氷解
瞼を開ければ、そこは見知らぬ天井だった。木板が均等に張り詰められており、整いながらも所々に垣間見える汚れは、綺麗というよりも質素だとまず思わせる。
未だ覚醒し切っていない意識に身を委ねながら、ぼんやりと周囲を見渡す。天上から壁面へ。木目調の壁には窓が掛けられており、そこから見える景色は、白銀だった。
陽光が眩しく降り立ち、積もった雪はそれにより輝きを増していて。グラデーションを彩るように、冬の空は高く青く、澄み切っている。遠くに見えるのは煙突から上がる煙だろうか。それが幾つも昇っており、美しい光景を形作っていた。
「ここは……」
思考には膜が張ったかのように、上手く現実を捉える事がままならず、目の前にある光景は夢として、幻として映る。身を起こしたスートは現状を、その頭での整頓を試みるも、しかしやはり思うように働かない。
ここは何処かの部屋。自分はベッドに寝かされており、意識は判然としない。
パチン、と。
何かが弾ける音が室内に響く。惹かれるように視線を這わせてみれば、その源流は暖炉からのものだった。焼べられた薪が爆ぜ、紅い粉塵が細かに舞う。ただその炎には、勢いがなく今にも消えてしまいそうだった。多少覚醒し始めている頭で、ぼんやりとそう考えていると。
部屋の奥。
そこに設えられた扉が、音を立てて開いた。
「あら、目が覚めたのね」
焔のように赤い髪。吊り目で強気な姿勢を湛えている、その少女は。
「フィルト、か」
見慣れた少女、不思議と気にしてしまう存在。
薪を胸に抱えた彼女はスートが目を覚ましたことに、ほんの僅かに顔を綻ばせ、そしてすぐに表情を引き締めた。
「フィルト、か。じゃないわよ!! 帰ってきた家の前で倒れてて、いくら呼んでも返事がないし。そのままにするわけにもいかなかったから家に運んだけどねっ。どれだけここまで運ぶのに苦労したと思ってるのよ!! ……どれだけ、心配させたって、思ってるのよ」
嘆息と、怒りと、そして安堵。まるで違う三種の感情が、しかし混ざり合って、今の彼女を形成していた。それは、いつもの少女。しおらしくて、素直だが。確かに今まで見てきた彼女が、そこにいた。
「そうか、ありがとうな。迷惑を掛けた」
「別に……、私のことなんて気に掛けなくてもいいわよ。それよりもちょっとは自分のことも、大事にしなさいよね」
「……それは、お互い様だろう」
スートは自分自身を蔑ろに、フィルトは自分自身を犠牲に。似た者同士であるということを、茶化して言うが、彼女の反応は鈍い。それまでのフィルトならば、反抗するように言葉を返していた記憶だったのだが、どれだけ待ってみても、それがない。
やがて何やら不満そうな、何かを言いたそうな彼女は、暖炉に近付き、抱えていた薪を焼べ始めた。暖炉に焚き付けられた火は、薪を燃料として再びその威力を発揮する。
パチン、パチン、と。
勢いを付けた炎が、喜ぶように音を鳴らした。灯される明かりが、彼女の顔を照らしている。その横顔から窺えるのは、不安。明確な懸念が現れており、やはりそれは、自分が倒れてしまったこと、そのことに起因するのだろうと、推測出来た。
ただし、推測が出来ても、何も言えない。言ったとして、それを彼女が素直に受け入れるとも、到底思えなかった。
スートはただ黙って、暖炉に向かって屈むフィルトを眺める。
憂いの様相が。何事か思い詰めているその顔が。変わりゆく明かりのコントラストが。その光景全てが、切り取られた一枚絵のような刹那的な情景に見えて。
幻想的に感じられた。
「ねえ……」
不意に、声が鳴った。
フィルトは暖炉と向き合ったまま、しかし意識は明らかにこちらへと向けて、声を振り絞らせる。
「煙突掃除屋って、なんなの? 煙突を掃除するだけでもなくって。人の嫌な気持ちを吸い取ってて。それからその悪意に取り込まれて。最後に……、この世から消える。これじゃまるで、初めから死ぬために働いてるようなものじゃない……」
その声には、悲痛が。
そして、憐憫が。
痛いほどに伝わってくる。痛いほどに、哀しく響いた。
自分がそうなるわけでもない。フィルトと煙突掃除屋は、微塵も関係がない距離感で。気にしなければそういった生き方も選べるはずなのに。
彼女は辛い方ばかりへと、その強気な瞳を向ける。
さぞ、生き辛いだろう。
さぞ、息が辛いだろう。
彼女は、自分と似ているようで。
しかし全く異なっていた。
「それに応える前に。俺から質問させてくれ。……お前さんは、どうしてそんなに頑張れる。関係無い、と言えばそれは非情と判断されるかもしれないが、俺とお前さんは、煙突掃除屋とその顧客。それ以上でもそれ以下でもないはずだろう。人助けとして俺を助けたのは分かるが、しかしそれ以前に、俺の安否を気遣う理由も無いはずだ」
「そんなの、困ってる人を助けるのなんて当たり前でしょ」
「それも確かにお前さん自身の考えではあるんだがな。ただそれだけで、俺の身を案じる行動を取るとは思えない」
「……それは」
彼女の呟きが、暖炉の火に焼べられる。依然としてフィルトは目の前で燃える炎から、目を逸らさない。理由はあるのだろう。ただ彼女は、それを言うべきか迷っているようだった。
たっぷり数十秒、間を置いた後、そうして声が漏れる。
「……お父さんに、なんとなく似てる……、から」
自信が無い、というよりもそれを発すること自体に恥ずかしさが伴っている様子。スートはそれを聞き取るが、しかし当然、実感は湧かない。
スートは彼女の父とやらを、見たことが無いのだから。当惑したように、どう反応を返すのが適切なのかも分からず、曖昧な言葉で頷いた。
「なるほど、つまりフィルトの親父さんは嘘吐きでやる気をあまり見せない種類の人間というわけか」
「違うわよっ。あんたと一緒にしないでくれるかしら」
「いや、似てるって言ってなかったか……?」
さらに困惑した。振り返り噛み付くように反論した内容と先のフィルトの言葉との食い違いに、彼女の父親像が見事に砕ける。彼女自身、その矛盾点に気が付いたのか、顔に朱を差しそっぽを向いた。
「……お父さんは、優しくて真面目で私が困ってるといつも助けてくれた。全然怒る人じゃなかったけど、色々勉強とかも教えてくれて。私は、そんなお父さんが大好きだったの」
「……やっぱり似てないじゃないか」
「確かに、これだけ見れば似てないわね……」
取って付けたような苦笑い。どう考えても、スートと彼女の父は、別次元の人間だ。一方は優しく人を導き、他方は人との距離を遠ざける。相反するとまではいかなくとも、きっと馬が合わないだろうなと、彼は適当に思い浮かべた。
けれど彼女は。
でも、と。
強くはっきり、続く言葉を表した。
「お父さんも、スートも。働いてる理由は同じだったわ。本音か建前か、そんなの分からなかったけど。私が聞いた時、人を救いたいって、二人共そう言ってた」
「……あれを俺が本気で言っていると思ったのか?」
思い起こすのは、フィルトが煙突掃除を見たいと言ったあの日の光景。スートはその時確かにそう言った。
煙突掃除屋を続けているのは、人を救う為でもあるのだと。
しかしそれも建前のつもりだった。本音など、大した理由も無い。なるようになって、そこから煙突掃除を続けている、それだけだ。もし信じているのならば、お人好しを通り越してただの馬鹿だと、そんな烙印を押すことも躊躇わない。
スートの反応は冷たく、容赦も無い。騙したつもりも無い嘘を、鵜呑みにしていた彼女へ、同情する形も作らない。
ただフィルトは。
真剣な様相を崩すことなく。視線をスートに送る。
その場しのぎとして、煙突掃除をやる目的を特に意味も無く語った。
彼女もその時は聞き流したと思っていた。しかし時折、彼女はその文言を口にする。人を救うための煙突掃除だと、それを信じるような声音で。
今も、それと同じ。
彼女の瞳は、迷いなく淀みなく。綺麗なガラス細工のようで。
返す言葉は、自信と確信に満ちていた。
「私だって、あの時は信じてなかった。だって煙突を掃除して、人を救うとかどうとか。有り得ないもの」
「じゃあどうして――」
「救ってるんでしょ?」
