元クラスメイト
翌日、スートが再びその家を訪れてみると何やら騒がしい声が聞こえてきた。
「本当に分からないのかよ~」
「お前スポーツは出来ても言語はからっきしだったからなあ」
「う、うるさいわねっ。当たり前じゃない、習ってないんだから!!」
その中に昨日聞いたばかりの声も混じっている。遠目から窺えば二人の少年が、少女と睨み合っていた。
スートはそこに入り込むでも無く、遠くから様子を見る。
「じゃあこれは分かるか? 『Rudis humanum in,fumus et ephemeral,』」
「え、えーっと……」
必死に考え込んでいる。少年の一人が言った言葉は異国語だ。それもかなり限定的にしか使われていない言語。あの少女には分かる手立ても無いだろう。
「仕方ないな……」
お節介だろう。余計なお世話だろう。
子供の喧嘩に大人が口を出すものでもない。
それでも、一方的に威張られている光景をただ眺めているだけ、というのは無理な話だった。
「ふふん、やっぱり分かんねえだろー。やっぱ俺の方がゆうしゅー……」
「『人の命は煙霞と儚く、されど天へと舞い上る』。駄目だろう、女の子には優しくしないと」
「え?」
三人の視線が一気に集まる。驚嘆と奇異、そして困惑。三者三様の瞳が瞬いている。スートは一度少女に視線を向け、そうして少年二人へと戻して、腰を屈め顔の高さを合わせた。
「お前さんがそれなりに語学を学んでいる事は理解出来るが、それを自慢っぽくひけらかすのは感心出来ないな。それから隣にいるお前さんも、笠に着て自分も強くなった気になっているんだろうが、それはお前さん自身の強さじゃないだろう。一緒に居て心地良いかもしれないが、いずれ置いていかれるぞ」
「う、うるさいなっ。ほっとけよおっさん!!」
突然現れた全身黒尽くめの男に、後ずさったがその正体は知っているのだろう。不要に怯えることも無く、むっとした様子でスートに反抗して見せる。
「お前さん方、あの女の子の学友か何かだろ。仲良くしないと駄目じゃないのか」
「あんたには関係ないだろ。何も知らない癖にっ」
「知っているさ。良いか、耳を貸せ」
他の誰にも聞かれないように、スートは耳元へと口を寄せる。隣にいる少年にはもちろん、前方にいる少女には聞こえないはずだ。
「お前さん、あの女の子に好意を寄せてるんじゃないか」
「え? は? ななな何を……――っ!!」
ウサギのように、少年が跳び退き距離を取る。その声は上ずり、目の前に見えていた耳は即座に朱が差し、瞳はあちこちに向けられていた。
「なな、なんでそんなこと……」
「当てずっぽうだったんだが。図星か」
にやりと笑ってみせると、少年の顔をさらなる赤みが襲った。
そのやりとりを見ている二人には、何が起きたのか分からないのだろう。不安と好奇心が入り混じった表情で、成り行きを見守っている。
「大丈夫だ。誰にも話さないさ」
「――っ!! おい、帰るぞ!!」
「え、でも……」
「いいから!!」
戦略的撤退。
熟れたトマトのように真っ赤に染まった少年は、お供を引き連れて立ち去った。
苛めていたからどんな素行の悪い人間かと思えば、中々からかい甲斐のある少年だった。
しばらく、足早に去って行く彼らの後ろ姿を眺めていると、ふと背後からの視線を感じ、意識を移す。
「どうかしたか?」
スートは少女へと向き直る。彼女は今日も昨日と似たように、髪はボサボサ。衣服はボロボロだ。その裾を握りながら、少女は声を振り絞るように震わせた。
「べ、別に助けてもらっただなんて、思ってないわよ」
「そいつはそうだろう。俺も助けたなんて、これっぽっちも思っちゃいない」
「そ、そう。言っておくけどあれぐらい私でも解けたんだからっ」
「そうか。まあ困ってたようだったからな。つい口挟んじまった。許してくれ」
「…………」
少女の声が止んだ。
視線だけが注がれ、スートはそれに敢えて応じず、高い空を見上げる。
