それはとても大切な一枚

 もうあと五日もすれば年の瀬だ。昼を過ぎて都市に訪れたフィルトは、前回よりも遥かに増しているその人の量に辟易していた。


 老翁の助言もあって、やって来たのはいいものの、絶え間なく行き交う人の中で、紙を持って右往左往するのは躊躇われる、というよりも出来なかった。道で立ち止まって探すのは言語道断。人一人入れる隙間は随所にあるが、それも人の流れにより流動する。そんなところで活動をすれば、結果はどうあれ心象は最悪だろう。


 激流している川のような人々の混沌に、やはり一歩下がってその光景を眺めることしか出来なかった。

 見たところ、行き来する人のほとんどが疲れている、もしくは苛立っているように見える。年を越したその数日間、あらゆる店は休業するので、今から備蓄をしておかなければならないのだろう。抱える紙袋には総じて食材が詰め込まれていた。その忙しさが、人々の心にある余裕を破壊していく。この場で他人に構える人間など、いないはずだった。


「帰ろうかしら……」


 いつまでもこんな所にいても事態は好転しない。都市の中心地から離れれば多少はマシになるだろうが、それでも都市全体に流れている忙殺の空気は消えないだろう。見ず知らずの人間を気にする人は、ここにはいない。


 結局彼女は、誰にもその紙を見せることなく。帰路に就くため人の流れに入り込もうとして、失敗した。岩のように身じろぎ一つしない大男にぶつかり、バランスを崩して。さらに後ろから走ってきた二人組にぶつかって尻餅を着いてしまう。その間も、人の往来は止まず、気が付けば。


「あっ――」


 手元にあった紙が一枚無くなっていた。慌てて見渡せば、少し離れた先にそれは見える。ただいつまでもそこに留まるわけも無く、強く吹き付けた風がその紙を舞い上がらせた。


「ちょ、ちょっと待ってっ」


 視線はその紙を捉えたまま。風に漂う同意書をフィルトは追いかけ始めた。

 波にもまれるように、流れに逆らいながら駆ける。しかし差は縮まらない。人にぶつかる度に謝り、その間にも紙との距離は開いていく。


「お、お願いだから――」


 あの紙には、五人分の署名がある。それは決して小さなモノではなく、フィルトにとっては何よりも必要な、大事な紙だ。

 人に信頼してもらって、人から信用をもらって。ようやく形になった五人分の署名。失うわけにはいかないのに。しかしそんな彼女の想いも虚しく、宙を舞う白い紙との差は広がり続ける。どれだけ叫んでも、どれだけ口にしても、止まってはくれない。


 もう一度紙を作って署名をもらえば済む話では、ない。

 あれは文字通り努力の結晶で、信頼を具象させたもの。次に同じものは、作れない。そして何より、彼女が諦めたくなかった。

 必死に走り、しかし人の波に押し戻されて。時には見失って。再び見つけた時には、誰かが拾い上げている瞬間だった。


「す、すいませんっ。とても大事なものだったんです。拾って下さってありがとうござ――」


 息を切らし、肩を上下に揺らすフィルトの視線が、その人物を捉えた。


「おやおや、あなたは」


 母のお見舞いの為にスートと都市へ来た時に、立ち寄った怪しげな店。その時の店主がそこにはいた。胡散臭そうな風貌に、人懐っこそうな柔和な笑み。見間違えるはずも無かった。


「あの時本を貰ってくれたお嬢さんじゃありませんか!! いやあ、偶然ですねえ」


 その人物は笑みの彫りをさらに深くして、歩み寄ってくる。随分と親しく話し掛けてくるが、もちろんあれから面識があったわけでもない。

 目の前にいる老翁は常にこういった態度なのだ。気さくに話し掛けてくるが、しかしその裏は見えない。フィルト自身、曖昧にしか彼を記憶していなかった。


 少し警戒を露わにしているフィルトを他所に、老翁はさらに一歩踏み込む。足も言葉も、より近づく。


「どうです? 面白かったでしょう、あの本。なにせ世界にただ一つ、東洋の国を記した書物ですからね」

「は、はい。とても興味深かったです……。――あの」


 視線を外し、手に持つそれへと向ける。さすがの老翁も気が付いたのか、言葉で表す前にフィルトへその紙を手渡した。


「これ、あなたのですよね。いや、良かった。見たところ大変大切にされているもののようですからね」

「はい、あのっ。ありがとうございました!!」


 これが無くなっていたらと思うと、背筋が凍る。フィルトは受け取ったその紙を離さないように、紙に皺が寄らないよう静かに握った。

 気が付けばそこは大通りを抜けた先。憩いの場と称された休息場だった。噴水やベンチなどが設けられ、人の流れを感じさせない異空間が形成されている。走っている内にこんな場所まで来てしまっていたようだ。

