彼は想う

「――……ん。フィルト、か?」


 どれだけ時間が経過していたのか。ずっと付きっきりで彼を眺めていたフィルトは、その声にしっかりと反応を返す。

 弱々しい声だった。張りがあったことは、それまでもなかった。いつも同じ抑揚で、起伏を感じ取りにくい人間だった。

 それでも、気が付いて発された声は。

 はっきりと区別が出来るほどに、薄弱としていた。

 変わり果てた彼の様子に、胸が締め付けられる。


「悪いな、少し……寝てた」

「ううん。私の方こそ、起こしちゃったみたいで。……ええと。スートに言いたいことがあって」


 視線だけで、疑問を投げ掛けてくる彼に、フィルトは堂々とそれを見せた。

 この一週間に渡る努力の結果。日中、悔しいことも苦しいことも乗り越えた結晶。

 煙突掃除屋に無理な仕事をさせないという旨の同意書、そこに並べられた調印の数。これからも生きても良いという、それを可能にするかもしれない数十枚の紙束。

 あくまでもそれは、嘆願書。書いたことがその通りになる魔法の紙では無い。

 それでも、証として。

 煙突掃除屋が無理をしないための事例として、その紙は存在する。

 そしてそれはそのまま。

 病に伏せっている彼を、救うことを意味していた。


「私、集めたわ。煙突掃除屋の、あんたをこれ以上苦しめないために。他の人にも助けてもらって、自分勝手に進めたけど。でも、きっとこれで大丈夫」


 一枚一枚捲って、けれど途中で納得したのか、それ以上手を動かさず紙を置いた。

 視線が、交錯する。その瞳はくすんでいて、精気が薄く、とてもではないが見ていられなかった。


「その……、もう。煙突掃除屋の仕事なんて、しなくてもいいから。大丈夫、だから……」

「そうか」


 不安、だった。これできっと救われた。同意者の数が集まれば、機関も検討せざるを得ないはずだ。煙突掃除屋は黒煙をこれ以上取り込む必要はない。

 大丈夫だ、と。

 その言葉の矛先は、目の前の彼にではなく。

 フィルト自身に向けられたものだった。


「これであとは、元気になるだけね。根本的なことは解決出来なかったけど、病気の悪化は防げるわ」

「そうだな」


 わざと気丈に振る舞ってみて、けれど彼の反応は何処までも薄い。

 滅多に笑わない彼が、年相応に笑顔を浮かべた。

 それは優しい笑み。在りし日に、父が浮かべたものと似ていた。

 やはり、父の姿と重なって、見えてしまう。

 ベッドの上に横たわって。淀んだ瞳を携えて。息をするのも苦しそうに。それでもたどたどしく笑って。

 それから――


「わっ――!!」

「大変だっただろう。ありがとうな」


 頭に置かれたその手は、冷たくて、重かった。


「そ、そうよ。感謝してよねっ。かなり疲れたんだから!!」


 そんな事実から目を背ける。冷たくて重い手からも。生気の無い眼からも。無理に感情を曝け出している表情からも。今の現状から、フィルトはまたしても逃げ出そうとした。

 それを、彼の言葉が引き留める。


「フィルト、俺もお前さんに、話したいことがあってな」


 その言葉その声に。

 どうしても、身構えてしまう。声量の落ちた、痛みを伴わせる音が。フィルトの鼓動を打ち鳴らす。

 それが表情に出てしまっていたのか、彼はぎこちなく笑って彼女を落ち着かせようと努めた。


「なに、緊張することなんてないさ。これから話すのはある種、俺のことだからな」

「な、なによ。今更……」

「そうだな、今更だ。けどこれは大事なことだ。どうしてもお前さんには、聞いてほしくてな」


 手早く話し始めるでもなく、彼は一呼吸吐いた。

 その息は、黒い。


「お前さんに目を掛けた理由、ずっとこの一月関わってきたのはな。何も黒い煙が理由ってだけじゃないんだ。俺とお前さんは、鏡合わせ。随分と、似てるやつがいるもんだと、そう思ったのがきっかけだ」

「鏡合わせ……」

「そうだ。単に似てるわけじゃない。要所はまるで同一だがな、しかし、鏡一枚隔てた向こうは、全く違っていてな。例えば俺は、お前さんみたいに素直じゃない。ただ、似てる部分も確かにある。鏡合わせってのは、そういう意味だ」


 苦笑して見せる彼の表情は、楽しそうで。

 疲れていた。

 フィルトも似た感想を抱いていたので、そのことは簡単に受け止められる。続く話に、耳を傾けた。


「それで、違うからこそ。俺と同じように、なって欲しくなかった。自分を大切に出来る人間は、今は軒並みシアワセだ。一方で他人を気遣って生きている俺たちは、死にかけている。お前さんには、そうなって欲しくなかったんだろうな」


 彼の独白。

 他人を大切に出来る人間が、死に。

 自分のことを気に掛けている人は、きちんと今を生きている。

 それに対して反論しようと、口を開いて。しかし自分自身、それを言える資格も持っていないと気付いて、閉じた。

 人がシアワセかどうかなど、他人が決めることではない。そんなことは、分かっているのに。

 何も、言えなかった。


「思えば、お前さんと会えたから。こんなに色々と、考える事が出来てるのかもしれない。ただ漫然と、黒煙を溜め込んでいて、淡々と日常を、過ごしているだけだったかもしれない。多分、俺は、フィルトに救われたんだ」


 重くやつれた声を、それでも陽気にさせようとしていて。じっと見つめる瞳に、フィルトはしっかりと応えた。

 その言葉は、フィルトが受けるべきものではなく。


「……違う。救われたのは――」


 それまでは、つまらない人生だったとも思わなかった。それすら浮かばない、日夜働き詰めの母との二人暮らし。幸せかどうかと問われれば、判断に困るが、それでも日々を過ごしていた。


「私、ずっと一人だと思い込んでいたの。お父さんが居なくなって、お母さんも帰ってくるのは遅くて。だから、独りで生きていかなくちゃって、そう思ってた。でも、あんたと出会って、不思議とね、そういう感覚が無くなった」


 そうして彼女は、ポツリポツリと、本心を吐露していく。

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