空模様は変わりやすい。昨日は曇天だったのに、今日は晴れた空が伸びている。
昨日、出会った当初のような敵意は、もう彼女からは感じられない。きっかけらしいきっかけがあったわけでもないだろう。彼女自身になにか思うところでもあったのかもしれない。その辺りは判断出来ないが、少女の心境に変化があったのも事実だろう。
スートがしばらく呆然と空を見ていると、少女が声を上げた。
その声は決して自信に満ち溢れたものではなく、よそよそしい、いかにも初対面の人物と話すような声音だった。
当然だ。会ったのは昨日。それも形としては悪い状況で、だ。通報されなかっただけでもありがたい。
「その、ありがとう」
「まあ悔しかったんだろう。強気なのは良い事だが、おしとやかに躱すことも覚えないとな」
「……うるさいわね」
彼女からは恐怖や困惑は感じられない。それに警戒心も。
しかしそれらの感情は消えても、自分と他人とを図る物差しのような、そんな距離感は十分に感じ取ることが出来る。
どこか、ぎこちないのだ。
「……あいつになんて言ったの?」
「ああ、魔法の言葉だ」
それ以上は語らない。喋らないと言った手前、黙っておくのが礼儀であるし、彼のためでもある。
ただ彼女はその答えで納得していないようで、明らかに不満の色を露わにした。
「それじゃああれは何? あいつが言ってたよく分からない言語」
「……話してもいいが、多分理解出来ないと思うぞ」
「い、いいのよ。私にも分かるもの。でも、出来れば分かりやすく……、その。簡単に、とか」
ふむ、と。スートは思案する。そういった要望には応えられるが。しかしスートの脳内にある疑問がふと、湧いて出た。
恐らく彼女の中でまたも聞かれたくない部分だと、そう自覚しながらも。
スートはその疑問を口にした。
「これは言語学の基礎から入らないといけないわけだが、お前さん。学舎には通っているのか」
学舎、という言葉に。やはり少女は反応した。
それも苦々しい、という反応では無く、羨望するような、それでいて諦観している微妙な表情へと変化させる。
「え、えーっと……、学舎には昔通っていたわ。二年間だけだけど」
「やはりか。昨日は夕刻にもならない内に、お前さんと家の前で会ったから変だと思ったんだ。どうして学舎に通っていないのか、という質問は野暮か」
貧乏だから。それは昨日散々聞かされた。
学舎というのは国が営んでいる教育機関だ。通常、生後五年経った少年少女は、そこに入学させられ、十五の年まで教育を施されることになっている。一般的なことから、生徒によっては専門的なことまで、それなりに広範囲に出来るだけ様々な才能を育てる目的がそこにはある。
一般教養や常識なども教え込まれるので、義務教育とされているのだが、年間の授業料が払えない家庭は、止む無く家庭教育となる。
少女もそうなのだろう。二年間通っていたということは、その時期に何かがあったということだ。
ただスートはそれを口にしない。
少女にとって、最も踏み込まれたくない領域だろうから。
「お前さんは、学舎には行きたいのか?」
あの少年二人組と対峙していたことを思い起こす。一人が好意を抱いているということだから、過度な苛めなどは無いのだろう。本人がどのように捉えているのかは知らないが。
「当たり前でしょ。でも、きっとそれは叶わないから」
「通うお金が無いからか?」
「そうよ。例え私とお母さんだけでも、日々の暮らしを生き抜くだけで精一杯なんだから。私だけがしたいことしてちゃ、駄目なのよ」
この少女は。
何処まで自分自身のことを考えていないのだろう。
一体いつ、自分にもそのチャンスがあるということに気が付けるのだろう。
「だから、夕刻まで郵便配達の仕事か」
「え? ああ、これのことね。そうよ、悪い?」
「悪くなんてないさ。寧ろ、感心出来る」
郵便配達員が持つ小袋を、その背に隠す。何も疾しいことなどしていないはずだが、それでも彼女の一挙一動には、人とは違うことをしているという、自覚があるように振る舞われている。
彼女は視たところ十二歳やそこらだが、同世代の学生よりも、どこか雰囲気は異なっていた。
子供らしさの無い、しっかりとした言動が随所に見られるのだ。それは他人行儀になる面でも窺えたし、自分だけのことを考えているわけではない面からも、感じ取ることが出来る。ただやはり子供らしさの方が大半を占めているが。
「しかしお前さん。学舎には、行きたいだけか? それともそこで学びたいことでもあるのか」
「学びたいことは、分からないわ。でもやりたいことは、ある」
「へえ。そいつは良い事だな。それで、やりたいことってのはなんだ?」
そう言い切った彼女の瞳は、強い決意を纏っていた。
学舎にやりたいことを見出している人間などいないだろう。それを見つけているだけで、他の生徒とは違う。
若干の期待を込めて、スートは問い掛ける。
「それは、あいつらを見返すこと!!」
「……ん?」
思わず、訊き返してしまっていた。
彼女はどこか他とは違う、ある種大人びていると言っても良い子供だ。そうスートは勝手に解釈している。
だから、予想外だったのだ。
「悪い、上手く聞こえなかった」
「だから、あいつら、さっき逃げて行ったあいつらを見返したいのよ。このまま負けっぱなしなんて、嫌だから」
「そうか。まあ負け逃げは悔しいよな」
「……どうしたのよ、口元なんか抑えて」
「いや……、何でも無い」
自分の解釈は間違っていた。彼女は、大人に成りきれず、かといって子供にも戻りきれていない。アンバランスなのだ。彼女の境遇が、彼女の精神が。
だから時折大人にも見えるし、子供らしい仕草にもなる。
その不可思議さが、何となく可笑しかった。
「どうせ子供っぽいと思ってるんでしょ。良いわよ。どれだけ笑われたってやってやるんだから」
「悪かった悪かった。だがなるほど、事情は大体分かった」
スートは改めて少女へと向き直る。彼女はお金が無い。スートは煙突掃除がしたい。
答えは決まっていた。
「お前さんの勉強、見てやろうか?」
「え?」
目を見開く少女。思わぬ場所から思わぬ授かりものをした、という具合の表情だ。
「ただしタダじゃない。勉強を教える代わりに、俺に煙突を掃除させる。当然その掃除分の給金は頂く。それが条件だ。それでお前さんをあいつらどころか、学舎中を見返すことが出来るレベルにまで成長させる、というのは流石に無理だがな。一朝一夕で役に立つレベルには、知識を教えようと思う。大体一週間もあれば事足りるだろう」
破格の提案だろう。少女もそれを分かっているのか、すぐに反論することなく、黙って考える仕草を取っていた。
学舎に通う人間の中でも、お金を有り余らせている家は、子供の教育にさらに家庭教師を付け加える。それがいいのか悪いのかはさておいて、その代金は煙突掃除十数回分に相当する。
それが一回の値段で出来るというのだから、破格と言えるだろう。
「私は、良いけど。でもお金が。勝手に決めるわけにもいかないし」
「まあ、そりゃそうだよな」
今この場で決まるとも思っていない。
「お母さんに話してみないと……、あ。噂をすればというか、タイミングが良いというか」
「お、あれが」
丘を登ってくる一人の女性が映った。少女のように赤い髪。さすがにボサボサではないが、癖のある部分などは似通っている。顔は少女からあどけなさと元気を取り除いたような、柔和で大人らしい顔つきだった。
やがて、その存在との距離が縮まる。
「どうも、煙突掃除屋のスートです」
突然の訪問だったが、しかしその女性は笑みを崩さずに、挨拶を返した。
「こんにちは。ご丁寧にどうも。クレア=プレフィと言います」
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