いつもと違って

 しかしその後も。

 フィルトがいくら説明しても、信じてくれる人はいない。微妙にその場に合わない笑みを作りながら、面倒臭そうに相手をされる。時には怒られ、そして時には暴力を振るわれそうにもなった。

 誰一人として、話を聞いては貰えない。全て話しても、まるで物語を聞いているような表情を作り、訊き終え出てくる言葉は、感想。作り話だと、そう思われてしまうのだ。


 初日よりも、人は立ち止まってくれる。しかしその先。フィルトの話を飲み込んでくれない。

 誰も知らない事実を、はいそうですかと。すんなり聞き入れてくれる人はいない。分かってはいたが、それが続けば疲弊してしまう。フィルトは何度目か分からない嘆願書の説明を鼻で笑われたところで、とうとう近くの壁に寄り掛かった。


「やっぱり誰も、信じてくれない……」


 煙突掃除屋には黒い煙が見えていて、それは人が抱く負の感情だということを。今更思えばおとぎ話にもなり得ない。そんな架空でしか有り得ない話を、信じてくれる道理も無い。

 前提として、無理だったのかもしれない。治らない病を治す方法として、そもそも間違っていたのかもしれない。無駄だとスートが止めたのも、それが理由。生きるために出来る事が、何一つとして存在しなかった。だからそれを止める手立てだって、存在しないに決まっているのに。

 自分は何を、期待していたのだろう。


「まだ、始まったばかりよね……」


 眼前に広がるのは、荷物を持ち余裕が無い人々。他人を気遣う暇も無い、忙しい住民。壁から背を離して、フィルトは再び道行く人に話し掛ける。

 正しいかどうか、分からないまま。

 自分自身の中で、判別もつかないまま。

 朝に訪れ昼を過ごし、夕刻を迎えて尚。

 その紙に新しく文字が書かれることは、無かった。


「もう、こんな時間……」


 一日中、人を掻き分け耳を傾けてくれそうな人を探したが、その成果は芳しくない。人通りも疎らに、それが一日の終わりを示していた。出来ることを精一杯したつもりで、けれど人々はそれに応えてくれない。

 その事実が、フィルトという少女を打ちのめす。

 もう、帰ろう。そう考えていた彼女は、自分に近付く人影には気が付かなかった。


「フィルト、だよな?」

「え……?」


 背後から掛けられた言葉。声そのものは幼いようで、しかし男らしい声音の持ち主だった。その音には、聞き覚えがある。学舎に通っている時によく絡んできた男の子。通えなくなっても、度々家の前で会っていた少年。少し前、スートに追い返されたその人物。

 振り返って見れば、懐かしさを覚える顔がそこにあった。


「ど、どうしてあんたがいるの……」

「いや、俺はお袋に頼まれて買い出ししてたんだけど。お前こそどうしてこんなところで……?」


 紙袋を小脇に抱え、防寒具に身を包んだ少年。ここは町の中でもメインストリートと呼ばれる場所。知り合いに会うことなんて珍しくも何ともないが。フィルトはしばらく固まって、目を瞬かせていた。


「お前、郵便局で働いてるんだろ。終わったのか?」


 不思議がるように、顔に困惑の色を浮き出して、その彼が尋ねる。いつもらしくない彼の様相。けれど日常に回帰した空気が、その場を包んだ。冷たくあしらわれていた冬の気候が、少しだけ、暖まる。


「今はお休みを貰っているのよ。ここにいるのは別の用事ね」

「ふーん……」


 困惑は晴れたのだろう。彼の瞳が少し綻んで見えた。今の言葉のどこにも彼が安堵出来る要素なんて無いのに、少年の様子は笑いながらもぎこちない。それが混乱によるものでは無いとは分かるが、フィルトには彼の心境が理解出来ない。


「ねえ、どうかしたの?」


 ずっとこちらを見たまま突っ立っている彼に、今度はフィルトが懐疑の視線を向ける。何か用事でもあるのだろうかと、小首を傾げていると、慌てたように視線を逸らした。


「な、何でもねえよっ。何をしてるのかなって、気になっただけだ」


 彼の瞳は虚空を彷徨う。呆然としているのではなく、焦点があちらこちらへと泳ぎ過ぎているのだ。挙動不審な態度に疑問を覚え、彼の顔を覗きこむと避けるようにまた視線を逸らした。


「なんだよ」

「ううん、なんだか今日は雰囲気が違うなって思って見てただけよ。他意はないわ」

「――っ!? そ、そうか?」

「大丈夫? 顔、赤いけど」

「な、何でもねえよっ。それより――っ」


 夕刻の所為か顔が赤い少年は、その朱をさらに濃くさせる。見たところ用事があるようにも見えない。久しぶりに話したいだけなのだろう。フィルトは軽い気持ちで、彼の言葉を待った。


「こんな遅くに、こんなところで何やってるんだよ。見たところどこかの帰りってわけでもないし。何やってたんだ?」

「えっと……」


 言うべきかどうか、フィルトは迷う。気楽に構えていた結果、その質問への答えを用意していなかった。打って変わって真剣そのものの視線をぶつけられて、今度は彼女が目を泳がせる番だった。

 ただ惑ったのも一瞬。全てを話すことで、どうせ笑われるのも目に見えている。それなら先程嫌という程味わってきたのだ。今更怖がることも恥ずかしがることもない。


 泳がせていた視線を戻し、毅然と彼女は彼に向かい合う。少しだけ、少年の頬がまたも紅潮した気がするが、気にも留めず口を開く。

 煙突掃除屋が抱く、病のことを。彼らが陥る最悪の結末のことを。その病には治療法がないということを。煙突掃除そのものを止めさせることで、もっと煙突掃除屋を人として扱うことで、その病の進行を遅めようとしていること。

 きっと笑われる。そうは思っても。フィルトは諦めることなく、冗談半分でも無く。真摯にぶつかり、それを伝え終えた。


「フィルト……」


 話し終えて、所在無さげに俯いた。表情を、どうしても見るのが怖かった。覚悟は出来ていても、それを受け入れることには中々勇気が必要で。

 フィルトは彼の胸の辺りに視線を留めていた。


「お前、やっぱすげえな……」

「え……?」


 だから彼の反応に。驚いたのは当然だった。

 それまでは語れば笑われ、気持ちを込めれば馬鹿にされてきた。それが当然だと、フィルト自身も腹をくくっていた。けれど彼は。目の前にいる同世代の少年は、憧憬の眼差しで彼女を見ていた。馬鹿にされるわけではなく、ただ純粋に納得してくれたようだった。

 それがフィルトには、信じられない。


「し、信じるの?」

「え? お前のそれ、作り話だったのか?」

「そういうわけじゃ、無いけど……」

「じゃあ信じるよ。俺、お前が嘘吐くような奴じゃないって、知ってるし」


 ぎこちなく作った彼のその笑顔が、憂慮と疑念に塗れていたフィルトの心中へ違和無く入り込む。人を信じるのは容易いが、人に信じて貰うようにするには骨が折れる。身を持って味わっていたその体感。フィルト自身くじけそうにもなった。きっと誰も信用しちゃくれないと、諦めかけた。

 けれど彼は、否定の言葉も表情に嘲笑を作ることも無く。

 真っ直ぐに向き合ってくれた。

 いつも苛めてばかりいたあの少年が、意外と親切なことに驚いて。その差異に笑ってしまって。フィルトの不安が払われた。


「……ありがとう」

「べ、別に。困ってる時はお互い様だろ」


 照れたように口をとがらせ、ぶっきらぼうに見えてその実優しさに満ちている少年。彼との間には静寂が流れたが、それは決して場を困らせるものでは無く。

 心地良い空間だった。


「よ、よしっ。それじゃあその紙、貸してくれ」

「え? うん」


 紙とペンを受け取り、彼は躊躇いなく白いスペースに名前を書いた。戻って来た紙には、自分以外の調印。何度見ても消えることなく、確かな事実として、同意者の名前がそこにはあった。


「それにしても、お前も大変だな」


 幾度となくそこに刻まれた名前を見て歓喜しているフィルトへ、少年が声を掛けた。


「大変、だけど。みんな私よりももっと、大変なのよ。私はあの人を助けたいだけだから、これを苦労だって思わない」

「……そっか」


 少年は俯いた。フィルトにはそれが諦観の念に見えて、困惑の色を映しているように感じた。今まで浮かれたように笑っていた彼は、この時少し、沈んでいた。


「――じゃあさ」

「……?」

「俺もそれ、手伝うよ。いや、手伝わせて、ほしい」


 彼の言葉が、どれほど重くどれほど振り絞られたものだったのか。フィルトにはそれを知る術がない。いつもの軽口のような、どうでもいい会話ではない。真剣だが心はどこかにあるように。何か嫌なことから目を瞑るような。

 彼が発した震える声は、そんな様子だった。


「ううん、大丈夫よ。気持ちは嬉しいんだけど、これは私が勝手にやって、勝手に助けようとしてることだから。そんな勝手に、あんたは巻き込めない」

「な、ならさ。学舎のやつらにもこのこと話してみるよ。署名活動出来れば、良いんだろ? 俺はそういうのやったことないけど、力になりたいんだ」


 フィルトの言葉をけれど彼は、素直に飲み込まない。捻じ曲がった言葉では無く、真意にそう言ってくれていることぐらい、フィルトには分かった。

 一人でやって、誰にも迷惑を掛けず終わらせる。ずっとそうして彼女は生きてきた。今回もそうしようと、思っていた。母にもスートにも、これ以上負担を背負わせられない。


 しかし彼の決意を、無碍にしたくも無かった。

 そう、これは仕方ないこととして。そのように自分自身に言い聞かせて。

 彼女は首を縦に振った。


「……迷惑、掛けたくないって。思ってたのにね」

「え?」

「はい、これ」


 彼に手渡すのは一枚の紙。念のため余分に一枚作っておいた予備用紙だ。そして彼女は笑って、素直に続けた。


「ありがとう。助かるわ」

「……あ」


 ただ笑って、素直な言葉をぶつけた。それだけなのに。何時の間にか戻っていた彼の頬の紅潮が、再び現れていた。


「どうかした?」

「えっ!? いや、何でもねえからっ。分かった。確かに任されたからっ。俺、頑張るよ!!」


 視線を避けるように、そしてフィルトから距離を取るように。彼はそう言い残し、凄まじい速度でその場から立ち去った。

 彼が居なくなって、突然静寂が訪れた気がした。少しだけ彼が走っていった方向を眺め、それから手元に残った紙に視線を落とす。


「あいつ、ずっと顔紅かったわね……」


 そんな感想もそこそこに、まずは一人、調印を貰った。

 二日でたった一人。それでもこの一人は。とても大切な一歩だった。

 高揚してしまいたい気持ちを抑え、溢れ出たその気持ちを全身に乗せる。自然と、拳に力が入った。


「……よしっ。まだまだ頑張らないと」


 黄昏時もとっくに過ぎて、今は月が町を照らしている。闇も深く、これ以上は続けられないが、それでも気分は沈まない。

 行く先の見えない闇が、少し晴れた気がしていた。

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