寒さは雪の所為か

「……どうしてまた来てるのよ」


 夜になれば周囲の気温は一気に下がる。冬になれば尚更で、雪こそ降っていないが外套越しからでもその寒さは痛感出来た。

 そんな日が暮れたタイミング。フィルトの家の前で。

 今日も今日とて二人は出会う。

 やはりフィルトは不機嫌な表情を隠そうともせずに、しかし不思議そうな面持ちで、スートを睨んでいた。


「私と出会うことで、あんた。消えちゃうかもしれないんでしょ? 私と関わらない方が、あんたのためで……」

「それはお前さん、自分勝手な意見が過ぎるだろう」


 彼女は優しく、そして自分を蔑ろにする。彼女がスートから逃げているのも、これ以上接触を続ければ、今度はスートが消えてしまうと。フィルトはそう考えていることは、想像に難くない。

 ただ、スートとしてはそれは本意では無い。

 人を救う、という大それたことは掲げているが所詮手が届くのは身近にいる人だけ、目についた人間だけだ。その認識出来た少数を気に掛けるために、煙突掃除屋は動く。

 それがこの仕事を続けている意味。だから逃げられたり気を遣われれば、余計な労力を使うだけなのだが。

 フィルトにそれを正直に伝えたところで、首を縦には振らないだろう。


「俺がお前さんの負債を背負ったぐらいで、くたばるように見えるか? 気負い過ぎだ。心配してくれるのは嬉しいが、しかしお前さんがそいつを抱えたままじゃあ、俺は煙突掃除屋として責務を果たせない」

「そうは言うけど……。あんなもの、見せられたら――」


 フィルトの表情に陰りが差す。思い出すのは恐らく、あの光景。いや、思い出すのではなく、こびり付いていると言った方が正しいか。二日前から、彼女を蝕む最悪の出来事。そこから彼女は逃れているのだ。

 だから、思い出す必要は無く。

 ただ視線を向ければいいだけ。

 簡単に出来てしまえることを、彼女は辛そうに痛そうにその表情で表した。


 まるで。

 自分さえいなければと。

 そう思い詰めているかのような。

 そんな危うげで儚げな様子。


「安心しろ。俺はお前さんに負担を掛けるようなことはしない。フィルトが気に病むことなんざ、何一つとして無いからな」

「……」


 じっと、品定めをするかのように三白眼でこちらを窺うフィルト。またぞろ嘘を吐いたと思われたのだろうか。

 スートはそれに対して心外だと、そのような憤りは抱かない。ただ黙ってその視線を受け入れて、特に感情も籠っていない瞳で見返すだけだ。

 しばらく無音の牽制が続く。

 が、先に折れたのはフィルトの方だった。


「もういいわ。あんたと話してるとこっちが疲れてくるのよ……」

「酷い言われようだな。俺はいつも通りに喋っているだけなんだが」

「じゃあ普段から疲れさせているってことね」


 彼女はそこで手打ちのように、矢継ぎ早にそう言い終えて、家へと入っていった。この調子だとまだ当分掛かりそうだと、閉じた玄関扉を見ながら思う。

 あまりのんびりともしていられない。

 スートは若干の焦りを胸に馳せ、今日もそこで引き下がった。




 それから、数日。

 彼の毎日は変化することなく、ただ日常として過ぎて行った。常連の煙突掃除も、ようやく吐き出してくれた黒煙の請負も。感慨深くも何ともなく、ずっとそうであったかのように。それしか道が無かったかのように。スートはいつもと同じことを、同じように繰り返す。


 ただし、ペースは速い。これまで毎日のように煙突掃除はして来たが、心の病化の割合はそれほど高くない。それはたとえ見つけられたとしても、簡単には心の穴を埋めることが出来ないという点と、それだけハイペースで成し遂げてしまえば、簡単に許容量を超えてしまう点。その二点が前提としてあって、本日まで生き永らえて来たようなものだった。


 けれど、この数日でスートは既に四件もの穴を、埋めている。

 黒い煙を吸い込み。自らの身体に負荷を掛ける。それを続けて、異状を飲み込む。朝昼夕を、それら煙突掃除の務めに当て、そしてその終わり。夜に差し掛かろうという時間には、フィルトと会うようにしていた。


 フィルトと出会って。そうして不毛な会話を二言三言。彼女の真意に触れるか触れないかの線をなぞりながら、スートはひたすらに足を運び続けた。執念、などという格好の付いたものではない。そのような大層な理由など無く、ただ特殊な彼女と関わり合いでいたかっただけなのかもしれない。


 救うだの助けるだの心の穴を塞ぐだの、口では偉そうなことを言いながら、その実気に掛かっていただけなのかもしれない。簡単なことでさえ、難しく。遠いものは、不思議と身近に。彼女との距離は曖昧となりつつあった。


 毎日、フィルトと出会い。

 そして最早そうすることが流れの一つであるかのように、少し話して彼女は自宅へと引っ込む。彼女の黒い煙はそのままで、吐く息はより黒くなった印象さえ覚える。彼女の心は晴れないのだろう。根本として彼女の父との死別。そしてフレスの死に立ち会ったことが、より彼女の心中を締め上げているはずだった。


 これ以上の被害を出さないためのすれ違い。

 これ以上の惨劇を繰り返さないための逃げ。

 彼女はこれまでのような笑顔を見せることもせず、顔を赤らめることもせず。少女らしさというモノを掻き消して、スートと向き合っていた。

 その感情から窺えるのは、恐怖と辛苦。彼女の心境が落ち着く気配は、微塵も無かった。


 それでもスートは、足繁く通い続ける。

 煙突掃除屋として。

 そして彼女を救うことの出来る人間として、そう自覚して。

 巻き込んでしまった少女への贖罪を、きちんと清算するために。彼女に会おうとする。


 そして、スートはこの日も待ち続けていた。

 その日は雪の降る日で。白い羽虫のような粒子が、空を舞って乱れていた。風も強い。夜を待つまでも無く既に世界は緞帳を降ろし、視界に映る光景が白と黒のコントラストを、美しく描き出していた。


 元来、寒さが苦手なスートにとって、今そこにいる空間は忌避すべきものだった。外套を縮こまらせて風雪を耐え忍んでいるものの、やはり限界がある。今日のところは引き下がろうか、そう判断を下すが、しかし身体に力が入らず結局、そのまま立ち尽くす。


「……――」


 風の音が、耳障りだ。それ以外の音は無く、しばし風の独奏会を聞く羽目になってしまっている。視界を坂の下に向ければ、町が一望出来る。民家や店の明かりが輝いて見え、鉱石がひしめき合うような幻想的な情緒を想わせた。

 視界には暖かそうな街の灯り。対してここにいる自分はただ静かに佇んでいる。対岸に見える世界はやけに光を放って見えて。


 少し。

 ほんの僅かだけ。

 羨ましく、感じられた。

 スート自身が望んでも、到底手に入れることの出来ない光景。未来を生き続ける向こうの彼方と、命の先が見えている此方。憧れが無いと言えば、それはやはり嘘なのだった。


「……ああ」


 身体が重い。意識が軽い。疲れが溜まっているのかもしれなかった。

 このまま立ち去って帰りたい気持ちと、しかしフィルトに会わなければならないという感情。両者が譲り合うこともなく、競合している。自らの意志が、それに介入することは無い。いや、現状を変えたくないだけなのかもしれなかった。事なかれ主義で、しかし嘘吐きで人を救いたがる。


 我ながら、不規則な特徴付けだな、と。

 彼は自嘲気味に鼻を鳴らし。

 残っていた僅かな体力を。

 やがて薄弱とした意識を、雪の中に落としていった。

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