 周囲を窺っていたフィルトはその後ある視線に気が付いた。目の前の老翁が、それまでと同じようで僅かに異なる、不可思議な瞳を向けていた。


「いえいえ。お役にたてたようで何よりですよ。ところで――」


 穏やかにそう言って一区切り。予想出来るはずも無い。フィルトはどこか緊張した面持ちで次の言葉を待つ。


「その紙、少し見えてしまったのですが、何やら只事では無い様子ですね。お手数でなければ話を聞かせて欲しいのですが」

「え?」


 その応えは意外、それ以上の何ものでも無かった。拍子抜けした、という意味での意外ではなく、提案内容そのものが意外だったのだ。


 この紙に書かれている内容を読んで、興味を持ってくれた人間が今までいたか。昨日も今日も、フィルトという人物を見て同意してくれた人ばかりなのではないか。あの紙に書かれていることなど精々、煙突掃除屋が危ない、という意味を込めた文ぐらいしか載っていない。自分には関係ないことだと、大半の人間がそう思い放棄する内容だ。


 けれどこの老翁はただそれを見ただけで、興味を示した。そういう人もいるのかもしれないが、フィルトにとってその事実は、やはり異様だった。

 ともあれ、話さないわけにもいかない。感謝こそすれ、驚く場面では無い。フィルトはそれまでと同様、この国で働いている人間のことをありのまま話した。

 そして彼は、あっさりと信じた。


「そういうことならば、協力させていただきますよ。その煙突掃除屋は先日いたあの人も含まれているのでしょう」

「……あの人? スートのことですか?」

「ええ、ええ。お嬢さんと一緒にいた白い髪の男性ですよ。それで、その調印書に名前を書けばいいんですかね」

「はい、ありがとうございます。……でもどうしてそんなに――」

「簡単に記入してくれるか、ですか? 私自身も兼ねてより、どうにかしなければと思っていましてね。ちょっとした知り合いが、煙突掃除屋にいるんですよ」


 その言葉に疑問は残るが、返された紙にはきっちりと名前が書かれていた。これでようやく六人目。その内見知った人が半数だ。全員が協力的で、優しかったと言えるが、ここからはそうはいかないだろう。この調子だとあと何日掛かるのか、予想さえつかない。


 それに、本当にこの先に救いがあるのかさえも分からない。同意者を百人以上集めたとしても、機関にそれを突っぱねられてしまえばそれまで。そもそも、それだけ人が集まるのか。


 目の前を通り過ぎていく人を流し見る。

 これだけ人がいるのに。協力してくれる人間はほんの僅か。全員が自身のことだけに目を向けて、他人を思いやることも無い。他の人をただの背景として処理して、そうして帳尻を合わせているのかもしれない。


 フィルトはそのことを悪だとは、微塵も思わなかった。

 誰だって幸せになりたい。そのために近い場所、自分自身に目を向ける。食材だって買いに行くし、誰かの手伝いだってする。

 その中に。一体どれほどの人が他人のためと思って出来ているのか。

 煙突掃除屋は、全員がその命を削っているらしい。

 人を助けるために、身を犠牲にしている。綺麗な部分しか見えていないのは、フィルトも分かっている。しかしやはり、そういった部分は確実に存在していて。

 判然とした事実なのだ。


「……そうですね。お嬢さん、少しよろしいですか?」

「え? はい」


 半ば魂が抜けたように、目の前の光景を見つめていたフィルトに、老翁が話し掛ける。何かに納得したように、決心したかのような声色は、それまでの老翁からは想像もつかないものだった。


「これをあなたは何時頃から始めましたか?」

「え、ええと……。二日前から、ですけど」

「ふむ、二日で六名。ならばこれから一月で大体百名に到達出来るという計算ですね。もっとも、そう上手くはいかないでしょうが」

「あ、あの……。何が言いたいんですか?」


 つい聞いてしまい、後悔する。恐らく次に彼から出てくる言葉は、今のフィルトが一番聞きたくないことだろうから。

 耳を塞ぐ。会話を被せる。その場から離れる。どれかを選んで行動に移すよりも前に。

 彼の言葉が、心中に突き刺さった。


「このままでは無理ですよ、お嬢さん。同意者集めは、もっと過酷で難しいのですから。きっと今のままでは、あなたの方が潰れてしまう」

「……そ、そんなこと――」


 分かっているつもり?

 やってみないと分からない?


 続けるはずだった言葉が、一体どちらだったのか。思考を巡らせても、答えに結びつかない。どうすることが正解なのか、模範解答が浮かばない。

 奥歯に、力が入っていた。

 悔しい、と。そう感じているのかもしれない。

 そしてそれはそのまま、負けを。敗北を認めているに等しかった。見えていて、見ようとしていなかった事実を目の当たりにしてしまって。

 フィルトの俯いた顔に、諦観の渦が巻く。

 一体自分には。何が出来ていたのだろう。

 そんな自責の念に覆われている中で、老翁の声が響いた。


「大丈夫ですよ。このままでは、と。私はそう言いましたから。微力ではありますが、あなたの力になれることがありますよ。なに、先程も言いましたが、意外と知り合いは多いんです」


 ゆっくりと、俯く顔を上げる。そこには先程までの老翁が。怪しげとも言える柔和な笑みを讃えた一人の存在が。

 力強い口調で、さらに付け加えた。


「心配なさらないで下さい。年が暮れるまでに、今の数十倍の調印を貰ってきてあげますよ。やはり人を救うために動くというのは、清々しいモノがありますからね。それでは、五日後にまた、来てください」


 やがて、雪が降り始めた。

 それから一週間降り続けた雪は、皇国有史に残る降雪量だった。

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