貴方を想う
ノックをして、フィルトは扉を開けた。部屋にはベッドと暖炉、それから簡易な机と椅子、それぐらいしかない。元々客間としての役割がそこにはあったので、寝泊まりさえ出来れば十分。広さも、あとベッドが三つほど置けるぐらいには取られている。
普段使わないその部屋へ、彼女はしかし日頃からそうしているように、躊躇なく入り込む。
目的は、ただ一つ。
ベッドで伏せている男に、話さなければならないことがあるからだった。暖炉にくべられた火は、その勢いを弱めつつあり、少しだけその部屋は肌寒く感じられた。
「スート……」
肝心の人物は、寝入っていた。部屋に入っても、設えられた椅子を引き寄せて間近に座っても。反応を見せずただ寝息を立てるばかり。
しばらく、彼の顔を眺める。
初めて会った時、そして度々訪れてくれていた時とは、顔色が随分と違う。何事にも動じない、悪く言えば無関心を貫いたような表情は崩れて、寝ているのにもかかわらず苦しそうな面持ちで、胸を上下させている。
土の色。今の彼は、確実に弱り切っていた。医療に明るくないフィルトでも、それは分かってしまった。
ミシミシ、と。
家の何処かでそんな音が鳴った。窓の外へ視線をやれば、白い粒子が目まぐるしく舞い流れている。ここ数日、天候はずっとこの調子だった。風は強く、雪は降り止まない。そのせいで、日中であっても室内は薄暗く、暖炉の小さい灯りが、申し訳程度に闇を拭っているだけだ。
ランプに火を灯すこともせず、ただフィルトはそこで座り続けた。ベッドの真横、彼の顔が見える位置。すぐにでも彼に触れられる場所で。
「……私には、あなたが何を考えているのか分からないわ」
ポツリと、誰に聞かせるものでも無い言葉を、吐露した。
そして、それは本心。
彼本人のことも、煙突掃除屋のことも。フィルトには理解出来そうも無かった。わざわざこの世から消える事が分かっていて、それでもなお責務を果たしている彼ら。不器用という一言では片付かないその生き方は、素直にみっともなかった。
生かすために生きているその姿を見ていると、手を差し伸べたくなる。それが同族に対する優しさなのか、それとも嫌悪なのか。
あれから。
色々と思考を巡らせて、考え続けているが、答えなど見つかるはずも無かった。やはり何を思っているのか、彼の行動からも推察出来ない。
何故そこまでして、人に宿る負の感情を請け負おうとするのか。わざわざ待ち続けて、そっけなく対応したにもかかわらず、会いに来てくれるのか。
ずっと聞きそびれていた。
気になる事はたくさんあるはずなのに、なんとなく尋ね辛かった。
「多分、あんたも私のこと分かって無かったでしょうけど」
微笑んで、反応が無いことに、寂寥感を抱く。このまま目を覚まさない可能性だって、ゼロではない。未だ治療法が確立されていない奇病だ。何があっても、不思議では無い。
膝に乗せた手へ、力が入る。その拍子に、握っていた紙がくしゃりと寄れた。
それは目の前にいる彼を救うことが出来る紙。今の理不尽であり、おかしい世の中を変える同意書。
そこには文字の羅列。名前が、紙の余白を埋めていた。その数は五百余名。数十枚分の紙で、調印が施されている。五日前の数からは、考えられない数量だった。
フィルトが都市へと降りて、怪しげな老翁に紙を渡したその日から。
雪の降る中、同意者探しに明け暮れた。天気も悪く、年の瀬へと一日ずつ近づく度に、通り行く人の機嫌は悪くなっていった。成果がゼロの日が、三日程続いて。学舎の友人たちを当たってくれていた少年から紙を受け取る。そこに書かれていた名前は十名少しだったが、それでもこの数日の進度から見れば大きな一歩だ。
転機が訪れたのは、その二日後。つまり今日。怪しげな老翁に言われた通り、前回スート共に訪れた不気味な雰囲気を放っている店を尋ねたフィルトは、そこで驚愕した。受け取った紙が渡した一枚どころか、厚みが出来るほどに増えている。いや、そこよりも何よりも。紙に書かれている名前の数。それは確かに一人一人筆跡の違う、調印の証。それが四百以上、確認出来た。
一体どのような方法を用いたのか、そう尋ねれば、これまでとはまた毛色の違う笑みを象った。それは、何処よりも何よりも、優しい笑み。
「煙突掃除屋に、頼みました。同業の死を嘆く方は多い。死を忌避して、しかし諦観している彼らから同意を頂くのは、思いの外簡単でしたよ」
きっと彼らも生きたいんですよ、と。そう締め括った。
老翁は、経歴を語らない。ただのしがない商人だと、そう言い切る。
気に掛かる。尋ねたい。しかし結局、フィルトが胸中に湧いた疑念を漏らすことは無かった。知らなくても、訊かなくても、分からなくても。
人は十分に救える。
……これで。
詳しい経緯こそ引っ掛かるが、信頼に足る人だと受け取れた。老翁のおかげで、少なくとも達成することは出来るのだから。この量ならば事務的に追い返すことも無いだろう。
彼を救うことが出来る。
逸る気持ちを抑えて、フィルトは確かな事実を噛み締めた。
そして、ここにいる。
今も苦しみ、生き続けることを諦めている彼に。
この世に留まり続けても良いという許可を報告するために、彼の前にやってきたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます