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大通りの先に煌々としたネオンが見えてきた。朱塗りの巨大な門の額には華西街観光夜市と書かれている。
「台湾には夜市がたくさんあります。毎日店が開いていて、とても賑やかです」
大友に連れられて門をくぐる。香ばしい匂いに食欲をそそられる。店先に出したテーブルを囲む客たちが大皿料理をつつきながら談笑している。若者を中心に大勢の客が行き交い、ノーヘルのおっさんが乗ったスクーターが堂々と走り抜けていく。ここは中心部から外れていることもあり、観光客よりも現地の人たちが日常的に集まる夜市だという。長瀬は祭のような喧噪と活気に圧倒される。
台湾家庭料理の食堂の他に、すっぽん専門店や新鮮な果物を並べたフレッシュジュース店、ドラッグストアに天然石の店、大人の玩具店と雑多な店が軒を連ねている。マッサージ店も多く、ガラス越しに等間隔に設置された椅子に座ってマッサージを受ける様子が見えた。
「うっ、なんだこの匂い」
真夏の饐えた下水のような匂いに長瀬は顔を歪める。
「臭豆腐ですよ。発酵させた豆腐。匂いは癖があるけど、食べると美味しいですよ」
大友は日本にも納豆という食品があるでしょう、と言うが納豆とは比較にならない桁違いの臭気だ。できればこの匂いが漂ってこない場所で飯を食べたい。食欲に影響する。
大友は夜市中程の食堂を選んで席に着いた。注文は用紙に書いてあるメニューリストにチェックをつけて店員に渡す方式になっている。
「長瀬さんは台湾が初めてですね、いろいろ食べましょう」
料理は大友が見繕ってくれた。小籠包に魯肉飯、水餃子、ヘチマとあさりの炒め物がテーブルに並ぶ。小籠包は肉汁がたっぷり、箸で摘まむとのびるもちもちの皮、酸味がきつめの醤油につけて食べると旨味が引き立つ。
「日本の有名店で食べたのより美味しい」
それにコスパも断然良い。これなら毎日食べたいほどだ。魯肉飯は刻んだ豚肉を甘く煮込んだ具材をご飯にかけたシンプルな丼だ。豚肉の濃い味が白飯に合う。水餃子は蒲田の餃子店の水餃子と張るくらい美味い。蒲田の餃子レベルが再確認できた。
「台湾ではへちまは野菜としてよく食べます」
長瀬はへちまを食べるという概念が無かったので、目から鱗だった。へちまはあさりの旨味がよく染みており、柔らかく優しい味わいだ。食後に
シャッターを閉める店も出てきて、気が付けば人通りが少なくなってきた。時計を見れば、夜九時をまわっている。
「これから人に会いに行きます」
大友は頃合いだとテーブルを立つ。
華西街観光夜市を後にして、地下鉄の駅名にもなっている龍山寺に立ち寄った。長瀬は金色の光にライトアップされた煌びやかな装飾の寺院に圧倒される。反り返った屋根には龍や鳳凰や吉祥を表わす動物がこれでもかと載っている。左右の太い柱には龍が巻き付いていた。本尊も目に眩しいほどの金色に彩られている。龍山寺の建築を目にして、長瀬は天道聖媽会の本堂を思い出した。竜仙は台湾の寺院に倣って本堂をデザインしたことは確かだ。
龍山寺を出てシャッター通りのアーケードを進むと、浮浪者が段ボールを敷いて横になっている姿が目につくようになってきた。へそピアスをして腹を出し、ホットパンツを履いた女性の姿も多い。
「台湾の女性は大胆な格好なんだね」
「彼女たちは売春婦だよ。残念ながらこの辺は台北でも随一治安が悪い場所なんだ」
確かに、浮浪者に売春婦がこれだけ並んでいるのは壮観だ。今の歌舞伎町でもここまでの場末感は無い。マフィアも多いのだと大友は教えてくれた。ところどころ警察官が立っていたことに合点がいく。表通りはまだ良いが、狭い裏路地の奥は暗闇で見通しが悪く、入り込んだら中で何が起きても分からない。長瀬が興味本位で路地を覗き込むと、男が女の腰を抱いてふざけ合っている姿があった。この後きっとお楽しみなのだろう。
こんな場所で大友は一体誰に会うのか、長瀬は不安になってきた。大友はスマートフォンの地図アプリを確認しながら歩いていく。路地を探しているようだ。
「ここだ」
大友が足を止め、暗い路地に入っていく。黒ずんだコンクリート壁の狭い路地の圧迫感に長瀬は怖気づく。頭上にぽたりと水滴が落ちて、身体を強張らせる。頭上にあるクーラーの室外機から漏れた水が落ちたのだ。地面を見れば黒い水溜まりが出来ている。そういえば、室外機を壁にそのままむき出しで設置する光景は日本では見られないが、こちらにはそういった規制は無いようだ。
路地は不規則に曲がりくねり、迷路のようだ。次の曲がり角の先に仄赤い光が見えた。そこは突き当たりで、狭い空間に簡素な廟があった。赤色のサテンの布を張り巡らせた金色の天蓋と台座。台座には鮮やかな赤地に金色の刺繍が施された煌びやかな衣装を着せた女性像が鎮座している。像の前にはパイナップルやりんご、マンゴーなどの果物が備えてあった。香炉に線香が焚かれ、暗闇に細い煙が立ち上っていく。
「ここは媽祖廟。この周辺で客を取る女性たちが安全祈願にやってくるそうだよ」
売春婦たちはマフィアが元締めとはいえ、客の暴力や病気の恐怖など多くの危険に晒されている。好き好んで身売りをしているわけではない女性もいるだろう。そんな身の上を思うと、この小さな廟に参拝する女性たちにやるせない情が湧く。長瀬も両親の離婚から過酷な貧困生活を味わった。長瀬はそこから脱出し、神仏を信じなくなった。
「
大友が廟に向かって呼びかけていると思いきや、廟の脇に腰を丸めた小柄な老婆がちょこんと座っていた。随分高齢なのか顔はしわくちゃで、垂れ下がる瞼に目が埋没している。
「彼女は昔からここを守っているんだ」
どれくらい昔なのだろう。ここにいるということは、彼女もまた同じ苦しみや哀しみを知っているのだろうか。大友は老婆の正面にしゃがみ込み、北京語でゆっくりと話し始めた。長瀬には何を言っているのかまったく分からない。老婆が皺に埋もれた唇を動かして何やらもごもご呟いている。大友は真剣に頷きながら老婆の言葉を聞いている。長瀬はそれをただ固唾を呑んで見守る。
大友の言葉に、前後に揺れていた老婆が動きを止めた。ゆっくりと数珠を持つ手を合わせ、深い皺の間から涙を流し始めた。
「多謝、阿嬤」
大友はゆっくりと立ち上がり、長瀬に向き合った。
「おばあちゃんが蠱術師のいる場所を教えてくれた。祖母のために泣いてくれている」
彼女は麗子の古い知り合いなのだという。大友は小さな廟に線香を上げ、両手を合わせる。長瀬もそれに倣い線香を上げて麗子を悼み、この旅がどうか実を結ぶように祈りを捧げた。蝋燭の炎に照らされた素朴な媽祖像は、すべてを包み込むような優しい笑みを浮かべていた。
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