彼女の声が、響いた。それは部屋だけでなく、三半規管、脳に至るまで。浸透していくかのように、その言葉は、染み込んだ。
「どういう、意味だ?」
「だって、人を実際に救ってないと。あんなこと言えないもの。煙突掃除が何かなんて、一つも分かって無かった私にそんなことを話すのも、余計ややこしくさせるだけだと思うし。それに……」
パチン、と。もう何度目か分からない、暖炉から聞こえる音を背後に。
彼女は何故か嬉しそうに、微笑んだ。
「まず初めに、そんな言葉が出てくるんだもの。きっとあんたは、そう思ってるって。私には分かったのよ」
証拠は無い。それは彼女が勝手に見出した可能性。当人に当てはまるとは限らないし、そうならないことの方が多い。その根拠として、彼女が呈したその発言も、全く以て事実無根。根も葉もない噂にもなり得ない、妄言であって戯言に過ぎなかった。
いくら彼女が自信を持っていたとして。
それを言葉と視線に乗せたとして。
その現実は変わらない、はずなのに。
けれどスートには。反論するでもない、反抗するでもない。黙ってその事実を受け入れることしか出来なかった。
「だから、ね。そんなお父さんに似てるあんたを。人を救ってそれを隠してるあんたを。今度は私が助けたい。お父さんもフレスさんも、それにあんたが消えるのなんて、もう……見たくないから」
彼女の父が煙突掃除屋だと言うのなら、当然その末路も理解出来る。そして目の当たりにしたフレスの最期。
フィルトがこの数日間、覇気も無く距離を置いていたのは。
逃げるため、それもあったのかもしれない。
避けるため、それもあったのかもしれない。
けれど本当は、本当にしたいことはそうではなく。
「フィルト、お前さん……」
「だから教えて。煙突掃除屋のことだけじゃなくて。煙突掃除屋を助ける方法を」
真摯な姿勢。芯のある情念。彼女が抱いていた想いと、心を占めていた感情が、堰を切って口を出ていた。
言葉だけでは無く、それこそ態度だけで。フィルトがいかにその想いを強く抱いているのかが分かる。この場で語った、全てが本音。いやこの場だけじゃない。思い返して見れば、彼女は真実しか言ってこなかった。飽く迄他人に対してで、自分の感情を隠そうとはしていたものの、それはしかし、表情で見抜けてしまう。
嘘を吐かないのではなく。
虚言を吐けない人間なのだ。
だからだろうか。
スートは彼女を見て、少し気分がざわついた。
嘘を吐かない人間が嫌いというわけではない。確かにそういう人種とは馬が合わないことはあるだろうが、彼女の場合は真実を語っているのではなく、直進的なのだ。直進していたモノが偶然として真実になっている。そんな印象なのだった。
だから嘘がどうとか、そんなことは全く関係なく。
胸中に暗雲が立ち込めたのは、また別の理由。
これから口にすることで、彼女がそのやる気と信念を損なう結果になるのではないか。それがスートには、気がかりだった。
「分かった。煙突掃除屋を助ける方法だな」
フィルトは頷き、スートは声音に変化を付けず、さらに続ける。
これは、彼女に何かしらの変化をもたらすだろう。それはまず、間違いない。救いたいという一心で、消えさせたくないという思いで、この数日過ごしてきて。さらにはその心境を口にまで出した。
フィルトの想いを踏みにじるようなことはしたくないが。
変な希望を与えることは。
スートにはもう出来なかった。出来ない領域にまで、踏み込んでしまっていた。
「助からない」
「……え?」
だから。正直に、語る。
それが彼女のためだと、そう判断して。
「助からない。俺たち煙突掃除屋は、死ぬことが前提だ」
彼女が見せる表情は、呆け。
驚いたような信じられないような疑っているような聞きたくなかったような力の抜けたような。
それらが混ざったような、様子のフィルトに。
「俺は、嘘を吐かないよ」
さらに追い打ちを掛けて、言葉を締めた。
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