどね……」


 声は既に掠れている。張りのある音が口から出ることは無く、ただ唯一残されたのは彼女の声色だけだった。

 そして、微かに動く口が、ごめんなさい、と。言い紡ぐ。


「ごめんなさいって……、なんでフレスさんが謝るのよっ。なにも悪くなんて無いのに……」

「そう、ね……」


 それでも、彼女は後ろめたいことでもあるかのように、顔を俯かせ、もう一度謝った。

 掛ける言葉を探して、ついにそれは見つからない。体重を乗せる足には感覚がなく、浮いているかのように頼り無い。身体が、僅かに震える。

 未だに目の前で起きている事が、信じられなかった。


「昨日まで元気だったじゃない。今日もお母さんと話をしたって……。それなのに、どうしてこんな――」


 何かの間違いで、自分のことを驚かせようとして、誰かが考えた非情な嘘で。

 だからこれは、夢に近いなにか。

 そう思っても。思い込んで納得しても。フィルトの震えは止まらなかった。全身に、嫌悪感が走り、胸が締め付けられるように悲鳴を上げる。

 それは、人間が本能的に避けてきた結果。

 目の前にあるのは。

 明確な死の様相。


「フィルト、ちゃん……」


 フレスの顔が、こちらを向いた。そして、より一層それが色濃く映る。


「……っ!!」


 罅はもうそれ以上入る余地も無く、数えきれない線が彼女を包む。肌にも、その向けている瞳にも、亀裂が差し込み、例外なく黒い靄が漏れていた。奇怪や憐憫、苦痛。それらは確かに感情として抱いたが、最も大きくその割合を占めたのは。


 喪失感だった。


 知っている彼女。数週間前に出会った彼女。病院内で話し合った彼女。

 そのどれとも、一致しない。

 フィルトの記憶が、上書きされる。

 昨日の思い出には、亀裂が乱れる。


「黙っていて、ごめんなさい。言った方が良いって、分かっていたわ。それでも、やっぱり。知られるわけにはいかなかったのよ。あなたのそんな表情、見たくなかった」


 声は詰まって、けれど声音は優しいままだった。

 いっそのこと、盗み見ていたことを怒ってくれればいいのに。しかしフレスもスートもそうしない。フレスが微睡んだような瞳を讃えているのと同じように、スートは苦しそうな憐れむような、それでいて起伏に乏しい表情を浮かべていた。


「わ、私のことなんて関係ないでしょっ。そんなことよりもフレスさんは――」

「あなたと、出会えて良かったかも、しれないわね……」


 その言葉で、これで全てが終わったかのような。そんな言いようも無い吐き気に襲われた。緊張や気分の悪さから来るそれとは違う。

 受け入れられない現実への、嫌忌。

 フィルトの全身が、強張った。


「世間一般、煙突掃除屋としての規範から見れば、私とあなたは、こんなに馴れ合う必要も無かったでしょうけど。それでも私は、あなたを独りにさせたくなかったのよ」


 一緒だから、と。フレスはそう締め括る。

 何が一緒なのか。一人なんかじゃないはずなのに、どうして彼女は今そんなことを呟いたのか。

 それを問い詰めるべきなのに。

 きっとまだまだ訊くことがあるはずなのに。


「わ、私もっ。フレスさんと話せて楽しかった――」


 フィルトは、吐き気を堪えるように。言葉を吐き出す。

 違う。

 こんな言葉じゃ駄目だ。

 まるでもう、別れてしまうようではないか。

 もっと別の話を。関係の無い会話を。楽しく笑えるような内容を。

 口だけが、開いては閉じる。


 声に、――ならない。


「……ありがとう」


 微笑む彼女の表情は、それが本当の笑顔なのか。それとも亀裂によるものなのか。判別出来なかった。

 まだまだ話すことは、たくさんあるはずなのに。

 フィルトはそれを口にも出せず。そして、ただ俯いてしまう。


「……スートにも、迷惑を掛けたわね」


 先程よりも酷い、雑音が混じったような音。返すスートの声と比べても、言葉を交わす音と呼ぶには、ほど遠かった。

 それでもきちんと声として届くのは。聞きたいという思いが、あるからだろうか。


「お互い様だろう。俺も随分と迷惑を掛けた」

「……私は、あなたと出会えて、良かったと思っている、のだけれど」


 彼女の声が、遠く聞こえた。


「フレス、さん……」


 罅が破片に、亀裂が欠片に。割れたガラスのような彼女の身体は、欠けた部分が黒煙となり散り始めていた。

 綺麗な肌は、すっかり焦げたように黒く。頬が耳が骨格が、徐々に削り崩れていく。

 本当に。

 彼女は……


「確かに、俺もあんたと出会っていなけりゃ、ここまで生きてこれてなかったかもな」


 彼の声は、下向きに話されて、すぐに何処かへ吸い込まれる。

 耳は既に欠けている。彼女にそれが聞こえたのかどうかは、フィルトには分からない。けれど、フレスは、彼の応えに頷いたように。そして満足したように。口元を、歪めた。


「相変わらず、言葉を濁す、のね。そういうところが、嫌いなのよ」


 伏した彼の瞳は、何を抱いているのか。フィルトが知れるはずも無い。

 ただその光景を。

 瞳に宿す事しか。今は出来ない。


「フィルトちゃん――」


 フレスの視線が、こちらに向いた。


「スート――」


 彼女の目線が、彼に向けられた。

 僅かに身体を動かすだけで、欠片だったものは大きな塊となって、崩れ溶ける。罅が落ちて、亀裂で割れて。

 噴き出す黒煙は、雪と混じり空気に混ざる。


「いや――」


 フィルトの思いが、届くはずも無い。それを受け取る器官は、そこに無いのだから。

 けれど、彼女に残された口元は。

 安心させるような弧を描き。

 そして、紡がれた。



 さようなら――



 声は、確かに聞き届いた。

 ただ、そこに残ったのはそれだけ。

 黒い煙は形となって。そこにいた彼女は形を失って。

 崩れて、霧が溢れ出る。

 彼女の身体だったモノは、雪と共に舞い散り失せる。

 やがて、質量は無くなり。


「――……っ」


 スートが抱える彼女は、黒の衣装それだけを残して。

 消えた。

 火事の如く上がっていた煙は、曇天へと昇り。

 残された衣服は、形を保てず地面に落ちた。


 その光景は、降り注ぐ雪と相まって、幻想的に見えて。けれど漆黒に満ちた煙霧は、不気味に蠢いていて。

 バラバラと。ボロボロに。

 そうして彼女の身体は、完全に。全てが空気に混じり溶け合った。

 フィルトは、一瞬に朽ちた彼女を。ただ眺めることだけしか出来なかった。

 消え行くまで、時間は掛からなかった、はずなのに。

 何分も何時間も。その様子を見ていたかのように錯覚してしまう。

 だから、彼女の残滓が潰えた時。

 何かの質量を失った感覚が、一気に襲い掛かるように。足から力が、抜ける。膝から崩れ落ちて、呆然と世界を映す。胸に湧き上がる感情は、全ての消失。そして喪失。滲む痛みが、後から分かる。

 感覚は鈍く。

 力は入らない。

 もう、何も。

 何も考える意欲が働かない。


「……帰るぞ、フィルト」


 雪が吹雪き、風が強くなる。

 何時の間にか傍にいた、スートの声に。

 しかしフィルトはただしばらくの間。彼女がいたはずの空間を、見続けることしか出来なかった。

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